聖胎王母 下

合澤臣

十七章(承前)



 書案つくえの上で頬杖をついていたのだが、それは徐々に崩れてしまい頭を預ける枕と化していた。午後の陽だまりがちょうど窓から射し込み、黒髪が暖かさを吸い頭の芯までうつらうつらとして、ついにほわりとひとつ欠伸あくびをしてしまった。直後、はっと周囲を見回す。誰もいないはず、ともう一度人の気配に耳を澄まし、安全を確認して腕に顎を乗せ直した。真下に迫る蟻のような文字の羅列を眺める。


 まったく、あの教師は使えない、と密かに心の中でけなした。これはもう覚えたものだと言い募れど頑として融通が利かないのだから。さすがに頭にきて自らの非凡さを主張したがそれでも梨のつぶては首を縦には振らず、反抗した罰として休日の課題を増やされてしまった。まあ、それももう終わったのだが、あまりに早いときっと隣の隣くらいの房室へや游廊ろうかを見張っている母に何を言われるか分かったものではないのでこうして時間を持て余している。


 ほんの少し前までは違った。あの素晴らしい一年間は。彼――親戚の兄貴分が教師だった。彼の授業は奇天烈天外で突飛に愉快だった。座学だけでなく、あらゆる所に連れて行ってくれた。お楽しみは家の者に市場に行くと嘘をつき醸菫水じょうきんすいを飲んで霧界むかいに行くこと。自分はいっとうこれがお気に入りでいつも楽しみにしていた。普段立ち入ることのない紫の霧の世界は見たことのないものが数多あまたあった。不思議な獣、鳥、虫、それに奇怪な植物や土に埋まっている沢山の宝石。彼は、自由に採るといい、といつもにこやかだった。たくさん興味があるのはいいことだよ、とこちらが求めるままにあらゆるものの名を教えてくれた。


 しかし家族はそんな彼を実は敬遠していた。彼は幼い頃から家を飛び出し隊商について回って各地を放浪していた変人であり、仕官もせずふらふらとしていて由緒正しい一家の恥晒しだと非難する者もいたらしい。

 そんななかで父だけは彼のことを昔から知っており気に入っていたらしく、だからこそ彼が帰国したと聞きつけ教師としてやしきに招いた。とはいえ、彼はその時すでに入れ違いのように出仕を決めてしまっていた。この国・一泉いっせんではなく、遠い遠い九泉くせんの地に居を構えることに決めたのだ、と。帰郷したのは自分の身辺を整理する為と、この国に今生の別れを告げる為。九泉国は険阻な山奥にある閉塞した泉国で、そんなところで任官が決まったというのは驚かざるを得なかった。だから彼が、もうそれほど易々と他国には行けないだろうと予測してこうして最後の旅に来たのだと察した父は毛嫌いする母を無視して一年のあいだ彼を滞在させた。


 楽しかった。彼は優しく博識で、人にものを噛み砕いて教えるのが上手だった。いろんな旅の話を聞いた。九泉はとても良いところらしく、今の九泉主くせんしゅにたいそう気に入られ断りきれなかったというのが、かの地で働くもっともな理由らしい。王様に気に入られるなんてすごい、と褒めると苦笑した。何を言ってるんだい、と肩を軽く叩かれた。


「君だって将来の湶后せんごう陛下だろう?」


 そう、一家から入内者じゅだいしゃが出るのは格別珍しいことではなかった。この家、さい家は一泉朝廷に古くから関わってきた大名家だ。武官はいくら腕を誇ろうと披露目の場もなく閑職、一方文官に多く重職がいるということはこの国そのものを動かすと同義だった。中枢にのさばれば強大な権を持つ。それは至高の御方、泉主を影で操れるほどに。


 国の存亡は女によって保たれる。今現在、さかのぼって十六代、代々の一泉主の后妾には崔家の女子が途切れず名を連ねている。しかし重要視されるのは中でも湶后に君臨する優秀な者だ。泉主の正妃である湶后は、ただ継嗣けいしを産み参らすだけではその座は勝ち取れない。泉に新たな命脈をわきいだす万民の大いなる母は容姿端麗、仙姿玉質、広汎な知識と見識、礼節と分別をわきまえ、後宮を統べるもうひとりの王としての素質がなければ務まらなかった。妾妃には数多く選ばれれど、さすがに湶后にまで登りつめる者は崔家の歴史の中でもごくわずか。そして久方ぶりにその徳をそなえる者が生まれた。それが、――――私というわけだった。



 幼い頃から母に言い聞かせられた。お前は泉主のただひとりの后になる。よく学び、よくれ。己をよく磨き、賢くあれ。品のある所作を身につけよ。陽には当たりすぎず、肉を食べすぎてはならぬ。大口を開けて話してはならぬ、爪を噛んではならぬ。走ってはならぬ、重いものを持ってはならぬ、獣や鳥に近づいて撫でてはならぬ――――。

 珠肌たまはだに擦りむいた程度でも傷を付ければ罰され、生まれてこのかた前髪さえ切ったことがなかった。


 そんな生活は窮屈だったが特に苦痛には感じなかった。それが当たり前だと思っていたし物心ついた時にはすでに将来は自分が湶后になるのだとまったく疑っていなかった。しかし、父はそんな娘の生活を不憫に思ったらしい。父は入婿でありもともと崔家で育った者ではなく、母や親戚たちの異常な執念の代償として娘が半ば軟禁されて育つことを哀れんだのか、何かと理由をつけては外へ連れ出してくれた。父の前では腕をまくっても大声を出しても怒られないことを覚えてからは自分でも驚くほどに生気を取り戻した。もちろん、母の前や邸にいる時はそれはそれはしとやかに静かに、自室から一歩たりとも出なかったが、ひとたび街へ連れられれば縁日の喧騒に歓声をあげ、父の腕を引っ張ってあちらこちらの露店を覗いてまわり、たくさんのものに触れた。見るもの全てが目新しく不思議で楽しく、そんな時間はかけがえのないものだった。

 そうして父のほうも娘が実はおしゃまなだけでなくわりと奔放でずぼらなことを把握したようで、だからこそ教師に彼を連れて来たのだった。





梓氏しし、今日は国を出よう」

 彼は私のことを小字幼名ではなくうじで呼んだ。だから私も同じように呼ぶ。

「国を出る、とはどういうこと、遷氏せんし

 そのままの意味だよ、といたずらめいて微笑んだ遷氏は指を立ててさらに声を潜めた。

「君は霧界に行ったことがないだろう?」

「ふつうは行かないよ」

「それはとっても勿体ないことだね」

 彼は私をその気にさせるこつを掴んだらしい。大仰に肩を竦めて言われ、途端に知りたい欲が顔を出す。

「危険じゃない?」

「そりゃあ、空気が吸えないものね。獰猛な獣もたくさんいる。でも見たことのないものが街よりももっともっとあるよ」


 そこまで言われては行くしかない。唯一父にのみ本当の行き先を伝え、私と遷氏は街外れまで連れ立って歩いてきた。


「……ねえ、でも出ると言ったって、旅支度もしていなければ馬もないのにどうやって出るんだ?」

 辿り着いたのは雑木林。すぐ側に泉畿みやこを囲う壁がそそり立っているのが見える。

「関門もないようだけれど」


 遷氏は顔の前に指を立てそのまま林の奥へといざなう。森は陽射しが遮られどんよりと緑に陰鬱で不気味さに思わず繋いだ手に力を込めた。しかし行くと意気込んだ手前、やはりやめようとも言い出せず、時おり不意に飛び立つ鳥の羽音に怯えつつ歩を進めた。

 ふと前方を見ると木立の向こう、枝葉に紛れるようにおんぼろの古家が見えた。かわらは半分崩れ、枯れつるにまみれて今にも倒壊しそうな廃屋だった。

 ここに入るのかと問えば遷氏は頷き、尻込みする背に手を当てて促した。

 これまた崩れかけの門窗とびらが軋んだ音を立てて内側へ開く。中は埃っぽく真っ暗で何も見えない。それなのに彼は素早く入口を塞いでしまう。

「どうして。怖い」

 ついにこぼれ出た不満に見えない顔で笑う。「静かに。眺めていてごらん」


 倣い、じっと息を殺していると、ほのかに青い、薄ぼんやりとした光が床下からみているのに気がついた。

 遷氏がゆっくりと腰を下ろし床板を外す。途端、ふわりと燐光が舞い上がった。

「きれい……これは、なに?」

迷穀めいこくという植物を加工して粉にしたものだよ。明るいところでは分からない」

 床下の穴には階段が延びている。おいで、と手招きされ、恐々と闇へ足を踏み出した。しかしようやく状況に慣れてきて本来の好奇心がわくわくと心に噴き出す。手を引かれながら降りる。地下はわりと広そうな空間だ。ぐるりと首を巡らし、階段に撒かれていた粉が星海ぎんがをつくるように一方に向かっているのが分かった。


「この道から国外へと出られるんだ。薬水をお飲み」

 差し出された瓶に口を付けつつ歩き出しながら寒さにひとつ身震いした。春も終わろうというのに鳥肌が立つほどの冷気だ。遷氏が褂子はおりを着せかけてくれたのをありがたく掻き合わせ地下道を進むと、ひときわ足音が大きく反響する広い空間に出た。加えて自分たちのものではない息遣いがひとつ。

「……なに⁉」

「大丈夫、私が九泉主にお借りした乗り物だよ。街で連れていては目立つからね」

 暗くて姿はよく分からないが、ほんのり獣の臭気と熱気が伝わってきて緊張した。

「……ね、遷氏。私は馬にも触ったことがない」

「強くすると獣だって痛いからね。顔ではなくて首の下を撫でておやり」

 今にも消えそうな灯火を点ければ、橙色に照らされてきらりと光る二つの大きな瞳がぎょろりと動いた。

「これは谿辺けいへん。霧界に棲む妖さ。こいつの毛皮を剥げば辟邪やくよけになるという言い伝えがあって、狩られ尽くして今ではほとんどいないらしい」

 薄光に輝く毛並みはふさふさとしている。そっと触れれば予想通りなめらかで柔らかい。

「だからといって、ひどいことをする……本当はどうなの?」

「これは人には分からない、特殊なにおいを発するそうで警戒して他の獣が寄ってこないことは確かだね。ただ、なめされてなおその香りがあるのかは定かではないけれど」

 抱え上げられ鞍を置かれたその獣に座りながらさらに撫でた。後ろに同じく跨った遷氏は手綱たづなを取り、闇の前方に目を向けた。「行こうか」


 谿辺は素晴らしい速さで暗闇を走った。しかしもっと驚いたのは上に座る自分には風はびゅうとも吹きつけず、ただ緩やかに気が流れるのみでむしろ軒車くるまなどよりもずっと快適な乗り心地。そのことに驚嘆しきりだった。


 国外へ出るには大人の足で一晩かかるらしいところを獣はものの数刻で駆け抜けた。古びた涸れ水井いどからようやく陽の下に這い上がり、興奮したまま思わず獣に抱きついた。

「すごい!すごいなお前は!」

「梓氏、静かに」

 たしなめながら遷氏も笑っている。明るいもとで見た谿辺は大きな犬のようで愛嬌があり、実際に当初の威厳はどこへやら甘えて黒い鼻面を押しつけてきた。

「かわいい」

「君がそう思ってくれてこいつも嬉しいだろう。どうだった、初めての乗馬は」

「素晴らしかった!これは私ひとりでも乗りこなせるものか?」

 遷氏は目を細めた。

「訓練すれば。馬や牛よりもこういった類は一度馴らせば忠義があついと聞く。この様子だと私よりも梓氏のほうを気に入ったみたいだし」

 薄情者め、と垂れた耳の下を掻けば獣は素知らぬ顔で欠伸をして、それが可笑おかしくてくすくすと笑う。そしてようやくまわりを見渡した。


 一面黒紫の霧が揺蕩たゆたう森は国内の雑木林よりもさらに鬱蒼としていてより不気味だった。じっと耳を澄ませていればなにか突き上げるような――微かな震動を感じた。

「地響き……?」

「ここではよくあること。異邪じしんであればもっと揺れるから分かるよ」

「私をどこへ連れて行ってくれるの?」

 実は、と遷氏は首を傾げる。「きちんとは決めていない。そこらへんで土を掘ってみてもいいし沼を探してもいい。君はどうしたい?」

 目を瞬かせた。

「何をしても良いのか?」

「ここは霧界だから」

 あっけらかんと言った彼は悠々と伸びをした。

「出来ることは限られるけれどしてはならないことも少ない。ここはどの国の領土でもないところだよ」

「……自由ということ?」

「もちろん、人としての礼儀は必要だ。霧の中を行き来する商人たちを襲ったり、無闇に稀少な鳥獣を狩ったりするのは良くないよ」

「そんなことはしないし、出来ないけど。……なら、私がうんと高い山に登りたいと言ったら?泥に触ってみたいと言うなら?」

「すればいいよ、梓氏。誰も怒りはしない。君の父上の前でそうするようにしたらいい」

 目から何かが落ちたみたいだった。おずおずと足許を見つめる。「……触っても良いものか?」

「口に入れなければ平気。ほら」

 遷氏はこちらの逡巡という壁が見えないようで、何でもない、としゃがみ込んで木の根元にこびりついていた柔らかそうな土を指ですくった。それで、袖をまくり、ゆっくりと指先を伸ばす。

「……泥って、冷たくてしっとりしてるのだな……」

 しげしげと眺めた。黒くほんのりと紫みを帯びていて、何のにおいもしない。てのひらの上でひんやりとする。

「霧界の泥土のなかにはたくさんのものが埋まっている。石や鉱物や、動物の骨なんかが」

 遷氏が掻き回したなか、白く光る破片を引き出した。

「それが、骨?」

「そう。死体がだんだんと腐って土に分解され、残った骨はゆっくりと溶けるか、石のようになる」

 破片はつるりとしてうっすらとふちが透けている。

「きれい……羊脂白玉しろひすいみたい」

「安い雑貨屋ではこういうのを磨いて偽真珠のようにして売るよ。君には馴染みがないと思うけれど」

 こんなものがここにはたくさんあるのだ、と気持ちが浮き足立った。

「私、上からここがどんななのか見てみたい」

「じゃあ行けるところまで行ってみよう」

 霧界の山々は急峻に切り立っているばかりだ。しかし谿辺は足を掛けるところもなさそうな断崖を易々と登り、いくらもしないうちに眼下から紫雲のを見渡した。

「すごい……」

「時間帯や季節によって霧は下に溜まったり空全体に広がったりしているのさ」

「これが晴れることはない?」

「ただ一日を除いては。これは泉地に出る霧とは全く違うものだ。本来、我々泉民には耐えられないもの。意思を持たないが毒は強力だし、そもそもここは人外の土地。私と一緒ならいいけれど、けっして独りで来てはならないよ」




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