八.凶報

 

 

 太兵衛が代官屋敷において何者かの襲撃に遭い、負傷したという。

 赤沢家から同行していた家士が夜通して城下に戻り、報せを受けた峰が機転を利かせて八巻邸へ遣いを走らせてくれたらしい。

 ざっと冷水を浴びせられたような気がして、初は暫し凝然としたが、ややあって遣いの下男を問い詰めた。

「それで、怪我の様子はどうなのですか」

「咄嗟に応戦なさったようで、お怪我そのものは大した傷ではないとのことです。ただ──」

「ただ……?」

「斬り付けたのは、どうも賊ではなかったようで……」

 下男の言葉に、初は肌が粟立つのを感じながら、眉を顰めた。

「どういうことです」

「いやそれが、下手人は目明しの男だったらしいのです。太兵衛さまの返り討ちに遭い、その場で自害したとのことです」

 真相は分からぬままだという。

「村の者が、何故──」

 益々解せなかった。

 番組に配された士卒ならいざ知らず、およそ普段の関係性もないに等しい岩角村の目明しが、何故太兵衛を狙うのか。

 その理由も見当が付かなかった。

(でも、お命を狙われていることに違いはないわ)

 赤沢家は、確かに家中に敵は多いだろう。

 しかし、城から遠く岩角の農村に関わり合いがあったとも思えない。

 赤沢家は良くも悪くも商家との繋がりこそ深かったが、農政に関しては寧ろ剱持、八巻のほうが強く改革を推し進めてきた印象があった。

 農地拡大のため、開拓事業を推し進めてきた筆頭家老の剱持を支持し、八巻家も協力してきた。

 赤沢と剱持がどうも対立しているようだと初が訝しく思ったのは、そこからである。

 むろん、実父掃部介や実兄九郎次がおなごの初に藩政の内情をつぶさに話して聞かせることなどなかった。

 だが、夫の太兵衛は時折邸で酒を嗜むと、初を相手にぽつぽつ自らの苦境を溢すことがあったのである。

 太兵衛は父清左衛門の派閥にも、剱持の派閥にもおもねらず、あくまで中立の立場を貫いてきた。

 そのために父の清左衛門とやり合うことも屡々あったようだが、剱持派から目立って敵視されることなく済んでいた側面もある。

 酒が入った上に至極断片的な話なので、やんわり聞き流していた。だが、初はこの時初めてそれを悔いた。

 太兵衛の立場は実に危ういもののようだった。

「すぐに赤沢の家に戻ります」

 咄嗟に、このまま八巻家に留まるわけにはいかないと思った。

 何かは判然としないが、自分に知り得ぬ何かが裏で蠢いているような、そんな不安に襲われた。

 連れて来ていた女中に急ぎ支度をするよう命じると、初は下男にも先に戻って義母と峰に帰宅を伝えるよう言い付ける。

 慌しく帰り支度を始め出した初を止めようと、実母もなおも表情を硬くしていた。

「もうこんな時分ですし、明日早くになさいませ」

「そうですよ。帰ってあなたがいなければ、父上も九郎次も心配するでしょう」

 口々に説得しようと試みるが、兄の九郎次が帰ってからでは余計にややこしいことになりそうな気がする。

 初はそう思い、振り切って邸の前庭へ出た。

 だが間の悪いことに、掃部介と九郎次が揃って帰宅するのと鉢合わせになったのである。

「初? お前、どこへ行く気だ」

 薄暮に翳る九郎次の顔は、剣を含んだものだった。

「……赤沢の邸へ帰ります」

 静かに告げた初の様子に、九郎次は掃部介に目配せる。それからやおら初の肩を押し掴んだ。

「初、それはならぬ」

「なぜですか」

「赤沢家には今日、正式にお前の離縁を申し入れた。清左衛門は渋りに渋ったが、話を受けたぞ」

 初は目を剥き、愕然とした。

 今日、九郎次が政之丞と連立って帰宅しなかったのは、そういうわけだったのだ。

 その打つ手の早さにも舌を巻いたが、同時に己の見通しの甘さを痛感する。

 まだ思い悩む猶予があると思っていたのだ。

「太兵衛が斬り付けられたと聞いたが、命は無事なようだ。あやつは敵が多い。此度は命拾いしたらしいが、次はわからん」

 その時に赤沢家と縁が切れていなければ、初にも事が及ぶ。

 掃部介は苦々しく吐き捨てるように言ったが、初がその中に不穏な気配を感じ取るには充分であった。

 まさかとは思う。父か兄か、或いはその後ろにいる剱持家の意図が絡んで、太兵衛に凶刃が向いているのではないかという気がした。

 

   ***

 

「初は頷かなかったのか」

 日没から降り出した雨の様子を窺いながら、九郎次が吐息混じりに言った。

 雨は徐々に強くなっているようで、軒瓦から雨樋を伝う雨水が勢い良く流れ出る音が絶え間なく聴こえた。

 耳を澄ますと微かに雷鳴も聴こえるようだった。

「自分は太兵衛の妻だ、と言ってな。もしやと思うが……、初どのは心底から太兵衛を慕っているのではないか」

「まさか。嫁ぐときだって、気の進まない顔で渋々祝言に臨んだんだぞ」

「しかし、それから八年も経つのだ。太兵衛に情が湧いていたとしても、おかしな話ではない」

 それに、と政之丞は目を伏せる。

「太兵衛が負傷したと知ったときのあの様子──、初どのは勘付いているかもしれんぞ」

「馬鹿を言え。赤沢家の奥深くにいた初が知るはずもあるまい」

 九郎次は政之丞の脇にいざり、声を潜めた。

「この後の初を託せるのは、お前しかおらん。仮に初が太兵衛を慕っていようと、奴の命運は尽きたも同然。太兵衛本人に恨みはないが、初を道連れにされては困るのだ」

「九郎次。おれも初どのは救い出したいと思う。だが……、初どのはおれを受け容れてはくれまい」

 無理矢理に離縁させたとしても、その後に再嫁することまでは無理強い出来ないし、したくはない。

 政之丞が告げると、九郎次は軽く笑った。

「どのみち太兵衛が生きて帰ることはない。太兵衛のことは不運であったと、初とて諦めるだろう」

「………」

 雨音に紛れて殆ど聞き取れぬほどの声量だった。

 政之丞は口を引き結んで思案したが、九郎次に返すに適した言葉を見いだせなかった。

「お前も知ってるだろう。初はあの通り従順で素直なおなごだ。家の言い付けに逆らうようなこともない。嫁入ってしまえばあとは政之丞、お前次第だ」

「……そうだろうか」

 他家で八年もの歳月を過ごした初が、昔と微塵も変わっていないとは限らない。

 政之丞は内心でそう思っていた。

 

 

 

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