終末のラッパは鳴りやまない

陽澄すずめ

第1話 現実は続き、地獄は終わらない

 終末を告げるラッパが吹き鳴らされたら、世界はわざわいに襲われてあっという間に終わるんだと思っていた。

 だけど現実はどうだ。昨年から始まったウイルスパンデミックは、世界を終わらせるどころか、先も見えない酷い日常を引き延ばし続けている。

 今日も街のあちこちで、ラッパ型のスピーカーから防災無線のチャイムが鳴る。


『新型ウイルスの感染拡大により、医療体制が危機的な状況です。感染防止のため、一人一人が不要不急の外出を控え、ステイホームを徹底してください』


 生きることも死ぬことも難しい。

 もしかしたら、それを地獄と呼ぶんじゃないだろうか。


  ◇


 高層ビルが立ち並ぶオフィス街を、年季の入った原チャリで駆ける。

 背中にはナイロン製のデリバリーバッグ。中身は人気洋食デリのランチ弁当だ。

 指定された時刻まで、あと五分。間に合うかどうかギリギリのラインで、俺は少し焦っていた。


 天気の良い昼時。だが、出歩く人は見当たらない。大通りを走る車もさほど多くはなく、代わりに俺と同じような配達員とはよく行き合う。

 視界に入るビルの中にも、あまり人はいないはずだ。こんな大企業ほど、リモートワークが進んでいる。


 交差点の端、ぽつねんと赤信号で停止する。ぺけぺけぺけ。自分の原チャリの排気音が嫌に耳につく。

 街全体が、不気味なくらいひっそりとしていた。元大学生の俺は平常時のオフィス街の様子をよく知らないが、以前はこんなふうではなかったはずだ。


 信号が赤から青に変わり、再発進する。老兵みたいな愛車は、唸りを上げて動き出す。次の交差点を折れると、途端に道幅が狭くなった。

 入り組んで建つ雑居ビルの隙間を、冷たい風が吹き抜ける。まだ二月。しっかりと口元を覆うマスクがありがたい。


 建物の陰になった路地を這うように、くしゃくしゃの紙くずが転がっていく。そこに掠れたマジックの文字で『休業します』と書かれているのが見えた。

 辺りに目をやれば、ちらほらとシャッターの下りた店舗がある。どこから剥がれ落ちたのか分からないが、薄暗い気持ちになった。


 ようやく目的地に到着する。元号を二つくらい越えたんじゃないかと思えるような、辛気臭い古びたマンション。消費者金融か何かの事務所が入っているらしい一室が、今回のお届け先だ。

 原チャリを表に駐め、コンクリートの外階段を駆け上がる。荷物を背負った状態で五階まで昇るのはかなり骨が折れる。

 目的のドアの前に辿り着くころには、すっかり息が上がっていた。呼吸を整えてから、インターホンを押す。

 「はい」と応答があり、俺は名乗った。


「デリバリージョーカーです。ご注文の品をお持ちしました」


 扉が開く。だが、依頼主の顔を確認するより先に、何かのスプレーを吹き付けられた。


「うわっ!」

「遅いよ」


 マスクでくぐもった、不機嫌な男の声。その手には消毒液。これを引っかけられたらしい。


「予定より二分も遅い。これ、配送料タダでいいよな」


 ダークカラーにピンストライプのスーツから、柄シャツが覗く。どう見てもカタギじゃない。


「早くしろ。ウイルス付けんなよ」

「はい、申し訳ありません」


 反論は要らぬトラブルの元だ。俺は素直に頭を下げた。

 デリバリーバッグから弁当を二個取り出すと、相手は俺に触れないように用心深く受け取った。まるで俺自身がウイルスそのものみたいに。

 クソが。内心で唾を吐く。

 苛立ちつつも、逆らわない方がいい相手だと本能が告げている。クレームなら後で本部に入るだろう。マスクをしていて良かった。引き攣った表情を晒さずに済むから。


 俺は努めて平静に、弁当と同じ数の缶飲料を差し出した。


「サービスのお飲み物です」

「あぁ、その辺に置いといてくれ」


 サービスという言葉で、相手の態度が緩んだように思えた。


「では失礼します」


 中へと一歩を踏み入れてすぐのところにあった小机に、缶を置く。

 それとなく部屋の奥へ視線をやれば、応接椅子に男性が二人。出迎えた男と同じようなスーツの人物の対面で、ヨレヨレの格好をしたおっさんが何度も頭を下げている。


「……毎度ありがとうございました」


 何も見なかった。俺は顔を俯けて、そそくさとその部屋を後にした。



 このご時世なので、フードデリバリーを利用する人は多い。特に昼時ともなれば、引っ切りなしに注文の電波が飛び交う。

 一つ配達を終えたら、休む暇もなく次の店へ。弁当やらピザやらを背中のバッグに入れ、それを届けたところで端末にまた別の指示が来ている、という具合だ。


 まるでもぬけの殻となった街で、生身のまま動き回るのは俺たち配達員だけ。だから、先ほどのような酷い扱いを受けることもしばしばある。

 収束の見通しも立たない感染症が、人々の心から平穏を奪う。ウイルスそのものより、俺には人間の方がよほど怖い。

 理不尽も多いが、効率よく走れば実入りは悪くない。

 特に、今回みたいに『ドリンク』が付く時は。

 前からやっているコンビニバイトは夜間シフトがメインだから、こうして昼間も稼げるのはありがたい話だった。



 午後二時すぎまで、ばたばたと配達に追われた。

 感染防止対策でさまざまな飲食店がテイクアウトやデリバリーを始めたので、運ぶフードも多岐に渡る。今日は途中でインドカレーを運んだせいで、バッグの中がスパイス臭い。

 『ドリンク付き』は、消毒液を噴射された一件のみ。本当はもっとあった方が稼げるのだが、こればかりは本部の指示によるものだから仕方ない。


 休憩のために一旦自宅へ戻る道すがらでのことだった。

 俺の少し前を、同じデリバリーサービスの配達員が自転車で走っていた。ずいぶんヨロヨロしているなと思っていたら、なんと交差点を曲がり切れずに転倒してしまった。

 俺は原チャリを路肩に停め、自転車を起こすのに手を貸した。


「大丈夫?」

「あ、はい……」


 マスクで顔半分が隠れているが、俺より若そうな、小柄で華奢な女の子だ。黒髪をうなじのところで結っている。

 彼女とは何度かすれ違ったことがある。圧倒的に男が多い仕事なので、女性のデリバリースタッフは珍しく、印象に残っていた。


「怪我は?」

「大丈夫です」

「配達のフードは?」

「……駄目になっちゃったかも」


 彼女の身体に対して、やけに大きいバッグ。開けて確認すれば、弁当の蓋がいくつか外れておかずが飛び出てしまっている。


「どうしよう」

「とりあえず、店に連絡した方がいいんじゃない?」


 俺が自転車を歩道の脇へ移動させる間に、彼女は電話をかけ始めた。

 電波の向こうの相手にぺこぺこ頭を下げる姿が、なんとなく小動物めいて見える。

 やがて通話を終えた彼女は、いっさいの表情の消えた目をして言った。


「あの、一度お店に戻ります」

「そっか、再配達間に合いそう?」

「いえ、もう私は配達しなくていいって。でも、駄目にしちゃったお弁当は買い取りになるから」

「あぁ……」


 つまり弁償するために戻らねばならないということか。

 当然、今回分の報酬は無しだろう。弁当代と差し引いたら、間違いなくマイナスだ。かける言葉も見つからない。


「お疲れ様……気を付けてね」

「はい、すいませんでした」


 彼女は肩を落として去っていった。自転車のフレームのオレンジ色だけが、不似合いに明るかった。



 夕方早めの時間帯に入った配達を今日のラストにして、帰路に着いたのはすっかり陽が落ちた午後六時すぎ。

 うらぶれた商店街の一角に俺の自宅はある。

 隣近所と同じ、住居兼店舗。ひび割れた看板には、色褪せた『うどん』の文字。何もかもを拒むように閉ざされたシャッターに、一枚の貼り紙がしてある。


『長らくのご愛顧、ありがとうございました。店主』


 ぺけぺけぺけ。親父のものだった原チャリを駐めて、店の入り口とは別にある玄関へと回る。

 鍵を差し込んで開けた引き戸は、やたらと重い。家の中は真っ暗で、外と変わらないくらい冷え切っていた。

 当然ながら誰もいない。無味無臭の空気だけが充満している。


 中二のころに母さんが病死してから、俺と親父二人きりの家族だった。今は俺一人が住んでいる家だ。

 居間の電気をつけると、おざなりに並べた親父の写真と骨壷が視界に入る。

 だけど俺は素知らぬふりでこたつに潜り込み、横になって目を閉じた。



 新型ウイルスの感染拡大に伴って、飲食店への営業自粛要請が出された。

 じいさんの代から続くうちのうどん屋も、それに従わざるを得なかった。

 小さな店で、客といえば常連ばかり。それでも駅前の商店街という立地の恩恵を受け、帰宅ラッシュの時間帯にはそこそこ席が埋まったものだった。


 その収入が一時期、ゼロになった。自粛期間が終わっても、客足はなかなか戻らなかった。多くの人が感染を恐れて外食を避けたからだ。

 そのころ、俺はまだ大学生だった。だが大学ではウイルス対策で授業が行われず、申し訳程度にオンラインでの講義があるばかり。

 それでも学費はいつも通り払わねばならなかった。


「俺、大学辞めるよ」

「お前は心配しなくていい。ちゃんと大学を出て、いい会社に就職しなさい。俺みたいに、こんな小さな店で一生を終えるな」


 何度そのやりとりをしたのかも覚えていない。

 親父は諸々の金を工面するために、いろいろなところに頭を下げて回ったようだ。

 そんなうちに運悪く、良くない筋から借り入れをしてしまったらしかった。


 生きるも死ぬも難しい、まさに地獄の日々だったと思う。

 取り立ての訪問や電話は徐々に厳しさを増し、客足はますます遠のいた。


 そして、三ヶ月前のとある朝。

 コンビニの夜勤から帰ってきた俺を待っていたのは、寝室の天井からロープでだらしなくぶら下がった親父の姿だった。

 頼りない陽光が重いカーテンを朧ろげに透かす、陰に沈んだ部屋。鼻をつく、糞尿と埃の入り混じった臭い。

 それは、あまりに現実味のない光景だった。いっそ悪い夢であれば良かったのに。


 ただ、防災無線のチャイムだけが、遠慮も知らずに鳴り響いていた。


『感染防止のため、一人一人が不要不急の外出を控え……』



 スマホのアラームで目を覚ます。

 午後九時半。コンビニバイトへ行く時間だ。


 親父が死んでから、俺は大学を辞めた。借金については債務整理で過払い金があることが分かり、なんとかチャラになった。

 結果、何も持たない俺だけが残った。手元にあるのは親父の形見のボロい原チャリのみ。

 ぺけぺけぺけ。朝昼晩と駆け回る。

 大学中退の身で正社員の働き口が見つかるはずもない。このご時世なら尚のこと。

 バイトの掛け持ちでどうにか食い繋ぐ日々は、先も見通せやしない。


 現実は続く。俺の地獄は終わらない。

 親父の遺影には、手を合わせる気にもならなかった。俺は親不孝な息子だろうか。

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