七.揺蕩う縁

  

 

「なんという──」

 太兵衛は殆ど絶句した。

 惨いことを、と思ったが、それは声にはならなかった。

 代官屋敷に本陣を置き、夜には篝火を煌々と掲げた会所に詰めてこの地の現状を思案する。

 田畑は荒らされ、農作業小屋の焼かれた跡さえ手付かずのまま放置されていた。今時分はまだ種を蒔く前だが、今年の耕作にも多大な影響が出るだろうことは想像がつく。

 太兵衛が城下を出たのと前後して、野盗の一団が名主の家屋敷や蔵を襲った。目ぼしい物は奪われ、ついでとばかりに嫁と娘に乱暴を働いた上、屋敷ごと焼き払ってから引き揚げた。

 辛くも難を逃れた名主の男は、代官屋敷に保護されることとなったが、妻と娘は焼跡から亡骸が発見されたのだった。

「我らが一日早く発っておれば、このようなことは防げたろうに……」

「もはや野盗というよりも、暴徒と言って然るべきです」

 平松という男は、四十絡みの色黒の小男で、長くこの地の代官を勤めていた。

 名主の一家とは付き合いも深く、それだけに悲嘆と憤りの色も濃いようだった。

 村人は怯え、固く家を閉ざす者もあれば、代官屋敷に保護を求めて門前に居座る者もあり、荒らされた田畑を捨てて欠落する者も後を絶たない。

 人心を落ち着ける為にも、警固に抜かりのないよう采配を振るが、奪い取られた食糧の補填と村民の避難が急がれた。

 加えて警固の人員も含めればそれなりの糧が要る。

 本陣の蔵は既に開放されており、城からの救援は必須であった。

 破壊された家屋や水車、水路の補修も時期を考えれば急務ではあったが、いつ襲撃があるか分からない現状では、作事方を出向かせるわけにもいかない。

「まずは村内の者を一か所に集め、身の安全を確保させよ。城へ遣いを出して当座を凌ぐだけの食糧と、警固の増員を要請しろ」

「既に城へは申し出ております。しかし、城からはたった一度、荷車二台分ほどの支援があったのみ……」

 太兵衛は耳を疑った。

 捨て置けば村が絶え、被害は更に拡大し近隣の村々にも同様のことが起こる。

 そうした状況にも関わらず、城からの支援はその程度だ。

 加えてこの派兵が追加支援だとでも言うのだろう。

(城には盆暗しかおらんのか)

 しかしその中には、他でもない父の赤沢清左衛門も含まれていることに気が付き、太兵衛は臍を噛む思いであった。

「もう一度、私の名で城へ届け出よ。お上もご家老衆も事態を甘く見すぎておられるのだ」

 

   ***

 

 実家の庭にも梅や桜、木蓮が枝を巡らせ、今は梅が白く小さな花を咲かせている。

 灯籠や自然岩を配した庭園は落ち着いた趣で、初は鶯の囀る声に誘われるように庭へ出ていた。

「初どの」

 低いが穏やかに澄んだ声がかかり、初は声の主を振り返る。

「政之丞さま」

 初が八巻家に滞在してから、政之丞は何かと理由を付けて日を空けず訪ねてきていた。今日もまた、下城方々八巻邸を訪れたのだろう。

 肩衣を付けた二本差のままで、邸に上がらず前庭から真っ直ぐここへ周って来たらしい。

「兄はまだ城から戻っていないようですが、ご一緒ではありませんでしたか」

「ああ、九郎次は立ち寄るところがあるとかで、私だけで伺わせて頂いた。その……、大事ありませんか」

 宗方政之丞は、すらりと背丈の高い、貴公子然とした風貌の男だった。

 最も藩主に近い役目には、見目の良さも必要なのだろうかと思うほどには、整った顔立ちをしている。

 優しげで、物腰も柔らかいその人だからこそ、人見知りの強かった昔の初も割合すぐに打ち解けられた人であった。

「政之丞さまも心配しすぎですよ。兄や父と親しくなさるから、だんだん似てらしたのね」

「あの赤沢家ですから、心配は当然でしょう」

「けれど、太兵衛さまは大事にして下さっていますよ」

 長身の背を丸めてそわそわと初を窺う政之丞の様子が可笑しくて小さく笑うと、政之丞は憮然とした面持ちになる。

「しかし、近頃の太兵衛どのは貴女を屋敷に押し込めて、生家の人間とすら会わせなかったそうではありませんか」

「それは……」

「それでは初どのがあまりに可哀想だ」

 痛ましげな眼差しを向けられ、初はぎくりとする。

 義母の強い勧めでこうして実家を訪ねたが、もし太兵衛が知ればどうするだろうか。

 言い付け一つ守れぬことを咎められるかもしれない。

 薄く雲がかかった空からの柔らかな陽光に照らし出されるのを厭って、初は俯いた。

「皆、貴女に帰って来てもらいたいのです」

「………」

 確かに、離縁を避けているのは太兵衛だけかもしれない。

 八巻家からの申し出にも、睦子の勧めにも頑なに応じないのには、何か理由があるのだろう。

 そこまでは初も薄々気が付いていた。

 妻の立場とすれば夫の太兵衛の意に添うべきだろうが、両家の事情もある。初の心は揺らいでいた。

 離縁してしまえば、心穏やかに過ごせるだろう。

 家内で睦子の視線に刺されることもなくなるのだ。

 峰は寂しがるかもしれないが、彼女ももう十六。いつ他家へ嫁いでもおかしくない齢だ。

 考えるだに鬱々とした気分が首を擡げ、迷いが強くなるのを感じた。

「私は、この齢まで独り身で来てしまった。そのために男色家などと陰口を叩く輩もいるようです」

 罰が悪そうに肩を落とし、困ったように笑う政之丞。

「いくつか縁談もありましたが、どうしても気乗りせず、結局はすべて断ってしまいました」

 言いながら、政之丞は初の表情を探るように視線を寄越した。

「……私はずっと昔から、初どのと夫婦めおとになるものと思っていましたから」

 初自身も、兄や父の様子からいずれ宗方家へ嫁ぐものと漠然と考えていた頃があった。

 優しく穏やかな政之丞と、長い付き合いのある宗方家でなら、自分でもやっていけるかと気を楽に構えていたものだ。

「諦めたつもりでした。しかし、九郎次から貴女の境遇を聞いたとき、やはり諦めきれずにいる自分に気付いたのです」

「政之丞さま……」

「一度は切れた縁かもしれません。しかし、今一度結び直せたら、と──」

 微かに熱の入ったような政之丞の視線から逃れるように、初は思わず背を向けた。

 が、政之丞が賺さず初の手を掴む。

「初どの。私のところに、来ては頂けませんか」

 政之丞の白皙はくせきの顔が紅潮し、焦りの色が浮かんでいるのがありありと見えた。

「……手を、放してください」

 容易くは引き抜けない力で握られた手を振り解くことも出来ず、かと言って乱暴に撥ね退けるのも躊躇われる。

「私では駄目なのですか!?」

「そうではありませんが、私は今、太兵衛さまの妻なのです。そのようなお話にお答え出来る立場ではありません」

 政之丞の強い語調に煽られて、考えるよりも先に口早に言って返していた。

「兄上、いらしていたのですか」

 なおの声が間に入って漸く、政之丞の手が解かれる。辛くも焦眉の急を救われた心持だった。

 なおもその様子に気付いたようだったが、それには触れず、初を見た。

「初さまにお客さまですよ。赤沢家からのお遣いのようですけど」

 

 

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