聖胎王母 下
合澤臣
十七章(承前)
まったく、あの教師は使えない、と密かに心の中で
ほんの少し前までは違った。あの素晴らしい一年間は。彼――親戚の兄貴分が教師だった。彼の授業は奇天烈天外で突飛に愉快だった。座学だけでなく、あらゆる所に連れて行ってくれた。お楽しみは家の者に市場に行くと嘘をつき
しかし家族はそんな彼を実は敬遠していた。彼は幼い頃から家を飛び出し隊商について回って各地を放浪していた変人であり、仕官もせずふらふらとしていて由緒正しい一家の恥晒しだと非難する者もいたらしい。
そんななかで父だけは彼のことを昔から知っており気に入っていたらしく、だからこそ彼が帰国したと聞きつけ教師として
楽しかった。彼は優しく博識で、人にものを噛み砕いて教えるのが上手だった。いろんな旅の話を聞いた。九泉はとても良いところらしく、今の
「君だって将来の
そう、一家から
国の存亡は女によって保たれる。今現在、
幼い頃から母に言い聞かせられた。お前は泉主のただひとりの后になる。よく学び、よく
そんな生活は窮屈だったが特に苦痛には感じなかった。それが当たり前だと思っていたし物心ついた時にはすでに将来は自分が湶后になるのだとまったく疑っていなかった。しかし、父はそんな娘の生活を不憫に思ったらしい。父は入婿でありもともと崔家で育った者ではなく、母や親戚たちの異常な執念の代償として娘が半ば軟禁されて育つことを哀れんだのか、何かと理由をつけては外へ連れ出してくれた。父の前では腕をまくっても大声を出しても怒られないことを覚えてからは自分でも驚くほどに生気を取り戻した。もちろん、母の前や邸にいる時はそれはそれは
そうして父のほうも娘が実はおしゃまなだけでなくわりと奔放でずぼらなことを把握したようで、だからこそ教師に彼を連れて来たのだった。
「
彼は私のことを
「国を出る、とはどういうこと、
そのままの意味だよ、といたずらめいて微笑んだ遷氏は指を立ててさらに声を潜めた。
「君は霧界に行ったことがないだろう?」
「ふつうは行かないよ」
「それはとっても勿体ないことだね」
彼は私をその気にさせる
「危険じゃない?」
「そりゃあ、空気が吸えないものね。獰猛な獣もたくさんいる。でも見たことのないものが街よりももっともっとあるよ」
そこまで言われては行くしかない。唯一父にのみ本当の行き先を伝え、私と遷氏は街外れまで連れ立って歩いてきた。
「……ねえ、でも出ると言ったって、旅支度もしていなければ馬もないのにどうやって出るんだ?」
辿り着いたのは雑木林。すぐ側に
「関門もないようだけれど」
遷氏は顔の前に指を立てそのまま林の奥へと
ふと前方を見ると木立の向こう、枝葉に紛れるようにおんぼろの古家が見えた。
ここに入るのかと問えば遷氏は頷き、尻込みする背に手を当てて促した。
これまた崩れかけの
「どうして。怖い」
ついにこぼれ出た不満に見えない顔で笑う。「静かに。眺めていてごらん」
倣い、じっと息を殺していると、ほのかに青い、薄ぼんやりとした光が床下から
遷氏がゆっくりと腰を下ろし床板を外す。途端、ふわりと燐光が舞い上がった。
「きれい……これは、なに?」
「
床下の穴には階段が延びている。おいで、と手招きされ、恐々と闇へ足を踏み出した。しかしようやく状況に慣れてきて本来の好奇心がわくわくと心に噴き出す。手を引かれながら降りる。地下はわりと広そうな空間だ。ぐるりと首を巡らし、階段に撒かれていた粉が
「この道から国外へと出られるんだ。薬水をお飲み」
差し出された瓶に口を付けつつ歩き出しながら寒さにひとつ身震いした。春も終わろうというのに鳥肌が立つほどの冷気だ。遷氏が
「……なに⁉」
「大丈夫、私が九泉主にお借りした乗り物だよ。街で連れていては目立つからね」
暗くて姿はよく分からないが、ほんのり獣の臭気と熱気が伝わってきて緊張した。
「……ね、遷氏。私は馬にも触ったことがない」
「強くすると獣だって痛いからね。顔ではなくて首の下を撫でておやり」
今にも消えそうな灯火を点ければ、橙色に照らされてきらりと光る二つの大きな瞳がぎょろりと動いた。
「これは
薄光に輝く毛並みはふさふさとしている。そっと触れれば予想通りなめらかで柔らかい。
「だからといって、ひどいことをする……本当はどうなの?」
「これは人には分からない、特殊なにおいを発するそうで警戒して他の獣が寄ってこないことは確かだね。ただ、
抱え上げられ鞍を置かれたその獣に座りながらさらに撫でた。後ろに同じく跨った遷氏は
谿辺は素晴らしい速さで暗闇を走った。しかしもっと驚いたのは上に座る自分には風はびゅうとも吹きつけず、ただ緩やかに気が流れるのみでむしろ
国外へ出るには大人の足で一晩かかるらしいところを獣はものの数刻で駆け抜けた。古びた涸れ
「すごい!すごいなお前は!」
「梓氏、静かに」
「かわいい」
「君がそう思ってくれてこいつも嬉しいだろう。どうだった、初めての乗馬は」
「素晴らしかった!これは私ひとりでも乗りこなせるものか?」
遷氏は目を細めた。
「訓練すれば。馬や牛よりもこういった類は一度馴らせば忠義が
薄情者め、と垂れた耳の下を掻けば獣は素知らぬ顔で欠伸をして、それが
一面黒紫の霧が
「地響き……?」
「ここではよくあること。
「私をどこへ連れて行ってくれるの?」
実は、と遷氏は首を傾げる。「きちんとは決めていない。そこらへんで土を掘ってみてもいいし沼を探してもいい。君はどうしたい?」
目を瞬かせた。
「何をしても良いのか?」
「ここは霧界だから」
あっけらかんと言った彼は悠々と伸びをした。
「出来ることは限られるけれどしてはならないことも少ない。ここはどの国の領土でもないところだよ」
「……自由ということ?」
「もちろん、人としての礼儀は必要だ。霧の中を行き来する商人たちを襲ったり、無闇に稀少な鳥獣を狩ったりするのは良くないよ」
「そんなことはしないし、出来ないけど。……なら、私がうんと高い山に登りたいと言ったら?泥に触ってみたいと言うなら?」
「すればいいよ、梓氏。誰も怒りはしない。君の父上の前でそうするようにしたらいい」
目から何かが落ちたみたいだった。おずおずと足許を見つめる。「……触っても良いものか?」
「口に入れなければ平気。ほら」
遷氏はこちらの逡巡という壁が見えないようで、何でもない、としゃがみ込んで木の根元にこびりついていた柔らかそうな土を指で
「……泥って、冷たくてしっとりしてるのだな……」
しげしげと眺めた。黒くほんのりと紫みを帯びていて、何のにおいもしない。
「霧界の泥土のなかにはたくさんのものが埋まっている。石や鉱物や、動物の骨なんかが」
遷氏が掻き回したなか、白く光る破片を引き出した。
「それが、骨?」
「そう。死体がだんだんと腐って土に分解され、残った骨はゆっくりと溶けるか、石のようになる」
破片はつるりとしてうっすらと
「きれい……
「安い雑貨屋ではこういうのを磨いて偽真珠のようにして売るよ。君には馴染みがないと思うけれど」
こんなものがここにはたくさんあるのだ、と気持ちが浮き足立った。
「私、上からここがどんななのか見てみたい」
「じゃあ行けるところまで行ってみよう」
霧界の山々は急峻に切り立っているばかりだ。しかし谿辺は足を掛けるところもなさそうな断崖を易々と登り、いくらもしないうちに眼下から紫雲のうみを見渡した。
「すごい……」
「時間帯や季節によって霧は下に溜まったり空全体に広がったりしているのさ」
「これが晴れることはない?」
「ただ一日を除いては。これは泉地に出る霧とは全く違うものだ。本来、我々泉民には耐えられないもの。意思を持たないが毒は強力だし、そもそもここは人外の土地。私と一緒ならいいけれど、けっして独りで来てはならないよ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます