恐ろしい魔物がお前を石にして食べてしまう 1

 アンの目はどこか緑がかった不思議な色をしていた。父母も、村の誰も持たないその色のせいで、彼女はいつしか『拾い子』と噂された。

 父母は否定したが、周囲はそれを信じない。アンは自分の瞳を見たことがなかったので、皆と違うことがよく分からない。けれど彼女が物心ついた頃には、家と村は疎遠になっていた。

 エドの仕事はいつも夜だった。村中が寝静まった夜でも、静かに仕事へ出掛けた。それは毎日ではなく、ひと月も出掛けないこともあれば、立て続けに七日出掛けることもあった。

 「とうさんの仕事って何?」そう尋ねても「今に分かる」と、アンは遂に教えられなかった。尋ねる度に、父は困ったように眉を下げて彼女の頭を黙って撫でた。

 いつも夢に見るのは父の困った顔。母の温かな胸のぬくもり。

 『お前は私達の大事な娘だよ』彼女を優しく覗き込む四つの空色の瞳。愛されていた、幸せだった――。 


 視界がじわりと明るんだ。

 体が心地よく暖かく、アンは深く眠っている内に死んでしまったのかと思った。けれどすぐにそうではない、と気づく。――風に布の動く音、木の家具が床を擦る音。

 アンは恐るおそる目を開けた。

 途端、目蓋の隙間から光の洪水が入り込んだ。眩しい! 彼女は咄嗟に目を瞑った。光に背を向けようと寝返りを打ち、自分が寝台らしき場所に寝かせていたことを知る。干した布の匂いと、肌触り。

 父が死んでから感じたことのない清潔な感触だった。

「起きたか」

 低い男の声に、アンは驚いてもう一度目を開けた。

 真っ黒な服が見えた。

 ――人だ

 彼女はこわごわ、寝転びながらその声の主を見上げた。

 大きな黒い人物がアンを見返した。

 真っ黒の豊かな、伸びっぱなしの黒い髪。顎には髪と同じ色の髭がばらついている。前髪が長すぎて、瞳の色は分からない。

「だ、れ……?」

 アンは相手が異形の魔物でないことに安堵し、同時に震え上がった。髪の色が金色ではない人間を初めて見たからだった。

「顔色が悪い」

 長ったらしい袖が持ち上がり、大人の男の手がアンの額に触れた。冷たい金属の感触に、彼女はヒッと声が漏らした。見れば男の全ての指には指環がめられており、それぞれ色の違う煌めく『石』が戴かれている。青い石が綺羅と瞬いた。

「熱はないな。腹は減っていないか」

「おな、か?」

「碌に食べていないだろう」

 ほら、と熟れた果実が差し出された。額を撫でた手から蜜の滴るような香りが鼻先に届いた。どこから出したのか、親切にされる理由がない、などと思ったのは食べたあと。アンは数瞬も我慢ができなかった。

 飢えていた。

 アンが十三の頃、父が死んでからずっと。

 父が生きているときは感じなかった村人からの差別。母が父の代わりに夜に出掛けるようになっても、仕事の分け前は以前より減らされた。

 二人は布も買えず母のいない夜は凍えかけるほどだった。腹が減っては雪を舐め、やっと冬を越えた。三年堪え、母は倒れた。

 ――あぁ甘い、甘い!

 アンは果実にかぶりついた。咀嚼の度に果汁が掛布に落ちるのも、歓喜で溢れる唾液が伝い蜜が頬を汚したが構わなかった。

 男はアンが硬い芯まで囓るのを無表情に眺めると、指環だらけの右手を握り、開いた。すると音もなく同じ果実が現われ、彼はそれを掛布越し、アンの膝の上に乗せた。


 アンが二つ目の芯を食べきったとき、男は近くにいなかった。

 彼女は指についた甘い果汁を味がしなくなるまで舐めた。指がふやけるまで舐めて、初めて気づいた。

 自分が死にたくないことに。

 ――怖いのも寒いのも嫌だった。ひとりが嫌で、腹が減るのも怒鳴られるのも嫌だと分かった。

 魔物に石にされて食べられてしまうなんて絶対に嫌だと思った。

 もっと、食べたいと思った。

 アンは、窓から燦々と差し込む春の暖かな陽射しに頬を濡らした。

 生きたい、と泣いた。

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