十.危疑
昨夜から続く雨で八巻邸の庭にも泥濘が出来、冷たい雨のために外気は肌寒かった。
八巻邸に留め置かれたまま、初は懊悩していた。
このまま父に従うべきなのか。
本当に従って良いのか。
初自身でも離縁は考えていたことだ。
いつ太兵衛から去り状を渡されてもおかしくないと思っていたし、その覚悟も出来ていたつもりだ。
だが、太兵衛本人からではなく、実の父と兄の手筈で離縁に持ち込まれたことに納得がいかない。
そこに夫の太兵衛の意思は全く介されていないのである。
出立の前、義母に取り合うことのないよう念を押していた太兵衛は、こうなることを懸念していたのだろうか。
返り討ちにしたらしいとはいえ、手傷を負っているはずの太兵衛の身もひどく気に掛かっていた。
「初どの」
八巻家に帰ってからすっかり聞き慣れてしまった声に呼ばれ、初は視線を上げた。
「政之丞さま」
政之丞もまた、この件に絡んでいるかもしれない。
太兵衛の出向から離縁、そして今回の襲撃事件に至るまでの一連のことに。
一度そう考えてしまうと、政之丞に対しても素直な眼差しを向けられなかった。
「何か、御用ですか」
素っ気なく訊ねれば、政之丞は心なしか哀しげに笑った。
「そう警戒しないで頂きたい。先日は大変な失礼をした。お詫び申し上げる」
「いえ」
言葉短に返すと、初はふいと顔を背けた。
開け放した障子戸の先には、春雨に烟る桜と木蓮の枝から不規則に雨粒が滴り落ちる。
膨らみかけた蕾は冷たい雨に濡れ、灰色に濁る庭の景色に僅かばかりの彩りを感じさせた。
「初どのは、太兵衛を慕っておいでか」
「……何ですって?」
ぎょっとして見返すと、政之丞は生真面目な面持ちで初を見据えていた。
単刀直入に訊ねるにしても、政之丞らしくもない、あまりに不躾な問いだった。
心を問われるとは思ってもみず、初は声を失う。
太兵衛を慕っているか、否か。
今の初に、即答出来る問いではなかった。
それは、と言い掛けて固唾を呑む。
「離縁となっても、やはり……、私の求めには応えて貰えないのでしょうか」
重い沈黙が流れ、そぼ降る雨の微かな音が耳につく。
「長年、偲んで参りました。貴女が嫁いだ時、私は太兵衛を恨みもしました……。このことは、九郎次にも打ち明けたことはありません」
聞きながら、初は太兵衛の顔を思い浮かべた。
近頃は見る度に眉間に皺を寄せ、憮然とした顔ばかりだった。
それでも、嫁入ってからの日々は仲も睦まじく、時には峰も交えて談笑し、太兵衛もよく笑っていたものだ。
当時はまだ、初も今ほど思い詰めることもなく、太兵衛にとって安んじることの出来る場所でいられたはずだった。
今、邸の中にも彼を笑顔にさせるものはなく、勤めに出向いた先でも傷を負い、呻吟している。
思い巡らせた胸の奥深くで、針を刺すような痛みを覚えた。
「……初どの」
不意に名を呼ばれ、はっとした。
政之丞の前でぼんやり物思いに耽っていたことを、初は即座に後悔する。
いつの間に側へ寄ったのか、政之丞の腕が腰を支えるようにして初の身体を抱き寄せた。
空いた手が初の頬を滑り、切なげに潤んだ眼差しが迫ったかと思うや否や、唇に温かく柔らかな感触が伝う。
瞬間、目の前が暗くなり、初は弾かれるように政之丞の胸を押し返していた。
「何をなさるのですか、人を呼びますよ!」
「今だけでもいい。太兵衛でなく、私を見てはくれませんか」
政之丞はやや驚いたようだったが、すぐに初の手首を捕まえると押し殺した声で囁いた。
「そんなに気掛かりですか、太兵衛のことが」
「当然です。突然離縁だなどと言われても、太兵衛さまはきっと納得なさらないはずです」
睦子の勧めをあれだけ頑なに突っ撥ねていたものを、太兵衛の不在をこれ幸いと勝手に話を進めただけのこと。
太兵衛が知ればすぐさま撤回させるだろう。
そこにどんな理由があれ、太兵衛は容易く頷きはしない。
嫁してからの歳月がそう思わせるのか、単に政之丞を拒む建前としてそう思い込んでいるだけなのか。
「家同士の意向とあっても、このようなやり方は……、騙し討ちと同じです」
知らずと父の遣り口に対する反撥が口をついて出た。
「そうではない。お父上とて、こんな強引なことはしたくなかったはずです。しかし、そんなことも言っていられなくなった」
「──どういうことです」
やはり何かある。
太兵衛の身に何かが差し迫っていることを直感した。
「貴女だけは、何としても救い出したい。掃部介さまも、その一心だったはずです」
「ですから、何なのですか。何が起こっているというのですか!」
業を煮やし、初と政之丞の形勢は逆転した。
政之丞の襟を強く握り、初は声を荒らげる。
その様子に気圧されたふうに、政之丞は視線を泳がせた。
「教えたら……、貴女は太兵衛でなく、私の帰りを待っていて下さるのか」
視線を外したまま、政之丞が押し殺した声で呟く。
帰りを待つ。
その一言がすべて物語っているように思えた。
(──この人は、太兵衛さまを斬りにゆくのだわ)
それが誰の差し金なのかは判然としない。
よもや父の掃部介か、あるいは兄の九郎次か。
否、政之丞が断れぬということは、もっと高みにある者の意図が巡らされていることは明白。
城の中を知らぬ者でも、あとは推して知るべしというところだった。
「明日の早暁、城下を発ちます。私が無事に勝って帰れば、両家の意向によって貴女はそのまま宗方に再嫁することになるでしょう」
覚悟を決めて頂きたい、と言い残し、政之丞はどこか名残惜しげな面持ちで初に背を向けた。
***
八巻邸の門を潜り抜けると、政之丞を呼び止める者があった。
「どうした、もう帰るのか?」
「九郎次か……」
「折角だ、一杯やって行かんか」
九郎次は片手で杯の形を作ると、呷る手振りで酒に誘う。
だが政之丞は答える代わりに小さく首を左右に振り、八巻家の玄関を振り返った。
「おれはこれから所用で出掛けねばならん。九郎次、くれぐれも初どのから目を離すな」
「初? 初と何かあったのか」
「何もない。……ただ、おれに何かあったらその時は、お前のところの兄弟から一人、宗方家に養子を出して貰えんか」
酒に誘った笑顔を途端に曇らせ、九郎次の顔は見る間に怪訝なものになる。
「なんだ急に。それはどういう──」
「すまん、よろしく頼む」
政之丞はそれだけ言い残すと身を翻し、霧雨の中を駆けていった。
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