九.密命

 

 

 風が強く吹いていた。

 空に暗雲が立ち込める中、城内は火を灯さねば人の顔も判然としない暗さだった。

 下城の太鼓が打ち鳴らされて暫く、政之丞は近習詰所を出ると暗い廊下を静かに歩む。

 道すがら、また八巻邸に立ち寄り、初に詫びようと思っていた。

 初の手を取り、らしくもない性急なことを口走ってしまったのを、些か悔いたのだ。

 いつも通り中間を伴って門を潜ると、黒々とした雨雲からぽつりぽつりと雨粒が落ち始めたところだった。

「傘を」

 中間から受け取った傘を拡げた、その時。

 背後から脇をすり抜けた者があった。

「………」

 笠を目深に被ったその男はすり抜けざまに一言呟くと、そのまま下城の藩士に紛れて何処かへ消えてしまった。

 何処かで見た男である。

 ──筆頭家老の屋敷まで御足労願いたい。

 たった一言、政之丞の返事も聞かずに去って行った男の言葉だ。

 傘の縁から曇天を仰ぎ、政之丞は吐息した。

(嵐が来そうだ)

 いや、嵐は既にこの月尾藩を取り巻いていて、その渦が愈々政之丞の立ち位置を掬い上げに掛かった。

 恐らく、さっきの男は剱持の家士だ。

 加賀守の用で出向いた時に見かけたことがある。

 筆頭家老が直々に、しかし人目を憚って政之丞を呼び付けている。

 それを無視できるはずもなかった。

「少々、いつもと違う趣向の用が出来た。先に戻り、遅くなるかもしれぬと家人に伝えてくれ。迎えも要らぬ」

 中間を先に帰すと、政之丞はゆるりと踵を返し、家路とは真逆の方向へ歩き出した。

 

   ***

 

 折角色付いてきた蕾が、この嵐で駄目になってしまわないか。

 無事に花開くことを願った。

 政之丞は剱持邸を訪れ、執務部屋の並ぶ奥の座敷に通された。

 普段、加賀守の遣いでやって来る時には通されたことのない部屋だ。

 通されてすぐに茶を運んできた者があったほかは、誰の声も気配もない。

 一切の人払いが済んでいるものと見えた。

 行灯の火がぼんやりと照らす室内は、それでもなお暗く、目の前に座す男の表情もその陰に隠している。

 羽織から袴、足袋や扇といった小物に至るまで、筆頭家老という肩書に似合いの上等な物ばかりを身に着けていた。

「よう来てくれた。急なことで驚いたであろう」

 居住まいを正し、政之丞は頭を下げる。

 すると剱持は軽く笑い、畏まる政之丞を制した。

「堅苦しいことは抜きにしよう。用というのは他でもない、岩角村の方面で少々あっての」

 間もなく六十に届くかという年季の入った声音は低く、厳かなものだ。

 日頃加賀守に近習しているものの、それとは比較にならぬ威圧感が漂っていた。

「宗方、おぬしに頼みたいことがある。先手はうっかりやられてしまいおったわ」

 はじめからおぬしに頼むべきであった、と剱持は吐息混じりに言う。

 やはりな、と思った。

 剱持邸に呼ばれた時点でも、何となく用向きは察しが付いていた。

「それがしには、とても務まりますまい」

「話も聞かずに辞する奴があるか。これはおぬしでなければ成し得ないことだぞ」

「しかし……恥ずかしながら、近頃では随分腕も鈍りまして」

 何とか固辞したいと思う反面、これを断れるはずがないとも思っていた。

 相手はこの国の筆頭家老だ。

 政之丞の顔色が優れないのを見抜いてか、剱持は徐に話題を変える。

「まあそう身構えるな。八巻の娘も無事戻ったのであろう」

 息災にしているか、と尋ねられ、政之丞はぎくりとした。

「八巻は再嫁させると申しておったが、相手はおぬしであろう」

「いえ、どうでしょうか。初どのからは色良い返事が頂けておりませんので……」

「なんだ、元々おぬしらこそが夫婦になるはずだったのではないのか?」

 意外そうに口を歪める剱持に、政之丞は苦笑う。

 ややあって、剱持はじっと政之丞の目を睨み付けるように見た。

「悪いことは言わぬ。八巻の娘が大事なら、早々におぬしが娶り、守ってやらねばならんぞ。太兵衛に添わせたままでは、その初とやらにまで咎が及ぶであろうからの」

 脅しをかけるような口振りに思えて、政之丞は奥歯を強く噛み締めて口を噤んだ。

「清左衛門を排斥する術は幾らでもある。だが、あれを排しても太兵衛が台頭してきたのでは意味がない。あれは抜け目のない男だ。清左衛門の繋がりをそのまま引継ぐ可能性もある」

 太兵衛が初を娶ったのは、敵対関係の緩和を図る狙いがあった。

 だがその一方で、今まさに野盗の被害に遭っている岩角村を管轄する山奉行と癒着し、材木問屋の便宜を図っている可能性がある。と、剱持はそう言及した。

「岩角の一帯は桐の上質なものが採れるそうだからの」

 たとえ私有の山林であっても、藩の許可なしに伐採することは出来ない。

 必ず藩へ届け出て、奉行の検分を受けるのが決まりだった。

 伐採したうち半分は藩へ納めねばならないが、それを目溢しして上納させずに材木問屋へと流す。

「要となっているのは問屋だ。赤沢家は一切村や奉行とのやり取りはしない。随分と長い間、そうした関係が続いておるようだ」

「そのようなことが……」

 仔細を耳にするのは初めてのことで、その大掛かりな不正の実態に顰蹙した。

 財政難に喘ぐ今に至るまで、長年そうしたことが罷り通ってきたことにも。

「何故、そのような不正を見逃してこられたのですか」

「おぬしも知っておろう。あれはお上の血縁なのだ」

 如何な筆頭家老でも、加賀守に真っ向から訴え出て不況を買うわけにはいかない。

 清左衛門を断ずるにも、同時に加賀守の面子を潰さぬよう慎重にならざるを得なかったのだ。

 ところが、昨今の状況は些か変化してきている。

 加賀守も三年前の赤沢家の騒動を境に、剱持や八巻といった宿老たちの意見に大きく傾いてきているのだ。

「清左衛門が以前から我らの新田開拓案に反対しておるのは、山林を切り開くことを厭うておるからだろうの」

 太兵衛本人はそのどちらにも属せず、あくまで中立であろうとしている様子でもある。

 しかし、赤沢家の次期当主である上に、中立という立ち位置は、いつどちらに転ぶか分からない至極曖昧なものでもある。

「どちらにせよ、あの父子には退しりぞいてもらわねばならん」

 故に、赤沢太兵衛を斬れ、という。

「宗方、おぬしは確か一時期、太兵衛と同門であったろう。二人が今はなき芳賀道場の龍虎と呼ばれていたのを、知らぬわしではないぞ」

「それは、──もう十年も前の話にございます」

 締め切った障子戸の向こうで、愈々強くなりだした雨が地面を穿つ音が響いていた。


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