十一.出奔
早暁、と政之丞は言っていた。
一刻を待つのも惜しまれる中、初はじっと夜が更けるのを待った。
九郎次の視線が怪訝そうに度々初を窺ったが、初は素知らぬ顔で取り合わず、家人が寝静まるのを見計らう。
そうして夜半、初は赤沢家から伴って来た女中のぬいを連れて裏口から八巻邸を抜け出したのである。
焦慮するあまり、己の立てる足音や衣擦れの音にすら脅かされる。
早鐘を打つ鼓動が耳に煩かった。
家人に見咎められるのではないかと肝を冷やした。
こんなことは生まれて初めてのことだった。
家の言い付けに逆らうことは愚か、不満を口にしたことなどなかったし、それは赤沢家に嫁して以後も変わらない。
家には従うべき、従わねばならないものと思って生きてきた。
与えられた境遇の中で妥協し、それなりの幸せを見出すしかない。そういう身分なのだと思っていた。
気配を忍ばせ、頭巾を目深に引き寄せて、ぬいに続いて夜道を急いだ。
目指す先は赤沢邸である。
「お邸に着いたら、まず峰付きの女中に取り付けなさい。それからおまえが峰に直接会って、初から火急の用だと告げるのです」
義父母は八巻家からの離縁の申し出を受けたばかり。
先に見付かれば八巻邸に報せを走らせることも考えられる。
「いいですね、峰に会う前に他の家人に会ったら、自分だけが帰されたと言うのですよ」
ぬいは何度か頷き、やがて辿り着いた赤沢邸の裏口から声を掛けると、やがて門扉を潜って行くのが見えた。
初が塀の外で身を潜めていると、ややあって再び勝手の戸口が開く。
そうして、ぬいがひょっこりと顔を出し、初の姿を見付けると声は上げずに手招いた。
「お嫂さま、どういうことなのです。八巻家のほうから一方的に離縁だなどと……! まさかお嫂さまがお望みになったわけではないでしょう」
裏口から赤沢邸の敷地に入った途端に、寝間着姿のままの峰が駆け寄った。
「お兄さまのご不在に、一体どんなわけがあるのですか。それにこんな時分に……」
初の腕を掴み、矢継ぎ早に問い掛ける峰を制すると、初は女中たちを下がらせた。
「……太兵衛さまに刺客が放たれました」
途端に、峰が耳に全てを集中したかのようにぴたりとその動きを止める。
「闇討ちです。討手は間もなく城下を発つでしょう。討手が迫るよりも早く、太兵衛さまにこのことをお伝えしなければなりません」
「闇討ちだなんて……どうして? どうして、お兄さまが?」
「今は時間がありません。八巻の家も黙って出て来ました。峰、あなたに頼みたいことがあります──」
***
政之丞と太兵衛とでは、どちらの技量が上なのか。
先に負った太兵衛の手傷がどれほどのものかは分からない。
だが、少なくとも政之丞が相当の遣い手であることは疑いようもなかった。密命を下されるだけの根拠は必ずあるものだ。
それを手負いの状態で迎え撃つのは、如何に太兵衛でも難儀するに違いない。
政之丞が勝てば、政之丞本人がそう告げたように初も腹を括らねばならないだろう。
夫を殺めた政之丞に嫁ぐことになる。
太兵衛が勝つとすれば、兄九郎次の無二の友である政之丞は死する。
そして恐らくは太兵衛が生きて帰ったとしても、すべてが再び元の鞘に納まることはないだろうとも思った。
どちらにせよ、失うものは大きい。
政之丞の胸の内は、初には到底計り知ることのできない領域だった。
初は城下から岩角村へと向かう街道に出て、一歩でも先へと足を進めた。
春とはいえ、霧雨の漂う未明の風は肌を冷やし、ゆっくりと、しかし確実に体温を奪っていく。
彼は誰時の無人の街道は、不穏な気配さえ呑み込むかというほどに静謐な空気に満ちていたが、初の鼓動は今も煩く高鳴っていた。
もう直に、八巻家でも初の姿が消えている事に気が付くだろう。
いや、常に妹を気に掛ける兄のことだから、既に気付いているかもしれない。
邸に初がいないと分かれば、まず赤沢邸を探るだろう。
そこにもいないとなれば、宗方家。
そして城下に捜索が出廻る。
その目が届くことを恐れた。
雨で悪路となった街道は、時折初の足を掬い掛ける。
途中、背後から馬蹄の音が近付きぎくりとしたが、咄嗟に木陰に入ってやり過ごした。
こちらに気付いてか否か、馬上の人影は脇目も振らずに抜き去って行く。
どうやら捜索に出た追手でもなく、政之丞でもなかったことに安堵の息を吐くと、初は立ち止まり駆け去っていく馬を眺めた。
それから幾らもしないうちだった。
再び馬の足音が近付き、それは今度こそ政之丞だったのである。
元より、女の脚で政之丞よりも先に太兵衛の元に辿り着けるとは思っていない。
するりと頭巾を外して馬上に声を掛けると、政之丞は大袈裟なほど顰蹙した。
慌てて馬を降り、目の前にいるのが初であることを確かめるように間近に迫る。
「どうして初どのがここにいるのです! それもたった一人で……、何かあったらどうするつもりですか!」
次いで、九郎次は何をしているのだ、と喉の奥で呻くのが聞こえた。
「政之丞さま」
咎め立てされていることには触れず、初は静かにその名を呼ぶ。
訝る政之丞の手を取り両手で握り締めると、初はその双眸を上目に見た。
「私も共にお連れ下さい」
今度こそ、政之丞はその目を瞠った。
「何を馬鹿な──」
「お連れ下さらなければ、このまま自分の脚で参ります」
じっと見合うこと暫し。
再び先に口を開いたのは政之丞であった。
「貴女が赴いたところで、私の役目が消えることはない」
「そのくらいのことは分かっています」
「ならばなぜ、こんなことをなさるのか!」
「太兵衛さまを死なせたくないからです!」
「………」
政之丞は声を詰まらせ、ぎこちなくその視線を外す。
「首尾良く戻れば、貴女を妻として貰い受けることになる。お上も筆頭も、既にお認め下さっている」
「もし、無事お戻りになるのが太兵衛さまだったら、どうします」
「そのときは、──貴女の好きになさるといい」
城下からは既に遠い。このまま初一人を置き去りにして先を行くことも出来ず、かと言って野盗の蔓延る地に連れて行くことも出来ない。
苦渋に満ちた様子で暫時瞑目すると、政之丞は無言のまま初の身を抱えて馬の背に跨りその馬首を返したのだった。
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