第2話 不平も不満も、思考を止めてしまえば何もない
ある日の午後、配達のピークを乗り切った頃合い。
住宅街にある児童公園の入り口に、オレンジ色の自転車が駐まっていることに気付いた。
フェンス越しに覗くと、ブランコに見覚えのある女の子の姿がある。
あれから何となく気になっていたということもあり、俺は公園の中へと足を踏み入れた。
ヘルメットを外した髪が、冷たい風に晒される。
俺は公衆トイレの横にある自販機でホットコーヒーを二つ買ってから、彼女に声をかけた。
「どうも」
俯き姿勢だった彼女は、弾かれたように顔を上げた。そして顎まで下げていたマスクを慌てて引っ張り、鼻まで隠す。
「あ……この前の」
「うん。お疲れ様、休憩中?」
「あ、はい、お疲れ様です。とりあえずひと段落ついたんで」
「これ、良かったら」
缶コーヒーを差し出すと、彼女の目に戸惑いの色がよぎる。
俺は思わず苦笑してしまった。
「大丈夫だよ。今そこで買ったやつだから」
どこか気まずそうに彼女の視線が泳いだ。気持ちは分かる。
俺はできるだけ軽い調子で言った。
「隣、いい?」
「あ、はい」
彼女の隣のブランコに腰を下ろし、マスクをずらして缶コーヒーを一口飲んだ。
改めて差し出した彼女の分は、今度はちゃんと受け取ってもらえた。
「こないだ、大丈夫だった?」
「はい、まぁ、自業自得なんで」
「荷物重いもんな。俺でもちょっと危ない時あるし。自転車ってことは、家はこの近く?」
「近く、っていうか」
警戒されてるな、と思った。だが、そこに予想外の言葉が続く。
「今はネカフェとか、あちこち」
「なるほど」
先ほど一瞬見えた素顔はかなり若いと思ったが、何か訳ありなのだろう。
「うまくやれば結構稼げるよな、デリバリー。空いた時間でできるのがいいよ」
「私、あんまり向いてないみたいで。本当はもうちょっと体力いらない仕事の方がいいと思ってるんですけど」
「……スカウトされた?」
ようやく、ばちりと視線が合った。
俺は平坦に続ける。
「俺もそうだよ。親父が借金苦で自殺して、バタバタしてる時にね」
彼女は少し
「『ドリンク』を、今日も運びました」
「ん、俺も」
「毎回緊張します」
「プラス五千円の仕事だもんな」
「あの、あれって……」
言いかけた彼女は、しかし首を振って口をつぐんだ。
俺はブランコを揺らす。少し前へ進んでは、あっさり後ろに引き戻される。その繰り返しだ。
「俺たちは頼まれたものを運んでるだけだよ。ただの弁当のサービスのドリンクだ」
「そう、ですね」
会話が途切れる。きぃこ、きぃこ……。ブランコの軋む音がやたらと耳につく。沈黙が気まずい。
揺れの止まったところで、俺は缶の残りを一息に飲み干した。
「なんか、ごめん。一人でゆっくりしてるとこ邪魔して」
「いえ……」
ホットコーヒーを無理やり収めた腹は不自然に温かく、うっすらと後悔する。
俺は何を期待していたのだろう。
これをきっかけに年の近い女の子と仲良くなりたかったのか。
それとも、仲間が欲しかったのか。自分のしていることを正当化するための仲間が。
俺はブランコから腰を上げた。
「じゃあ、俺はそろそろ」
「……あの!」
「え?」
「コーヒー、ありがとうございました。それからこないだのことも」
立ち去ろうとした矢先のことで、俺はただ二度三度のまばたきを返した。
「お礼、言いそびれちゃってたから。手を貸してもらえて、すごく助かりました」
くりっとした大きな瞳が、まっすぐに俺を見上げている。髪の間から覗く耳は真っ赤だった。
つられて頬にかぁっと熱が上る。マスクがあって良かったと、つくづく思った。
「いや、いいよ別に、大したことしてないし、うん」
ちょっとした善意を、ちゃんと受け取ってもらえた。たったそれだけのことに、自分でも驚くほど安堵した。
今や希少となってしまった、そんな『正常』なやりとりを、俺は心のどこかで欲していたのかもしれない。
思い返せば俺は、親父が死んでからまともな人間関係というものをすっかり放棄していた。
あの黒い服を着た人々は、まばらな行列を成すだけ成した後、残らずどこかへ消えてしまった。
中退したせいもあり、大学の友達との交流は完全に断ち切れた。
付き合っていた彼女とも、いろいろあって別れた。
コンビニのバイトは続けていたが、他の店員と世間話をするのも面倒で、ただ淡々と与えられた仕事をこなすのみだった。
デリバリースタッフにスカウトされたのは、そんなある日のことだった。
「誰にでもできる簡単なお仕事です。指示のあった店にフードを取りに行って、お届け先に運ぶだけ。仕事内容によっては特別ボーナスが出ます」
声をかけてきた男はそんな説明を並べた。
人の動きが制限されている今、ニーズのある仕事だと俺は思った。
「本部から『ドリンク付き』と指示のあった時だけ、『ドリンク』を配達品と一緒に客先へ届けてください。それこそが、とても重要な仕事です」
弁当に飲み物が付くのはよくあることだろう。しかし。
「あなたは選ばれた方です。これは世のため人のためになる仕事なのですよ。こんなご時世ですので、さまざまなトラブルを抱えた方も多い。その混乱に乗じて、弱者を食い物にしようとする輩も存在します。これは許し難い悪です。あなたなら、よく分かるでしょう? ……奇しくも最近は、新型ウイルスによる死人が増えてきています」
つまり。
「『ドリンク』には特殊な毒性物質が混ぜ込まれておりまして。その毒で死んだ者は、感染死と判断されることになっています。それを運ぶだけのあなたに何らかの疑いがかかることはあり得ません。いいですか、これは世のため人のためになる仕事です」
他言は無用ですよと、釘を刺された。
俺には喋る相手もいないので、秘密を漏らしようもない。恐らく、だからこそ選ばれたのだ。
不平も不満も、思考を止めてしまえば何もない。
同じような毎日を、ただただ消費するだけ。
原チャリを駆る。フードを運ぶ。時おり『ドリンク』を届ける。原チャリを駆る。コンビニのカウンターに立つ。原チャリを駆る……
移動の合間に、スマホで地域の感染者情報を眺める。
死亡者リストの中に、俺が配達した付近の住所もあった。例えば、あの消費者金融の事務所の辺りとか。
だが出ている情報は当然ながら匿名で、住所も町名まで。どこの誰だか分かりやしない。つまりは知らない相手だ。
募っていくのは、文字の羅列と数字だけ。何もかもが他人事に思えた。
あれから、彼女とよく出くわすようになった。街ですれ違えば片手を上げて挨拶し、空いた時間にはあの公園で缶コーヒーを飲みながら話をした。
彼女はサチと名乗った。年は俺より三つ下の十八歳。高校には行っていないらしい。
「うち、母子家庭で、お母さんがいろんなところからお金を借りてて。昔から男の人の出入りも激しかったの」
早く独り立ちしたい、とサチは言った。
「手っ取り早く稼ぐなら風俗かなと思ってたんだけど」
サチに風俗なんて似合わなすぎて、俺は思わず笑ってしまった。
可愛いとは思うが、纏う雰囲気があまりにも純朴で、実年齢より三歳ほど若く見える。得体の知れないフードデリバリーの方が何千倍もマシだろう。
実のところ俺は、自分が何を運ばされているのか、何に加担させられているのか、さしたる興味もなかった。
例え警察の厄介になるオチが待っていたとしても、どうだって良かった。
どんなに真面目に生きようとしても、ロクな人生にならないことが分かりきっていたからだ。
サチはどうだろう。
彼女はいつも、大きな荷物を背負って一生懸命ペダルを漕いでいる。
一生懸命に、生きようとしているのだ。
二人で過ごす時間が、俺の楽しみになった。
心にほのかな光が灯ったように思えた。
俺が生きる世界は、サチの生きる世界でもあった。
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