二十四章



 葛斎は幼い頃から膨大な書物を読まされ、読んできた。崔家は文官の家系だ。宗家も分家も倉には山積みになるほど所蔵の古文書には事欠かない。童話や手習い書に始まり、政学農学、数術医術、天文、易爻えきこうに至るまでありとあらゆる物事に精通せよと叩き込まれた。


 高貴な女が必ずしも無知のままでいる必要はない、というのが母の持論だった。彼女は官位を得ているわけではなかったが現に崔宗家の家公として政界でも絶大な権力を握っている。褒め称えられ愛でられるのは若くて美しい一時だけ、臈長ろうたけてからが勝負どころ、世を回す国の中枢には断然男が多く、女の意見は疎外されがちで、その中で力を持つには自身にも高い教養と格段の器用さが求められる。上手く立ち回らねばすぐ潰される。それを母は理解していた、だから娘の葛斎にもそう教えた。


 いま冷静になって思えば、夜な夜な母が着飾って出て行くのはなにも情夫に献媚こびるためだけではなかったのだ。入内の話が円滑に決まったのも彼女がほうぼうに働きかけた所以ゆえんだ。言い続けていた望みを実現させる手腕を実際に持っているというのは娘からしても脅威だった。なぜなら葛斎はそのお陰で並びない権力を手にする代わり、これからさき母ら崔家の意向にはどうあっても逆らえないということだからだ。

 逆らうつもりはない。しかし理解はしていてもそれだけは心が暗くなる。傀儡かいらいとしての生はたぶん今より楽しくはないだろう。

 そこに一筋の光明を射してくれたのが何梅だ。葛斎がすがるべき別の『糸』を繋げてくれた。もうひとつの人生を。それも心浮き立つ壮大な。





「一般に信じられているのは水伯すいはく天呉てんごといった水の神です。そして泉主はその子孫。妥当だと、思いますが……」

「が?」

「水伯は一説に虞虎ぐこなる幻獣だと聞き及びますが実際にまつられている姿は虎でなく、たつという、言うなればさっきのサイを大きくしたような神です。黎泉れいせんは世界の北にあり、水は必ずそこから流れてくる。東南西北で最も重んじられるのが北なのはそのせいです。家では北窓に祭壇をつくります。宮では北壇ほくだんで大祭が行われます。つまりはもし神が本当におられるのならばそれは玄冥げんめい……またの名を禺疆ぐうきょうという北主神なのではないかと。水神でもありますし、こちらのほうが納得できます」

「泉国の書物にも神の正体についての確かな文献は無し、か」

「あの、九泉主とよしみがおありなのですよね?九泉は太古の昔から不変の地だとわれていますが、あちらではどうなっているのですか」

 可敦は鼻白んだように目を眇めた。

「あれは虚偽うそを吐かないが真実まことを隠す。味方にはなり得ない。敵かどうかはいまだ判断つきかねている。真の神については語らず、欠片はくれてやるが己らで嵌め合わせてみせろと言うのだ。いつもな。のらりくらりと生ぬるい奴なのだ。……禺疆か、なるほど。信憑性はある。まあ神が何にせよ尻を叩いて、早く毒を晴らしてもらわねば困るのだけは確かだ」

「…………本当に、そんなことが出来るのですか」

「疑っているの?」

 ひたりと何梅に問われ、いや、その、と口ごもる。可敦は笑った。

「信じろというほうが難しいさ。そもそも神なんているのか、天に門なぞあるものかとな。私もそうだった」

「信じてないわけではありません!ただ、自信がなくて……自分に」

 そうだな、とさらに可敦は頷く。しばらく黙って見つめ、ニィ、と口角を上げた。


「――――実はな葛斎。お前の兄には刺客を送った」


 沈黙が満ちた。いきなり何を言われたのか分からず美しい顔をまじまじと見つめる。そちらは虚無の笑みをたたえたまま。

「えっと……?」

「今ごろは土の下だ」

「え?」

「崔家は一泉を牛耳るほどの勢力だということは私も聞いているよ」

 ゆうらりと立ち上がった背は高い。にわかに恐怖が昇ってきた。

「は?……え……え、なん、で…………」

「お前のことも調べさせた。入内する娘で間違いないようだ。崔遷にも裏は取った」


 近づかれ、思わず逃げようとした。だが足が立たない。腰が抜けたのかと焦ったが腕も上がらない。舌が痺れて声も出せない。この茶――今さら悟る。


 左手のすらりとした白い指に頬を撫でられる。一本欠けた、その付け根が当たる感触に発汗した。

「とどのつまり、現状、崔家の最大にして唯一の弱味はお前だということだ」

「母上様、何をなさるおつもり」

 庇って何梅が前に出た。今まで毛ほども変わらなかった表情が険しくなっている。

 そんな娘を見下ろして可敦は酷薄にせせら笑う。

「葛斎を人質にする。崔家に圧力をかけて奴らをり人形にする」

「崔家を通じて、はては一泉朝廷を動かすということですか?」

「そのほうが水を得るのが早いからだ」

 何梅を押しのけ、身重とは思えないほど軽々と葛斎を抱え上げた。

「葛斎。我々は泉国と同盟がしたい」

 見つめられても受け答えできず耳の奥で言葉が反響するだけだ。震える体は言うことをきかない。

「手を結べば少しでも新鮮な水を分けてもらえる。荒々しい手段に訴えずとも合理的に良い水を毎日飲める」

 だが、と嘘くさい困り顔をしてみせた。

「今までの所業からして一泉のお方々は我々を許しはしないだろう。伏して拝もうと野垂れ死ねと石を投げられるだろう。我々とて水があればこんな風に生きてはいなかった。仕方のないことだったのだ」

 小屋の裏には巨大な四不像しふぞうが繋がれており、可敦は葛斎を乗せる。何梅を呼んで支えさせ、自分はどこからかまた現れた豺に跨る。

「お前の母はお前を湶后に仕立て上げさらに盤石な立場を得ようと躍起になっている。お前を通じて王を、国を動かそうとしているのだ。ならば我ら一族が安寧を得るため一役買ってもらうのも安いものではないか?」

「葛斎を誘拐したと知らせて、要求を飲んでもらうというわけですね」

 何梅の声音には軽蔑した雰囲気があった。葛斎を心配そうに揺らし、小さく詫びる。

「ごめんなさい。こんなことになるなんて」

「何梅。正直、お前が新たな当主になるまで待つのは悠長すぎる」

 森の中を併走しながら可敦は冷ややかに言う。「機会をひとすくいも逃したくはない。勝つ見込みがあるのなら何にだって賭けるさ。それに、これは運命さだめだ。たまたま国外へ散歩に来た小娘がまさか未来の湶后で、一族の王になる予定のお前と遭遇した。そんな偶然などありはしない」

「ひどいわ、母上様。葛斎は私の親友なのよ」

 ついに何梅が声を荒らげた。「同盟なんて、互いの信がなければ成り立たないわ。私は葛斎を利用するのは反対です!」

「いいや。信がなくとも成立する。まつりごととはそういうものだ。互いの利害が一致すれば白が黒に、黒が白になるのだ。お前が反対でもなんでももう遅い。私の配下を崔家へ向かわせた。あれは便利な抜け道だな」

「ひどいですわ、そんな!」

 何梅はさらに母親に反論していた。それを葛斎はただ聞いていることしかできず、恐怖と裏切られた事実に涙を流す。後ろから包んだ腕に力がこもる。

「ごめんなさい。ごめんなさい」

 これほど苦渋に満ちた何梅は初めてだ。きみは悪くないと言いたかったが、合わない歯の根でかちかちと鳴くことしか出来なかった。



 随分と高地に来て霧がさらに厚く垂れ込めた。ひらけた閑地に出る。こぢんまりとした平原には所々に蓋のようなものが埋められていた。


窰倉そうこだよ。備蓄を入れておくものだ」

 そのひとつを開ける。再び葛斎を抱えて可敦はその穴に近づき、囁いた。

「大丈夫だ。痺れはもう少ししたら消える。殺しはしないよ、大事な人質だからな。まあ、でもそれもお前の母御前ははごぜ次第だがね」

 支えが無くなる。落ちる、と衝撃に耐えたが体はなにかふんわりとしたものに受け止められてから寝藁の上に着地した。

 風が揺らぎ、形の定かでない黒い影が壁づたいに出ていった。呆然として見上げた空、見下ろす可敦の首筋に剣が突き出る。

「母上様、やめて」

 背後の何梅が怒りを抑えつつ硬く言い放つ。母は振り向きもしなかった。

「言ったろう。もう後戻りは出来ないのだ」

 悲鳴と共に剣は消失する。かすかに尾のような影が空を横切った。何梅がほんの少しだけ削ぐことに成功した赤い髪の柔毛にこげがふわりと落ちてきた。

「葛斎、叫んでもここには誰も来ない。おとなしくしておいで」

 重い音と共にまるい月が欠けていく。光は徐々に細まり、闇に侵されて消えていく。やめて、と言いたかった。遠くで友が自分の名を呼ぶのが聞こえたが、叫び返すことも不可能だった。





 言われた通り体の不自由はいくばくもしないうちに解けた。とはいえ大きな穴の中は真っ暗で床や壁に手を這わせて把握するしかない。しばらく助けを呼んだが徒労に終わった。

 寒くて仕方なく、藁の上に敷かれていた分厚い裘布ぬのにくるまる。どこからか空気は入ってきているのだろう、すうすうと風が通っていて余計に寒い。改めて泣いた。まさかこんなことになるなどまったく想像していなかったのだ。


 崔萃さいずいが殺された。何梅はどうなったろうか、家の者はどうなるのか。悲しみと焦りで塩辛い水がとめどなく溢れる。無音で視界もなく混乱したままこぶしが痛くなるまで壁を叩き解放を叫び、喉を痛めて乾咳が出る。

 今はもう夜だろうか、ときが把握出来ない。かじかんだ手に息を吐きかけながら膝を抱える。腹が減ったし、喉が渇いた。それに…………。

 しっかりと脚を閉じた。頭を振って欲求を追いやる。こんな恥辱に甘んじるなど絶対にごめんだった。可敦の笑みを思い返す。最初からそのつもりだったのだ、あのひとは。泉地に降りないのは赤毛が目立つからだ。娘まで騙し利用して、初めからかどわかすつもりで呼び寄せたのだ。


「許さない!絶対に許さない‼」


 泣きながら怒りで頭を掻きむしった。さきほど落ちてきた赤い髪はどこに行ったか分からないがとにかく敷き詰められた藁をばしばしと叩き鬱憤を晴らした。



 どれほど経ったか。叫ぶ気力も尽き悶々と耐えながら猫のように丸まって寝転がっていると、突然、ずり、と物音がした。蓋がほんの少しだけ開く。


「葛斎。葛斎、大丈夫?」


 空は薄暗い。外は夜になってしまったようだ。

「か……何梅……たすけて……」

「今はまだ無理なの。これを」

 上から落ちてきたのは大きな革囊かわぶくろだ。

「食べ物と水が少しあるわ。小さい囊は夜壺代わりに使って」

「ちょ、ちょっと待って」

 あまりの扱いに唖然とする。「お願い、逃げないからせめてここから出して!」

 何梅は黒く塗り潰された顔で「それは出来ないの」と悲しそうに言う。

「母上様の見張りがいる。葛斎、どうか頑張って」

「もう行くの?何梅、ねえ、また来てくれる?」

「ええ。また隙を突いて来るわ」

 ひらりと消え、蓋も素早く閉まった。囊をまさぐればほんのわずかの食糧と水のほかに褞袍わたいれ温石おんじゃく、青く光る粒を詰めた瓶が入っていた。抜け道の入口に遷氏が撒いていたものと同じだ。

 絶望と不安が押し寄せる。あとどのくらいここに閉じ込められるのか定かではなかった。母は可敦の要求を素直に聞くだろうか、もしかしたら見捨てられる可能性もある。そう思い、瓶をお守りのように抱え、また泣いて、泣き疲れていつの間にか寝入っていた。




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