第4話 (何もかもを失ったとしても、きっとまた歩き出せる)

 窓から射し込む光で目が覚めた。

 日付は変わって、午前九時。こたつで眠りこけたので、全身バキバキだった。


 サチはまだ眠っていた。こうして身を縮めて丸まっていると、本当に小動物みたいだ。

 今は俺のスウェットで隠れている彼女の小さな白い背中には、大きな傷がいくつもあった。その一つ一つの理由を尋ねることはしなかったが、この痩せた身体で過酷な日々を耐えてきたに違いなかった。


 放りっぱなしのスマホに、着信やメッセージがいくつも届いていた。

 コンビニのバイトをサボってしまった。デリバリーの依頼もちらほら入っているが、既に十二時間以上も前のものだ。本部からの着信もある。指示に応答しないせいなのか、『ドリンク』をあんなふうに使ったことがバレたのか。


 あれこれ考えるのも面倒くさくて、俺は再びスマホを放った。

 毎日必死にこなしていたバイトも、最早どうでもいい気分だった。今思えば、余計なことを考えずに済むように予定を詰め込んでいたのだ。俺には少し休憩が必要なのかもしれない。


 そうこうするうち、隣のサチが小さく唸って、ゆっくりと身を起こした。

 視線が合う。薄紅色の唇が、柔らかな笑みの形になる。


「おはよ」

「……おう」


 俺がもぞもぞしていると、サチは自分のスマホに手を伸ばし、「うわぁ」と呟いた。


「いっぱい連絡来てるー。これはクビかなぁ。まぁ、いっか。別のバイト探そっと」


 どこか他人事みたいなのんびりした口調だったので、思わず笑ってしまった。

 きっと俺も、潮時だったのだ。


「お腹空いたね」


 言われると同時に、俺の腹の虫が鳴った。生きている限り、腹が減る。


「私、うどん食べたい」

「いや、材料ないし作れないよ」

「デリバリー頼もっか」


 サチはさっそくスマホでうどんのデリバリーを検索し始める。


「見て見て、カルボナーラうどんだって」

「何だそれ。パスタじゃん」

「明太あんかけクリームうどん」

「もっと普通のやつないの?」

「せっかくなら食べたことないやつと思って」


 サチが楽しそうに言った。あまりに他愛もない会話。ありきたりなやりとりが、ただただ心地いい。

 結局サチは最初に見たカルボナーラうどん、俺は同じ店のとろろ月見うどんに決めた。


 注文してから四十分、指定通りにうどんが届く。俺たちと似たような配達員が持ってきてくれた。


「これをかけて食べるんだって」


 二杯とも、後からかける出汁醤油が付いてきた。お好みで味を変えられる仕様なのだろう。

 丼から立ち昇る湯気に、食欲をそそられる。二人揃って手を合わせ、「いただきます」と声を揃えた。


「あー、本当にカルボナーラだ」


 サチは時々出汁醤油を足しながら、邪道なうどんを啜っている。

 一方、俺のとろろ月見はやけに味が薄い。このための出汁醤油なのかもしれない。

 腹が空いていたこともあり、二人ともあっという間に平らげてしまった。


「まぁ美味しかったけど、一回でいいかなぁ」

「俺も」


 さざめくように笑い合う。


「ねぇ、うどん作れないの? ここのうどん、食べてみたい」

「作れないよ。親父に教わっとくべきだった」


 何の変哲もないシンプルなうどんだったけど、飽きが来なくて何度も食べたくなる味だった。


「頑張って修行して作れるようになったら、またお店開けるんじゃない?」

「いや、何年かかるんだよ」

「そのころにはウイルスも収まってるよ」


 サチが歌うような声で言ったそれは、叶うかどうかも分からない夢物語だ。

 だけど、悪くない。

 憑き物が落ちた気がした。何もかもを失ったとしても、きっとまた歩き出せる。

 サチが生きる世界で、俺も生きる。

 これでようやく前を向けるんじゃないかと、この時の俺は確かに、かすかな希望のようなものを感じていた。


  ◇


 いつの間に眠り込んでいたのか。俺はハッと目を覚ました。

 たちまち気付く。苦しい。息ができない。

 堪らず胸を掻き毟る。こたつに入れたままの脚は爪先まで痺れており、うまく動かない。

 パニックに陥って、横たわったまま身を捩る。


 俺の隣にはサチが倒れていた。大きく見開かれた目の焦点は、どこともつかない虚空に囚われている。


 サチは、ぴくりとも動かなかった。


 いったい何が起きたのか。すぐに『ドリンク』のことが頭を掠める。

 うどんを運んできたのは、俺たちと同じデリバリーの配達員だっただろうか。

 こちらが手の内を知っているからと、偽装してきた可能性もある。例えば、あの出汁醤油とか。サチはあれを何度も足してうどんを食べていた。


 今さら考えても遅い。サチを救うことはできない。俺も毒を飲んでしまった。

 喉の奥が更に詰まり、心臓が暴れ出す。目の前が砂嵐のようなノイズで覆われる。


 この世界は地獄だ。わずかでも希望の光が見えたと思ったら、また谷底まで突き落とされる。

 こうも痺れた手足じゃ、とても這い上がれやしない。


 サチ、と、彼女の名前を呼ぼうとした。だが、もう舌の根すらも動かなかった。

 明滅する視界の中に、白いものが浮かび上がる。

 それは、俺に向かって伸ばされた、サチの手だった。

 残る力を振り絞り、俺はそこに自分の手を重ねた。俺より一回り小さなその手は、俺と同じ温度をしていた。


 薄れゆく意識の中、耳慣れた音が滑り込んでくる。

 最期に聴こえたのは、あの防災無線のチャイムだった。



—了—

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終末のラッパは鳴りやまない 陽澄すずめ @cool_apple_moon

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