第3話 自分が社会のゴミでないとは言い切れない
さりとて、地獄は続く。
一日の感染者数が次々記録を更新し、決まった時刻に防災無線がステイホームを呼びかける毎日。
異常な状況も、ずっとそうであるなら普通の日常だ。今や誰もがこの地獄に慣れ、それなりに平穏な日々を過ごしていた。
だが、慣れは油断を生む。それは俺も例外ではない。
出歩く人の姿の見えないことが当たり前となった街で、俺はその日も原チャリを走らせていた。
交通ルールは守っていたつもりだったが、周囲への注意は少し疎かになっていたかもしれない。
細い路地を曲がったところで、人を撥ねそうになった。
幸いブレーキが間に合って、接触には至らなかったが、問題はその後だった。
相手のおっさんが、俺の背負った荷物を見るなりキレ始めたのだ。
「なんだ、お前もナントカデリバリーの奴か。危ねぇじゃねぇか!」
「すいませんでした!」
俺に非があることには違いないので、素直に頭を下げた。
しかし相手は矛を収めるどころか、ますます激昂した。男はノーマスクで、赤ら顔を晒している。見るからに酔っ払いだ。
「謝りゃいいってもんじゃねぇよ! 死ぬとこだっただろうがよ」
「すいません、気を付けます」
「はぁ? ふざけんなよ、俺ぁ今さっき危ねぇ思いをしたんだ。初めっから気を付けてりゃこんなことにはならなかっただろうが」
おっさんが喚くたびに唾が飛んできて、不快極まりない。
……堪えろ。
「だいたいお前ら、見てりゃみんな危険運転ばっかじゃねぇか。フラフラ走りやがって、頭おかしいんか、この人殺しデリバリーが」
人殺し。その言葉に、ぎくりとする。
「どいつもこいつも阿呆ばっかだ。ロクに交通ルールも守れねぇ、小学生以下かよ。このご時世にあちこち走り回って、大迷惑の大馬鹿野郎だな。お前らみたいなのがウイルス運んでんだろうが。あぁ、汚ねぇ汚ねぇ」
何をほざくのか。みんなが自由に身動きできないからこそ、代わりに俺たちが駆けずり回っているのに。
だが実際、配達先でウイルス扱いされたことは一度や二度じゃない。
「馬鹿だからそんな仕事しかできねぇんだろ。マトモな奴はテレワークできる仕事してんだ。交通ルール守れない、人の迷惑考えない、社会のゴミそのものじゃねぇか」
呂律も怪しいその言葉を、即座に否定できない。自分が社会のゴミではないとは言い切れなかった。
「生きてるだけで迷惑なんだよ。さっさと死ねやクズが」
生きてるだけで、迷惑。
俺が悪いのか? この状況に陥っているのは、俺のせいなのか?
親父が自殺した。俺の学費を払おうと無理をした結果だった。大学を出ていい会社に就職しろと口癖のように言い続けて、結局死んだ。
俺はどうすれば良かったのか。このままじゃマトモな働き口など見つかるはずもない。親父にあれほど苦労をかけておきながら。
ずっと、考えないようにしていたことがある。
親父は無駄に死んだんじゃないか。
俺さえいなければ、こんなことにはならなかったんじゃないか、と。
すっかり黙り込んだ俺に、男は更に詰め寄ってくる。ニヤついた口元から黄ばんだ乱杭歯が覗いている。
「なぁ、土下座しろよ。そしたら許してやらねぇこともねぇよ」
瞬間的にフラッシュバックする。
銀行員だか取り立て屋だかに向かって、両手をついて低くこうべを垂れる、惨めったらしい親父の姿が。
酒くさい。距離が近い。言い知れない苛立ちが腹の底から湧いてくる。
緊急事態宣言下で、真っ昼間から呑んだくれて、マスクもせずにフラフラしている。こいつこそクズそのものだろう。
「おい、早くしろよ!」
耳元で怒鳴られ、俺の中で何かがぷつりと切れた。
身体が勝手に動く。気付けば俺は、背負っていた荷物から缶を取り出していた。
『ドリンク』だ。
「何してんだよコラ」
考えることを放棄したまま、自分の右手の親指がプルタブを上げるのを見た。
左手が、掴んだ缶を相手に向けて振る。
飲み口から飛び出した液体が、男の剥き出しの顔面にかかる。
奴は潰れたカエルのような悲鳴を上げ、目を押さえて地面に転がった。
クズが何事かを
腕を引かれた。驚いて振り返る。
サチだった。
「ねぇ、行こう」
すぅっと頭が冷える。
停止していた思考回路が動き出す。
これは、不味いことをしてしまったかもしれない。
俺は慌てて原チャリに跨り、サチに続いてその場を離れた。
ぺけぺけぺけ。景気の悪い排気音にまで
辿り着いたのは、いつもの公園。いつも通りブランコに腰を下ろす。
サチが缶コーヒーを差し出してきた。
「大丈夫、そこで買ったやつだから」
そう言われて、笑うべきだろうと思った。マスクの下でどうにかわずかに口角を上げる。
受け取った缶は温かい。しかし開ける気にはなれなかった。
先ほど『ドリンク』のプルタブを押し上げた感触が、まだ指先に残っている。
サチは何も言わない。
手を伸ばせば容易く届く距離にいて、その間を埋めるのは沈黙ばかりだ。時おり、サチがブランコを小さく揺らす音が耳に届くだけで。
空はどんどん曇りゆき、湿った風が吹き始めた。
空気まで冷えてきたと思ったところで、ジーンズの膝の上にぽつりと小さな染みができた。
最初はパラパラ降るだけだった雨は、すぐに本降りとなる。湿った衣服が、徐々に体温を奪っていく。
サチはブランコから動こうとしない。小柄な身体は、既に上から下までずぶ濡れだった。
俺は堪らず声をかける。
「あのさ、もう帰った方がいいよ」
ごめん、と小さく付け加える。
きこ、きこ……。鎖と留め具の軋む音がしばらく続く。それに紛れるようにして、サチは呟く。
「帰る場所なんてないよ」
隣り合ったブランコで、同じ雨に打たれて。俯いたサチは、なぜだか泣いているように見えた。
俺はサチを自宅に連れ帰った。相も変わらず、無味無臭の冷たい空気で満ちた家に。
二人とも芯まで凍えていたので、風呂を沸かした。築五十年の浴室はすきま風が抜けてやたらと寒いが、入らないよりマシだ。
自分以外の誰かが家にいる。しかもバイトが同じというだけの間柄の女の子が、この流れで。一番風呂から出て、サイズの合わない俺のスウェットに袖を通したサチを、直視することもできなかった。
真四角の狭い浴槽に身を沈め、じわじわ湧いてくる羞恥に膝を抱える。
サチにみっともないところを見られてしまった。あんなクズのおっさんに絡まれて、口汚く罵られて。
それにキレて思わず手を出してしまったのが更にダメだ。しょうもない。本当にしょうもない。
『ドリンク』を勝手に使ったことも、本部にバレたらきっとヤバい。黙っていれば大丈夫だろうか。おっさんはどうなったのだろう。
いろんなことがぐるぐると頭を巡り、一つも考えが纏まらない。
風呂を上がって居間に戻ると、サチは親父の遺影に手を合わせていた。長すぎる袖から覗く指先は、まるで作り物みたいに華奢だ。
サチがこちらを向いた。
マスクのないその顔は無防備そのもので、色白の頬がほんのりピンクに色付いている。湿った髪は肩に下ろされ、いつもより大人っぽく見えた。
「おかえり」
「あ、あぁ、ただいま……」
変なやりとりだ。ここは俺の家なのに。
そう思ったらおかしくて、少しだけ気持ちが解れた。
二人してこたつに入る。
「うどん屋さんなんだね」
「もう潰れたけどな」
俺はぽつぽつと顛末を話す。政府の打ち出した感染症対策の煽りをモロに受けたこと。それが原因で親父が借金をしたこと。
口に出してサチに聞かせることで、自分の心の中が整理されていくように感じた。
俺も親父も、人間の力ではどうしようもない
そうであっても、世の中は無情なほど淡々と回っていく。塵と消えたものなど、初めから存在しなかったかのように。
はは、と自重気味の笑みが漏れる。俺は敢えて明るいトーンで言った。
「まぁ元々、ほとんど常連しか来ないような店だったからな。あってもなくても変わりない……」
「いいお店だったんだ」
「え?」
「ずっと常連で通ってくれるお客さんがいたんでしょ。愛されてたんだよ」
胸を衝かれた気がした。咄嗟に返事が出てこない。
俺が生まれる前から、この家の表はうどん屋だった。特別流行っているわけではなかったが、客足が絶えることもなかった。俺の顔馴染みのお客さんだって、何人もいた。
「……親父に、店は継がなくていいって言われてたんだ。大学を出て、いい会社に就職しろって。こんな小さな店で一生を終えるなって。でもさ……」
知らず知らず、そんなことを口走っていた。サチは黙って頷く。
中二で母親が死んでから、親父は男手一つで俺を育ててくれた。
学校から帰ると親父は大抵夕方の仕込みをしていて、温かい湯気と鰹出汁のいい匂いが辺りに漂っていた。
『おかえり』
今はもう、誰もいない。何の匂いもしない。
もう二度と戻ってこない。
胸の奥から、震えがせり上がってくる。それを無視することは難しく、とうとう言葉となって唇から
「俺も好きだったよ、この店」
最後の方は、声にならなかった。
俺はどうすれば良かったのか。別に多くを望んだわけじゃなかった。大学へ行って一般企業に就職する道を示してもらえたことはありがたかったが、うどん屋を継いだって良かった。
なぜ伝えなかったんだろう。
こんなことになるなんて思わなかった。どうであれ親父はずっと厨房に立ち続けるんだと、根拠もなく信じていた。
喉の奥を狭めても、嗚咽を止めることはできない。親父が死んでから初めて、俺は声を上げて泣いた。
サチが、ふわりと抱き締めてくれた。頬に当たる髪からは、俺と同じシャンプーの匂いがした。
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