あまりに美しくて魔物が食べて自分の物にしてしまう 3

 結局、アンは父母と暮らした家に戻る他なかった。男に見栄を張り、山を越えると言った思いに嘘はなかったが、彼女の心は萎れていた。

 疲れ果て、首を伝う汗を拭う。水が飲みたいとかめを覗き込んだが、そこは空っぽで、水を汲むには村の井戸へ行くしかなかった。

 硬い寝台に腰掛けると、途端に疲れがのし掛り、彼女は伏した。

 ――かあさん……ごめん。こんなことなら、すぐにでもとうさんの側に埋めてあげれば良かった

 ――どこを走って来たかも分からない。もし途中で落としたのならきっと見つからない

 ――村にはいられない、でも……また森に探しに行く? それとも村を出る?

 全てが半端でどうしたらいいかも分からない。

 アンは孤独な室内をぼんやりと眺めた。明かり取りの隙間から、黄色い陽射しが四角に差し込んでいる。

 もう夕方前。喉が干上がって、どうにかなりそうだ。

 ――井戸に行けば、森から戻ったことが知られてしまう

『村にいたいなら、エドの仕事をしろ!』

 何度か目を瞬き、アンはゆっくりと立ち上がった。

 ここで生きるにせよ、何処かへ行くにせよ、水を飲まねば生きてはいけない。アンは重い足取りで桶を持ち、村へと向かった。

「アンだ!」「アンが来た!」「拾いっ子!」

 村を駆け回って遊ぶ子ども達が、アンを揶揄からかう。程なく、子守りの女達も彼女に気づいた。口々に責め立てる。いつもこうだ。

「あんた森へ行ったはずじゃないのかい」「なんだいそのおかしな髪は。服も汚いねぇ」「石を持って来たのかい? 水が飲みたきゃ先に石を出してきな」

 井戸の蓋が閉められた。

「大方、恐ろしくて逃げ出してきたんだろ!」

 嘲笑が起こった。

「穀潰しのあんたには、仕事をしなけりゃ何もあげられないよ!」

 アンは酷い目眩に体が揺れた。

 目の前を過ぎる子ども達は、アンが見たこともないような甘い匂いのパンを食べている。女たちは色の違う上等な布の服を揺らして笑う。

 井戸の蓋は重く、アンひとりの力では持ち上げられない。

 辛うじて飲める泥水を汲むには、また森の側まで行かなくてはいけなかった。

「ほら、そんなところに突っ立ってないで、早く森へ行きな。少しは村のために働きなよ」

 ――やっぱりここにはいられない

 アンはのろのろと踵を返した。せめて男達が来る前に立ち去らなければ、どうなるか分からないと思った。飢え死よりも暴力が酷く怖かった。

 何も言い返さずに去る彼女の背に、誰かが言った。

「エドもネリも、もうちょっと碌な子を拾ってれば長生きしたのにねぇ」

 足が止まった。

「いいや、ネリとはそっくりかもしれないよ。父親はエドじゃなかったんだろうさ」

「あぁエドも馬鹿だよねぇ、あんな子さっさと捨てちまえば良かったのに」

 アンの目蓋に、四つの空色の瞳が浮かぶ。

『お前は私達の大事な娘だよ』

 ――アンはあらん限りの声で喚いた。

 桶を振り回し、加虐的な笑い声を発する女達へ殴りかかった。

 子ども達が騒ぐ喧しい声。女達の跳ね上がった眉と怒号。

 殴り方など知らない。十三の痩せっぽちのアンと大人の女では勝てまい、とも。

 けれど、絶対に許せなかった。

 色の違う自分を愛した、父母を貶めることだけは。


 騒ぎを聞きつけた男達が来るまでに、アンは縛られ痛めつけられた。子どもにすら踏まれ、唇にも頬にも、服にも血が滲んだ。もはや見世物のようにアンは取り囲まれ、見下ろされていた。

「おい、こいつ何か持ってるぞ」

 難なくうつ伏せられたアンのが腰から、誰かが革袋を奪った。彼女を痛めつけるのに飽きた者達が何処かから盗んだ物だろう、と好き勝手に言い始める。

「ちが、う……!」

 ――あたしの髪よ! そう言ってたもの!

「おい……これ、『石』じゃないか!」

 急に村人達は静まりかえった。アンは頭を押さえつけられ、それを見上げることもできない。『石』を持った男が見る間に青ざめた。

「こんな色、見たことないぞ……」「こいつ、森に行って魔物に会ってきたってことか?」「まさか『使者』に」「こらっ子どもに聞かれる! その名前で呼んじゃ……」

 あたしは魔物に会った! と、アンが口を開こうとしたときだった。

「何を、している」

 地を這うような声が天から降った。次いで黒い影が、周囲を飲み込む大きさを以て降り立った。

 アンの地を舐める視界に、うねる角の影。

「その娘は既に私の『使者』。『使者』を卑しめるとは……この村は滅びたいと見える」

 アンの頭を押さえていた手が急に力をなくした。ヒッと近くで誰かの悲鳴が聞こえ騒がしかった声が消える。彼女が視線を上げた刹那、が彼女を包み込んだ。

 その清潔な『泡』の匂い。

「ヴィ、オ……さ?」

「黙っていろ」

 アンは黒の中で優しく立たされた。

「でも」

「こうなると知っていたら、村には帰さなかった。済まない」

 再び温かく包まれた。

 ――男も女も恐怖に蒼白を晒し、立ち竦んでいた。母親だけは子どもたちを抱きしめていたが、みな

 アンを飲み込んだように見えた禍々しい影は、村の半分をも翳らせて地を震わせた。

「寿命を全うしない骨は不味い」

 ひとり、男が腰を抜かした。

「エドを殺したのは、誰だ」

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