恐ろしい魔物がお前を石にして食べてしまう 1
アンの目はどこか緑がかった不思議な色をしていた。父母も、村の誰も持たないその色のせいで、彼女はいつしか『拾い子』と噂された。
父母は否定したが、周囲はそれを信じない。アンは自分の瞳を見たことがなかったので、皆と違うことがよく分からない。けれど彼女が物心ついた頃には、家と村は疎遠になっていた。
「とうさんの仕事って何?」そう尋ねても「今に分かる」と、アンは遂に教えられなかった。尋ねる度に、父は困ったように眉を下げて彼女の頭を黙って撫でた。
いつも夢に見るのは父の困った顔。母の温かな胸のぬくもり。
『お前は私達の大事な娘だよ』彼女を優しく覗き込む四つの空色の瞳。愛されていた、幸せだった――。
視界がじわりと明るんだ。
体が心地よく暖かく、アンは深く眠っている内に死んでしまったのかと思った。けれどすぐにそうではない、と気づく。――風に布の動く音、木の家具が床を擦る音。
アンは恐るおそる目を開けた。
途端、目蓋の隙間から光の洪水が入り込んだ。眩しい! 彼女は咄嗟に目を瞑った。光に背を向けようと寝返りを打ち、自分が寝台らしき場所に寝かせていたことを知る。干した布の匂いと、肌触り。
父が死んでから感じたことのない清潔な感触だった。
「起きたか」
低い男の声に、アンは驚いてもう一度目を開けた。
真っ黒な服が見えた。
――人だ
彼女はこわごわ、寝転びながらその声の主を見上げた。
大きな黒い人物がアンを見返した。
真っ黒の豊かな、伸びっぱなしの黒い髪。顎には髪と同じ色の髭がばらついている。前髪が長すぎて、瞳の色は分からない。
「だ、れ……?」
アンは相手が異形の魔物でないことに安堵し、同時に震え上がった。髪の色が金色ではない人間を初めて見たからだった。
「顔色が悪い」
長ったらしい袖が持ち上がり、大人の男の手がアンの額に触れた。冷たい金属の感触に、彼女はヒッと声が漏らした。見れば男の全ての指には指環が
「熱はないな。腹は減っていないか」
「おな、か?」
「碌に食べていないだろう」
ほら、と熟れた果実が差し出された。額を撫でた手から蜜の滴るような香りが鼻先に届いた。どこから出したのか、親切にされる理由がない、などと思ったのは食べたあと。アンは数瞬も我慢ができなかった。
飢えていた。
アンが十三の頃、父が死んでからずっと。
父が生きているときは感じなかった村人からの差別。母が父の代わりに夜に出掛けるようになっても、仕事の分け前は以前より減らされた。
二人は布も買えず母のいない夜は凍えかけるほどだった。腹が減っては雪を舐め、やっと冬を越えた。三年堪え、母は倒れた。
――あぁ甘い、甘い!
アンは果実にかぶりついた。咀嚼の度に果汁が掛布に落ちるのも、歓喜で溢れる唾液が伝い蜜が頬を汚したが構わなかった。
男はアンが硬い芯まで囓るのを無表情に眺めると、指環だらけの右手を握り、開いた。すると音もなく同じ果実が現われ、彼はそれを掛布越し、アンの膝の上に乗せた。
アンが二つ目の芯を食べきったとき、男は近くにいなかった。
彼女は指についた甘い果汁を味がしなくなるまで舐めた。指がふやけるまで舐めて、初めて気づいた。
自分が死にたくないことに。
――怖いのも寒いのも嫌だった。ひとりが嫌で、腹が減るのも怒鳴られるのも嫌だと分かった。
魔物に石にされて食べられてしまうなんて絶対に嫌だと思った。
もっと、食べたいと思った。
アンは、窓から燦々と差し込む春の暖かな陽射しに頬を濡らした。
生きたい、と泣いた。
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