恐ろしい魔物がお前を石にして食べてしまう 3
「冗談だ」
男が手を下げたのと同時に、アンは気が抜けて意識を失いかけた。腰が据わっていられなくなって、横に倒れる。
男は力の抜けた彼女を素早く支えると、大きな手で優しく横たえた。
「生きたまま『石』――
ひゅ、と肺が音を立て、アンは咳き込んだ。
――それは死んだら石に出来るってこと?
男は右手から水差しを出すと彼女の唇に押し当て、「飲め」と傾けた。
混乱する中、不意に舌先に感じた冷たさ。井戸か清流か、その泥味のない初めての水を与えられ、アンは一心不乱に飲んだ。丸一日、水など飲んでなかったと気づく。咳き込みながらも水を飲み干して人心地ついた。
ほぅ、と満腹感に息を吐き出せば、背を支えていた手は離れた。目の前で水差しが消え、乾いた手拭いが出て来る。
アンは男から口元を雑に拭われ、恥ずかしさが込み上げた。まるで子どものような扱いだと思った。
「もう夕方だ。森を出るのは明日にするといい」
男が背を向けた。黒い衣装が揺れて部屋を出て行く。
「ま……待って」
「私は仕事をする。邪魔をしないように」
扉が閉まった。
――仕事……?
『森へ行け!』
そう言って投げつけられたのは、母の遺骨ではなかったか。
『お前たちは人が死ぬと、遺骨を私の処に持ってくるだろう。石にしてくれ、と』
――とうさん。かあさん。
『森へ行け!』
――とうさんが『仕事』に行くときは、村で誰かが死んだあとだ……
「あたし……かあさんの骨を『石』にしなきゃいけないの……?」
ガチャ、とどこかで錠の音がした。
アンは夜の暗闇の中で目蓋を開けた。息をひそめ、男の気配を窺う。
あの全身黒ずくめの男はこの部屋を出てからずっと同じ部屋に閉じこもり、ようやく出てきた。彼女はそっと寝台を下り、裸足のまま床に足をついた。足の裏に細かな砂を踏む。
不思議なことに足や腕にできたはずの引っ掻き傷はどこにもなくなっており、アンはあの男の不思議な力のせいだろうと確信していた。
得体の知れないことは怖い。とはいえ治してくれたのはありがたく、また傷をつくるのも嫌だ、と彼女はゆっくり歩き出した。部屋を出ると、細い廊下の先に薄ぼんやりと四角い灯が漏れて見える。手を伸ばした。
「……何の用だ」
ノブを押っつけると、そこは台所だった。手に木彫りの杯を持った男がおり、振り返った。
「腹が減ったのか」
減っていた。けれどアンは肯くよりも先に、鼻を摘まんだ。部屋中を見回して、眉を盛大に
「
「分かっている」
男は鼻に皺を寄せ、飲み物を呷った。
台所は洗い物で溢れ、食事をとるべき卓には汚れのこびりついた木皿が積み重なっていた。何か腐るような臭いが、鼻を摘まんでも感じられて、アンはますます顔を歪めた。
「用がないなら寝ろ」
「
「そうか」
男はそう言ったきり体を折り曲げて、窮屈そうにかがみ込んだ。そして再び立ち上がると「食え」と干からびかけたパンを差し出した。
アンは、その乾いてひびの入ったパンと男とを交互に見遣り、最後に首を傾げた。鼻はまだ摘まんだままだ。
――別人みたい
男は顔を隠していた長髪を後ろで一つに結わえており、彼女は思っていたよりも若い姿に思わず目を瞬いた。黒い髪や眉は見慣れず変な感じはするが、嫌な印象はなかった。
――それに……あれ、何かしら。
男の目の周りには見たことのない縁取りがあった。角の取れた四角は鼻の上で繋がっている。鈍い銀色が縁取る楕円には、まるで透明な氷が張っているようで、天井から降る白い光に反射してあの瞳の色を見えづらくしていた。何かの装飾品だろうか、とアンはそれを眺める。
杯を傾ける男の右手には、あの指環もないことが気になった。
「食べないなら戻れ。私もまだ仕事だ」
アンが受け取らないからか、男は手を引っ込めかけた。遠ざかる食料に「食べるわ!」と叫び、彼女はそれをぶん
つい鼻から手を離してしまい、アンは酷い臭いにあぁう、と唸る。
「さっきの部屋で食べるといい」
男は台所の隅にある樽から葡萄酒らしき飲み物を杯に注ぐと、鼻と口を覆って悶えるアンの横をすり抜けた。
そして錠の掛かった扉を開け、かすかな足音を残して出て来なくなった。
アンは酷い悪臭に背を丸め、急いで台所の扉を閉めると元の部屋へ戻った。――パンは見たままの味で少し黴臭かった。
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