あまりに美しくて魔物が食べて自分の物にしてしまう 2
酷い臭いだ、とアンは呆然と石造りの床に這いつくばっていた。恐怖の余韻に喘ぐ度、首筋を短くなった髪がちくり刺す。
男は彼女の髪を短剣で切り落として部屋へと姿を消し、それからしばらく経っていた。
今、灯の漏れる部屋からは嗅いだことのない臭いが漂っており、その余りの強さにアンも泣いてなどいられなかった。
――あの人はきっと鼻がないんだわ……
人間の形は嘘だったのだ、そうでなければこんな臭いを我慢できるはずない、とアンは腕に鼻を押しつけ懸命に息をした。
あの光る紫の瞳を見た瞬間から、心臓を刺すような恐怖が湧き出して止まらなかった。
――あの人は本物の魔物だったんだ
膝が震えていた。ずっとだ。
けれど今なら追いかけて来ないのかもしれない。このままでは本当に殺されるかもしれない。
アンはそう自分を奮い立たせた。
頬を毛先がざらりと撫でる。膝を叱咤して立ち上がった。そのまま壁を伝いながら階段に足を掛けた。
「……村に、戻るんだな?」
心臓を握られた気がした。
近づいて来る気配にアンの背が反った。振り向けない。
「お前の髪だ。持っていけ」
低い穏やかな声に何かを握らされ、思わずアンは振り向きかけた。
「今すぐ出て行け!」
耳を割る、大喝。
「二度と来るな!」
アンは駆け出した。
石段を登った、扉をくぐった、口から腕を外し廊下を駆けた、外へ、外へ――!
命からがら森を駆けた。アンは道など分からない。けれどただがむしゃらに枝を避け倒木を越え、半日掛けて緑の迷路を抜けた。
そして見覚えのある小さな家を目にし、彼女は気が抜けて何かに蹴躓いた。膝を酷く擦り、倒れる。頬に石と僅かに伸びた雑草が触った。
――暖かい陽射しが降り注いでいた。晒された項が焼けていく感覚。
地に伏した彼女にも等しく春は降り、命の萌芽を祝福していた。
「痛い……いたいよ……」
何度、痛い目に遭ったか分からなかった。父が死んで母が死に、何度人から蔑まれ罵倒され、拒否されたか。
「かあさん……とうさん……!」
――会いたい、一目でいいから顔が見たい。
もはやこの世界にアンを抱きしめ、温めるぬくもりは何処にもない。
やはり夢と決めて良かった、と歯を食いしばった。森で過ごした幸せな日々、暖かくて美味しい食事、勝手に『ヴィオ』と呼んだ優しかった男も全て――!
どうしてと自分の不幸を恨んだ。怒りは沸かず、ただ辛かった。
アンは春の陽射しさえ寒々しく、地面に這いつくばったまま泣いた。
アンの父の墓は森の側の、村からは目立たない場所にあった。
彼女は「どうしてこんな場所に? もっと景色のいい場所がいいのに」と母に何度も尋ねたことを思い出す。
――かあさん、「いいのよ」って笑ってた
その空色のぬくもりをも思い出し、アンは地面に差した小さな板を撫でた。
膝をつき、父の安らかな眠りを祈る。
そして腰に提げた革袋を持ち上げようとし、ピタリと動きを止めた。
「違う……これじゃない」
腰に提げていたのは見覚えのない上等な革袋だった。
――これ、あの人が寄越した……。あたし……あぁそんなことより、かあさんのは……!
朝、確かに括りつけたはずだった。
そこまで考え、アンは先ほど転んだ場所まで急いで戻った。
「……ない、どうしよう……かあさん」
裾を草の汁で染め、彼女は文字通り草の根を分けて探したが、遂に見つからなかった。
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