どうして石になっちゃうの 1

「はぁ、やっと洗い終わった!」 

 夜が明けていた。

 アンは朝一番のさえずりを聞き、思い出したように額の汗を拭った。

 汚れた木皿はあらかた片付き、無数に出て来た杯はきれいな水――不思議なことに、洗い桶の水は汚れても新しい水が湧き全く減らなかった――に浸けて葡萄かすを浮かせている。

 彼女はパンを食べたあと、どうしても気になって掃除を始めてしまったのだ。母との生活では、荒れた土地の畑仕事に明け暮れていたので体を動かしていないと落ち着かないこともあった。元来、彼女は働き者なのだ。

 ――悪臭の原因はやはり腐った作物で、床に置かれた木箱には腐った物や干からびた物、今にも破裂しそうな物がごちゃ混ぜに入れられていた。アンは息を止めながらそれらを空の麻袋に移し替え、入り口を見つけ出して外へ放り投げた。

 勿体ないと思いはしても、どれも腹を壊しそうな腐臭を放っていたので仕方がなかった。

 洗い物をし、床に散乱した箱や物を整理し、掃き清め汚れを拭う。その辺で拾った紐で括った髪は、長時間の作業で内側からしっとりと濡れていた。

 けれど時間を掛けて整頓した台所は見違えるようで、アンは喜びにひとり微笑んだ。アン自身、自分がここまで掃除好きと初めて知ったのだ。父母の家は片付けるほど物がなかったと言うべきか。

「何を、している」

 ようやく、床に落ちた果汁の黴びた塊が半分になったときだった。声に振り向けば、男が台所の扉口に立っていた。

「掃除です!」

「……見れば分かる」

「だって汚すぎて眠れなかったから」

 労働の喜びと興奮のせいで男への恐怖が薄れたアンは、相手に笑顔を向けた。

 男はまだ、目に銀の装飾品をつけており、その透明な膜越しに淡く紫が瞬いた。形の良い眉が静かに上がる。

 罵声が飛んでこず、アンは頭ごなしに叱られはしないようだと笑顔になる。言いたいことはいっぱいあった。

「助けてくれてありがとうございました。果実もパンも、とても美味しかったです」

「そうか。ではもう帰れ」

 首を振った。

「とうさんもかあさんも、もう死んで家には誰もいません。村の人からは森へ行かないと村へは戻るなって言われてる」

「……ここは森だ、それも一番奥深い。約束は果たされただろう」

 さぁ、と男が何度目かの帰れを告げようとすると、アンはぐっと顎を反らして言った。

「ここに、ここにあたしを置いて下さい! 何でもします、掃除でも洗濯も食事の用意も」

 男は面倒な顔を隠しもせず「必要ない」と背を向けた。ひとつに括った髪が尻尾のように揺れた。

「お願いします! 自分の食べる分は森から取ってくるし、寝るのは外でもいいの!」

 アンは男の側に駆け寄った。黒い服の裾を両手で掴む。

「村には……戻りたくないの」

「戻れ。ここは子どもの住むところじゃない」

 一瞥もせず、男は返した。

「でも!」

「だめだ」

 アンは「少しの間だけでもいいの!」と縋る。

 男はしばしの沈黙のあと、呟いた。

「あと三日だ」

 男の腕にぬかずいていたアンは目を輝かせて彼を見た。

「今取り掛かっている仕事が終わるまでだ」

「あ、ありがとう、ございま」

「それ以上は許さない」

 「はい!」とアンは返事をした。

「何でもします! 何でも言い付けて下さいご主人さま!」

 男はのっそりと洗い場に進み、水に浸けていた杯を一つ取り出し濡れたまま樽へと向かう。その合間、一度だけ振り返り、心底嫌そうに言った。

「ご主人さまはやめろ。このあたりでは魔物か……そうだな、カダーと呼ばれている」

「か、カダー死体……?」

 葡萄酒を杯に注ぐ男は低く笑った。

「まぁ、あとは好きに呼べばいい」

 アンはその投げやりな回答に眉根を寄せ、俯いた。

 男は「なんだやっぱり戻るか」と事もなげに言い、彼女の横を通り過ぎようとした。けれど突然に腕を取られ、男の指には葡萄酒がかかった。

「『ヴィオ』さん、はどうかしら!」

「……何?」

「その、瞳の紫がすみれヴィオ色だから! すごく珍しいし、その……あたしカダーさんっては呼びたくない」

 ちょっと怖いし、と口ごもるアンを見下ろした男はため息とともに同じ台詞を繰り返した。

「好きに呼べ。私は仕事に戻る」

「はい、ヴィオさん!」

 アンは歓喜で溌剌と返事をした。

 そうしてさっさと仕事場の扉の向こうに消えた男を見送り、すぐさま掃除の続きを始めた。一際大きな黴の塊の側に膝をつき、その辺で拾った木へらでこそぎ落とす。これは大物ね、と干からびて固まった果実らしき塊に集中し始めた。

「……おい」

「は、はい!?」

 いなくなったと思った男がごく近くにおり、アンは声を裏返して驚いた。

「水は勝手に飲め。食べ物は……あぁ、あの木箱に勝手に湧いてくる。部屋は、さっきの部屋を使っていい」

「ぇ……? 湧いて?」

「私の食事は要らない、ここの掃除が終わったら好きに過ごせ」

「は、はい……?」

「だがそこの扉の向こう、仕事場だけは絶対に入るな……もし言い付けを破ったら、石にしてやる」

「は、入りません!」

 男はそれだけ言うと、また踵を返していなくなった。大きな錠の音を響かせて、今度こそ出て来なくなった。

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