二十五章



 徐々に衰弱していくのを感じつつ気怠い微睡まどろみから目覚めた。瞼を開いても闇だ。

 起き上がるのに文字通り骨が折れそう、体の重心がぐにゃぐにゃとして覚束なかった。何日過ぎたのかも分からない。初日に何梅に食糧をもらってから以後飲まず食わず、頭の中が多孔綿わたになったみたいにすかすかとして何も考えられなかった。ただただ、喉が渇いた。飲み込む唾も無い。再び倒れ込み、咳をして皮がめくれた唇で浅く呼吸する。


 ちかりと光が射してうつろに視線を向けた。縄をつたい、するすると下りてきたのは何梅で、無言で葛斎を起こし、ふくろの口を宛てがう。

 水だ、と分かって夢中でがっついたが、なまぐさい臭いが鼻腔に抜けて次には吐いた。

「なんだ……これ……」

まむしから絞った血だ」

 声にびくりと体が撥ねた。てっきり何梅だと思ったらあろうことか自分を支えているのは可敦だった。

「飲まないと死ぬぞ」

「い、いやだ…………」

 抵抗もむなしく流し込まれ、むせびながら飲み下す。胸が悪くなってえずいた。

「不味いだろう。我々はかつての大飢饉の際、ほとんど水のない生活を強いられた。獣の生き血を啜り、雨水を貯めてなんとか生き延びた」

 血で汚れた葛斎の口を白い手が拭う。

「――――五十万」

 額を合わせ、長い睫毛に縁取られた奥、光のない眼睛ひとみが葛斎を射抜く。

「四年間で五十万人、男も女も子どもも老人も死んだ。分かるか、葛斎。……とむらいが間に合わないのだ。墓穴を掘る体力も気力も残っていない。ひつぎも足りず、焼いてやる薪もなく、傍らで腐り朽ちていく己の家族に蝿がたかりうじくのを為す術なく見届けるしかない。無力で惨めで死んだほうがましだと自分を呪い、それでも死にきれず蛇の血を夢中で舐めさらい、這いつくばりながら蟻を食べて生き延びた私たちの地獄が、お前に分かるか?」

 今でも夢に見るのだ、と滂沱と流れる葛斎の涙を指の背ですくう。

「私の娘のうち、二人はあの飢饉で死に、それからも四人失った。皆可愛らしくまだ幼かった。一族にはよくあることだが、原因は明白だ。この地には新鮮な大気も水もない。半分は極寒の雪に凍り、半分は乾燥した猛暑に焦がされる、生きてゆくには厳しすぎる霧界むかいの裂け目だからだ。……助けてくれるか?憐れと思ってくれるか?私たちを」

 恐怖と衰弱で錯乱し必死で頷く。可敦は離れた。彼女の頬もまた濡れている。

「可敦さま……ここから出して……お願いします……」

「出してやってもいいが、条件がある」

 どさり、となにかが上から落ちてきた。微かに呻いた塊に驚愕する。

「か……何梅……⁉」

「何梅は私に逆らいお前を逃がそうと画策し私を襲った。娘といえ刃向かった罪は償わせねばならない」


 可敦は立ち上がり腰の短剣を抜き、葛斎の前に放る。


「お前がここから出たいなら何梅を殺せ」

 それが条件だ、と顎をしゃくる。

「なに……言って……」

 何梅は荒縄で巻かれ横たわっている。乱れ髪の間から葛斎を見上げたが何も言わない。

「お前は一泉の湶后になって私の革命を援助してくれる。了承した。それを証明しろ」

「それが、何梅を殺すことだと⁉」

 、と頷くかおはなんの色もない。

「そうすればお前は自由の身だ。家まで送り届ける」

 後退あとじさり、必死で首を振った。

「いやだ――いやだ!」

「ならば、お前はここで死ぬぞ」

 抵抗するも強く腕を引かれ、短剣を握らされる。

「やめて……‼」

 可敦が足で娘の体を仰向けにした。何梅にじっ、と見つめられてぎらつく刃が小刻みに震えた。

「ここから出たくないのか?綺麗な水を飲みたくはないか?」

 錆びた血の味が残る口中が粘つく。胃が不快にむかむかしてまた吐きそうだった。荒い呼吸を繰り返し、眩暈めまいを感じながら犠牲を見下ろす。友は――――目顔で頷き、瞼を閉じた。


 ここで彼女を殺さなければ自分が死ぬ。こんな穴の中で。では、今までの自分の努力は?時間は?知識は?

 もっと遷氏せんしと遊びたかった。もっと父と街歩きを楽しみたかった。時を忘れてお喋りしたかった。乗馬がもっと上手くなりたかった。悪戯いたずらしてみたかった。思いきり駆け回ったり池で泳いでみたかった。

 今までの我慢は?自制は?忍耐は?いったい何の為にしてきたと?

(私が消えたら全て無意味になる…………)



 ――――私も大好きよ。



 長く、長く息を吐き出し、止めた。両手で握った短剣を腰に据え、それからくるりと反転した勢いのまま、体ごと突き出した。


 手応えがあった。


 鋒先きっさきは大きく膨れた腹に吸い込まれた。懐に飛び入り押し倒し、柄から手を離せず、目を開けるのも怖ろしくてただ自分の荒い呼吸を聞いていた。

「か……何梅。逃げよう、逃げよう!」

 可敦が倒れているうちに、早く二人で逃げよう。しかし動けない。ぶるぶると震えたまま指が開かない。どうして、と焦ったとき、それを片手でゆっくりと包まれて跳び上がった。


「驚いた」


 驚いたのはこっちだ。たしかに腹に刺したはずなのに、と慌てて見れば、刃先は衣を裂いたのみで横滑りし、刀身はもう一方の手でしっかりと受け止められていた。だが血は流れていない。腹にも傷一つない。

「え……え、なんで、どうして……?」

「――すまなかった、葛斎。許してくれとは言わない」


 可敦は葛斎を抱きしめ、次いで深々と腰を折り額を足の甲に当てた。


「ただ私はお前がどれほど本気で何梅や私たち角族のことを考えてくれているのか少しでも知りたかったのだ。何不自由ない生活をしてきたお前がなぜ何梅の言葉を鵜呑みにしてこの世の摂理を崩すのに協力してくれるのか、そのことがどういうことなのか本当に理解しているのかと確かめたかった」

「そ、それより、傷が……何梅が……」

 可敦は身を起こし、葛斎から短剣を取り上げると自分のくびに当てた。

「だめっ‼」

 すっ、といだ動きに悲鳴をあげた。が、肌にはうっすらと赤い線が走ったのみで、みるみる塞がっていく。幻を見たのかと目を擦る。

「…………?」

「葛斎。これが我々が見せてやれる奇跡だ」

 可敦はさらに袖をまくり、短剣を突き刺す。しかしやはり刃は肌を逸れてしまう。薄い傷跡は消えていく。


「強靭な皮膚と肉――鋼兼ハガネの力。我々が授かりし天祐てんゆうだ」


 いつの間にか縄を解いた何梅がへたり込む葛斎を支えた。

「そして母上様にはもうひとつ、強大な力がある」

「手放しで褒められるとむずかゆいなあ」


 いきなり声が響き、暗がりから男が出てきた。姿に口を押さえる。


「――――ち、父上⁉なに?どういう」

「これは母上様の下僕。麅鴞ホウキョウ


 父の姿はみるみるうちに溶けて今度は遷氏になり、瞬きの間に母になり、崔萃さいずいになった。


「泉国では饕餮とうてつと呼ぶ伝説の大妖。天門への介入は今のところこういった九子とちぎりを交わした者しか出来ないとされているわ」

 見知らぬ小さな童女に豹変した麅鴞は無邪気にあるじに飛びつき、腹に頬ずりしてにこにこと笑った。どことなく何梅に似ている。

「私の六番目の妹。とても賢かったのだけれど風邪をこじらせて死んだの」

「……奇術を見せられているようだ。どんな姿にもなれるのか?」

「いいえ葛斎様。長く姿を留めておくには、」

「もうよい、麅鴞」

 話そうとしたのを遮り可敦は改めて葛斎の前に膝をつく。

「怖い思いをさせ、痛めつけてすまなかった」

「あ、の……萃兄さんや、家は」

「全て私のはったりだ。あれから四日経つ。さぞ心配しているだろう」



 久しぶりに陽の下に出て昏倒した。醸菫水じょうきんすいもほとんど口にしていなかったからだ。小屋に運ばれ、手当てを受け寝かされた。



 何梅に額を撫でられ朧に意識を取り戻す。可敦はいずこかへ出ていったままいない。

「……何梅。なぜ私に斬られてもいいと頷いたんだ?」

「私も鋼兼だからよ」

「それでも、もし斬ったら私が殺意を向けたということには変わらなかった。裏切りだ。そうしたらどうするつもりだったんだ?返り討ちにした?」

 何梅は相変わらず謎の笑みで首を傾げた。

「傷つかないと分かっていたから怖くなかっただけ」

「それでも心は傷ついたはずだ………私は、初めから信用されてなかったということ?」

 悲しくなり問えば、違うわ、と手を握られた。

「いくら鋼兼でも肌が裂ければもちろん痛いわ。私はあなたが私に剣を振らないと信じていたから怖くなかったの。だから、瞼を閉じた」

「だから?」

「あなたは私を殺そうとせずに自刃してしまうんじゃないかと予想してたの。それは見たくなかったのよ」

 でも、と微笑む。「あなたは至極正しい選択をしたわ」

「正しい、選択」

「私たちの道は困難をきわめる。大多数の誰にも理解されない苦難の試練よ。ひょっとしたら露見して泉民すべてから糾弾され攻撃されるほどのことだわ。それでも、やり遂げなきゃならない。窮地におちいったとき、自ら命を絶ってしまうような弱い者はこの任を務めることは出来ない。……ああ、その点ではあなたのことを侮っていたわ。ごめんなさい」

「可敦さまに敵意を向けたのは、怒ってないのか?」

「なぜ怒るの?あの場合、母を殺さなければあなたは死んでいたのよ?あなたは正しく自分が生き残れる方法を考え行動した。だから母の信用を勝ち得た」

 忘れないで、と肩を撫でる。「泉宮せんぐうに行っても、誰が味方で誰が敵なのかを見誤らないで。強くあって、葛斎。渇きと苦しみを知ったあなたなら出来る」

 葛斎は息をついた。

「本当に……苦しかった。この四日。何梅たちはこれを四年も耐えたんだな……私だったら気が狂っていた」

「いろんな人を見たわ。本当に悲惨だった」


 何梅はそれ以上は語らず口をつぐんだ。大飢饉の時、彼女はまだほんの幼子でおそらく何が起きたかも分からず飢え渇いた。植え付けられた恐怖はそう簡単には拭えない。またいつ、水が失くなり争いが勃発するのかと心が休まらないだろう。多分、と葛斎は表情のない白い顔を薄目で眺める。穏やかな外面とは裏腹に生命を脅かされる壮絶な経験を幾度も潜り抜け、こうして今に至っている。生きると強く決めているその熱意が――命の輝きが葛斎とは雲泥の差で、こちらはそれにせられ惹かれているのだと思った。


 今の自分には言葉においてしか誓えない。

「私は、きみのためならなんだって出来るよ。愛しているもの」







 それからまた眠ってしまい、人の騒がしい声に気がつくと目に飛び込んできたのは化粧が剥がれ落ちた実母の顔だった。

「ああっ!目が覚めた‼誰ぞ医者を、はよう!」

「私…………」

 先ほどまで何梅と話していたはずだ、と身を起こそうとしたが力が入らずかなわなかった。

「小妹!」

 医者と共に飛び込んできた崔萃がほっとして膝をつく。

「良かった、本当に」

「兄さん、私どうして」

 崔萃は憔悴しきった顔で深い溜息をついた。

「あれから君は一向に戻ってこなくて、あちらこちらと探して大騒ぎだったんだ。そうしたら今朝、あの雑木林の崩れた家の脇で誰かが倒れてると連絡が来てね、駆けつけたら君だったんだ」

「崩れた家……?」

「きっと時に老朽化した柱やら壁やらが崩れて運悪く下に君がいたんだ。でも良かった、大きな怪我もなくて」

「もう二度とあんなところへ行ってはなりませんよ‼」

 母がおいおいと泣き出し、下女たちに慰められつつ連れて行かれる。葛斎はこっそりと崔萃の袖を引いた。

「ね……私の他には?だれか、いなかった?」

 問えば動きを止め、沈痛な面持ちで眉間を押さえた。

「小妹、いや葛斎……いまは」

「もう大丈夫だから。ねえ」

「…………男の遺体が、瓦礫の中から見つかって」


 葛斎はひゅ、と息を止めた。――――あの、変なにおい。


 崔萃は勘違いしたまま首を振る。「とてもひどい有様で、すぐに弔われたよ…………残念だった。葛斎、気を落とさないで」

「…………う、ん…………少し、独りにして」


 兄は寝不足の充血した目で頷き、退室してくれる。葛斎はばくばくと鳴る胸をきつく押さえた。


(あのとき…………)


 何梅は抜け道の入口まで迎えに来てくれた。

 本当は廃屋の中で待っているつもりだったのでは?

 浮浪者と鉢合わせたのなら抜け道を知られたはず。

 白い頬にこびりついていた泥。あれは……本当に泥だったのか?


 不安でたまらなくなり飛び起きた。いつものように止まり木に目を向け、違和感に気がつく。

「鷹がいない…………」

 そういえば、何梅らと合流してから飛ばしていてその後、窰倉くらに落とされて。



 何梅は本気だ。最初から。



 いつから。知り合った時から?湶后になる家の娘だと話した時から?


 自分がとてつもない時流の渦の中にすでに飛び込んだのだとそそけ立った。何梅は傍から見ればたしかに弱小民族の一人の娘に過ぎない。しかし強大な運と力を持つ。彼女自身が渦をつくり、他者を引き込む。

 彼女の天命という渦に。

 水を交わらせた者はどうあっても逃れることは出来ない。


 誰が味方で誰が敵なのかを見誤るな、と言った。強くあれと。それはつまり今後、葛斎も自らの手で誰かを失わせる覚悟を決めろと、そういうことだ。何梅が危機に瀕し、己の命と天秤に架けたあの時、葛斎は元凶である可敦を葬ろうとした。何梅を守りたかったし、自分も死にたくなかったから。


 しかしこれからは相手が愛する何梅でなくとも、誰かと誰かを比較してどちらかを殺す、そんな選択をしなくてはいけない時が必ず来るのだ。その時、誤らず正しく旗を振れるか。

 ああ――だからあの二人は私をたばかったのか、と納得した。弱い者は初めから信じるに値しない、この重圧に耐えきれる者でなければこの世の摂理に首を突っ込む資格もない。生命いのちに優劣を付け選別することを尻込みする者に背を預けられはしまいぞと、そう伝えたかったのだ。


 空の止まり木を見上げ、静かに深呼吸した。

 もう守られるだけの子どもではない。自分の前には重なり合う二つの道が敷かれた。一方は定められた天命の、もう一方は掴んだ運命の道。

 体と魂が一つであるかぎり、二つの道は相互に響き合い分離させることは不可能、良くも悪くも作用し軋轢あつれきを生む。もしかすればどちらかを裏切ることにもなる危険な航路だ。


 しかしかじをきる勇気はすでにある。


 たとえ秘密を抱え何十年ただ一人でいても、決して孤独ではない。

 すでに手を取り合った。

 救世者に見初められた以上に誇ることなどありはしないのだ。







 後日、倒壊した廃屋の跡は更地になったと聞いたが、取り除かれた材木の下に地下道などなかったらしく、たしかにあったのだと訴えれば夢を見たのだとか、頭を強く打ったのではと心配された。何梅と可敦が露見を防ぐ為に埋めたのかもしれない。



 事件はそこそこ大事だったものの母お得意の箝口令により入内には影響なく、年を跨いで齢十五、晴れて正丁せいじんとなった。二月吉日、私はこの国の王、廓天かくてん泉帝一泉国王一泉主、姜湾きょうわん陛下に輿入れした。

 泉主は御歳二十八、良く言えば温厚、悪く言えば愚鈍な王で国政に関心がなく臣下に任せきりの、昼間から後宮に引き籠もるような方だった。私が宮に入った時にはすでに寵愛あつい妾妃は世継ぎを産んでおり、我が物顔で後宮を取り仕切っていた。しかし大した後ろ盾なく位も低すぎて湶后に登る承認は得られずじまいで、結局私がその座をかっさらってしまった。おかげでたいそう恨まれた。


 しかし私にも、嘱望されていた男子が生まれた。三年後のことだ。妾妃が先んじて儲けた王太子に続き第二公子として立てられた。

 入内してからというもの、角族からの接触は全くなかった。





 待ちに待ったものが飛んで来たのは出産から半年ほど経ってからだ。

崔妃さいひ様、庭の木に鷹が住み着いております」

 宦官の言葉に私は書類を放り投げて内院へ急いだ。


 水目みずめの大木に止まった懐かしい大鷹はこちらを見つめている。広袖を腕に巻きつけて差し出せば滑空して降りてきた。

 間違いなく、何梅からもらったあの鷹だ。思わず涙腺が緩み顔を寄せた。片肢かたあしに小さな小さな輪状の革筒かわづつ

 下官に見られないよう取り外し、飼うと宣言して中に連れて行き、一人になって改めて丸められた文を開いた。


 文は二つ。ひとつは何梅のもの。出産の言祝ことほぎと近況、一族内でいざこざが耐えず、当主候補になるのにしばらく時間がかかることなど。

 もうひとつは可敦のもので、短く簡潔でしかし脳裡に浮かんだ面影がそのまま話し出しそうなほど彼女らしい文面。


『あまねく耐え、すべからく希望せよ。我々の宿願が成し遂げられるその時を焦がれて待て』


 私に運命を思い起こさせた。


 そしてさらにしばし、時は何事もなく過ぎていった。







「もうあれはお前なしではいられない」

 母に言われて微笑み、文を火にべる。

「葛斎はいい子です。私に与えられただけはある」

「さて、初心を忘れていないと良いが?」

 それはありませんわ、と娘は自信満々にふっくりと微笑み、小さな妹をあやす。煙を味わっていた可敦は寝転がったまま目を細めた。

「我が娘ながら同じ女まで籠絡するのだから末恐ろしいことよ。葛斎は味方のいない後宮でただお前の文だけを心待ちにする。どころになる。もうお前の運命と絡まりあって剥がれぬわ。菟丘ねなしかずらのようにな」

 乾いた笑いをこぼし、己の下僕に煙管きせるを放った。

「さて何梅。お前が『選定せんてい』に漕ぎつけるのはまだまだかかりそうだ。それまで九子を下さずぶらぶらさせておくのはもったいない」

 何梅は人と同じように煙を吐き出す男をちらりと見る。「私は必ず麅鴞を仕留めます」

「いや、まずはまともにやり合って勝てるようなのにしろ。これはそう簡単には捕まらないぞ」

「けれど、麅鴞がいれば一泉にかぎらず他の天門も開けられます」

「それはそうだが命を落としては目も当てられない。腕鳴らしに父と同じものでも捕まえておいで」

 何梅は不満そうだ。

「私にはまだ力が足りないと?」

こつを掴めと言っているんだよ。そして私はお前が幻をおぼえていられるかどうかに興味があるのだ。あれはた者でなければ決して分からないからな」

「私は母上の長子です。絶対に失敗などしません」

 だといいがな、と内心肩を竦めた。男がきゃらきゃらと笑う。

「頑張ってくださいね、何梅様」

「なぜ母上様に下ったのか教えなさいな」

 ふむ、と妖は首を傾げ、それから眠る赤子に舌なめずりした。

「強いて言うなら美味しそうだったからです」

「聞いた私が愚かだったわ」

「どうして、どうして。私はいまとっても譲歩しましたよ、ねえ、ぬし様」

 可敦は欠伸あくびしてみせた。「何梅、そう難しく考えることはない。『選定』は八割がた運で決まる。あとの二割で己の力量が試されるのだ」

 麅鴞の突き合わせた両膝にごろりと頭を預け、下から手を伸ばし頬を包んだ。

ちぎる、と言うだろう。たぶんそれは人のそれと同じようなものだ。私は生憎あいにく、熱烈に誰かを慕ったことはないが、下したものは自らに最も近しいと感ずる。人でないのに、だ。まあ、要はこやつらに己を惚れさせれば良いのだ」

「うふふ、私も主様だぁいすきですよ」

「うるさい黙ってろ。……何梅、お前に足りないものはお前が一番良く分かっているはず。九子は力量不足と判じた相手とは決して契らぬ。必ずぴったりちょうど良いものがいるのだ。くんじゃない」


 彼らはいつでも半双かたわれを待つ。それが彼らの宿望こがれだから。


「天にかかわる一切のことは長い目で見ねばならない…………が、人の生とはまこと短い。到底足りない」

「それでも、私たちはせいぜい生きて八十の命。限られた時の中で最良の選択をし後世にのこすものは最大でなければ」

 可敦は娘にながしめした。

「ほんにそう思うか?」

「え?」

「もし寿命を延ばす方策があるとすれば?」

「そんなこと……」

 否定しようとして黙る。母はまた何か考えている。平然とした顔の裏でとんでもないことを企んでいる。

 敵わない、と力を抜いた。祝穎ほさきの御方はやはり並の人ではないのだ。麅鴞――饕餮など化物以外の何物でもない。それを下すのは同等以上の化物しかありえない。

「また九泉へ行く。留守を頼んだぞ」

 はい、と恭しく頭を垂れた。越えることははなから出来ないと知っている。せめて、並ぶくらいにはなりたいと願うばかりだ。


 自分は鬼にならなければならないと幼い頃から覚悟してきた。そろそろ本腰を入れる。

 再び上げた顔にいつもの微笑みをたたえてみせた。

「父上様のことは万事お任せ下さい」

 必ず蹴落として、私が王になる。そう、決めた。




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