十七.春雷のあと
筆頭家老が家名断絶の上、切腹を申し付けられるのは藩政始まって以来のことであった。
その根底に財政逼迫や不作の窮地を救う遠大な計画があったとはいえ、目下の政敵を屠るべく暗躍したことは酌量の余地を消し去ったのである。
他領から流れてきた浪人を雇い、野盗の仕業に見せ掛けて村を襲わせた。中には浪人のみに留まらず、ならず者も多くあったという。
赤沢清左衛門の動き一つで、剱持の立場は一転した。
清左衛門は過去長きに亘る、山守、問屋と談合しての材木の他領輸出に係る罪を自供。清左衛門の所業に薄々気が付きながらも、手出しが出来ずにいた郡代以下役方の者もこれを機に詳細を改めた。
番方上がりの清左衛門は、役方事情に疎いところが多く、不正にも粗が目立つ。
不透明な金子の流れる先は、実にその半分以上が遊興に注込まれていたが、領内の遊郭、旅籠、茶屋や料亭の奉公人たちに貸し付けられたものも大部分を占めていた。
貸し付けとは名ばかりで、その返済を催促するようなこともなく、半ば施しであったものと判明する。
それでも当然、禁を破った上の遊蕩がそのまま赦されるはずもなく、御役御免の上、
番頭・赤沢太兵衛、近習頭取の宗方政之丞の両名には、
一方、八巻掃部介には筆頭家老を主とする派閥に属していたことから調役の手が入ったものの、剱持の企てに直接的関与が無かったとして処分を免れた。
剱持の手の者に荒らし尽くされた岩角の農村には、直後に睦子の実兄で番頭の宇多権之丞らと共に作事方が遣わされ、城からは食糧の不足を補うべく蔵米が出されたという。
今は田畑や家々の復旧が急がれ、辛うじて田植えの時期には間に合いそうだと噂に聞く。
太兵衛の逼塞処分は私闘によるものと、加えて父の煽りを受けたところも多分にあったものだろう。
父清左衛門の棟には蟄居の申し付け通り門扉も閉ざし窓も塞がれていたが、太兵衛に科せられた逼塞においては中庭を眺めることも許され、夜間に人目を偲んでの外出も認められた。
輪を掛けて寛大な沙汰であった。
以後、藩では大きく役替えが行われることとなったのは言うに及ばない。
***
城下に帰り着いてから、初は八巻邸へは戻らずに赤沢邸に身を寄せていた。
あの夜、座して覚悟を決めた太兵衛の頭上に政之丞の刃が閃いた刹那、まろびながら太兵衛の名を叫んだ。
ほんの僅かでも遅れていれば、政之丞の白刃は振り下ろされていただろう。
思い起こせば今でも、背に冷水を浴びせられたようで震えが襲い来る。
その都度、初は逼塞中の太兵衛の側に寄り添い、その肩に負った怪我の具合を確かめた。
逼塞の沙汰を受けて以後も赤沢邸を出ることなく、日々太兵衛の傷を看護し続けていたのである。
「なあ、初。我が父ながらろくでもない男とばかり思うていたが、それだけでもなかったようだ」
「そのようですね……」
遊郭や旅籠に奉公する者の殆どは、暮らしの立ち行かなくなった農村から身売りされてきた者だ。
身を粉にして働きながら、廓や宿でもろくに食えずにいる。
そうしてその多くが年季明けを待たず病に掛かり、命を落とす。
「確かに派手に遊び回っていたらしいが、そうした者へ流れた金子も随分あったらしい」
同じ屋敷に起居していながら、知らぬことのなんと多いことか。
明るく春の日差しが降る庭を眺め、太兵衛はそう言って静かに吐息する。
単衣を着流したままの、緩んだ袷から覗く巻き木綿が今も痛々しい。
明るく心地良い日の匂いと、風が運び入れる花々の香りを感じながら、初は縁側に出て太兵衛の傍らに控えていた。
膝に乗せた初を手に、太兵衛の手がそっと重なった。
「? ……太兵衛さま?」
包むように重ねられた手に俄かに力が籠められ、初の手を握る。
節くれ立った大きな手からその温もりが伝わり、遠慮がちに指を絡めてくるのを、初はそのまま受け入れた。
ふと手許に落とした視線を上げたが、太兵衛の視線は八分咲きの庭の桜と白木蓮の花々を見詰めたまま、眩しそうに目を細める。
「初、燕だ」
何処からやって来たものか、燕が一羽揺れる桜の枝に遊び、その小さな身体に不似合いな力強い囀りを聴かせる。
長閑な景色だった。
枝から枝へ、桜から白木蓮へ。
青く晴れ渡る空に、花々はよく映えた。
「──すまなかったな」
脈絡もなく、太兵衛の口から漏れた詫び言に、初は小さく首を傾げた。
「いいえ、お詫びせねばならないのは私のほうです。太兵衛さまのご不在に、八巻の家へ出向いたのですから」
「いや、どうせ母の差し金であったのだろう。予見はしていた」
気にすることはない、と話す太兵衛の声は平穏だった。
「初」
「はい」
「わしの子は、生まんでも良いのだ」
変わらず穏やかな口調で紡がれた言葉に、初は思わず息を呑んだ。
「養子を取るでも、わしに不満は無かったのだ。確かに、家のため、保身のためと思うてそなたを娶ったことも事実だ。だがこの八年で──、そなたが笑いかけてくれるなら、それだけで良いと思うようになっていた」
太兵衛の視線の先で囀っていた燕が、枝を撓らせて飛び立つ。
春の蒼穹に
「しかしそれには、わしは相応しくないようだ」
「………」
柔らかな日差しの中を遠く飛び去って行く姿を目で追いながら、太兵衛は微かに寂しげに笑う。
「随分と長い間苦しめてしまったが、……離縁に応じようと思う。そなたが本当に慕う相手のところへ行くがいい」
低く掠れた声が告げると、重なった手が一瞬強く握られ、それから静かに放された。
温もりの去った手の甲には、漸く暖かみを帯びてきたはずの微風が冷たく感じられる。
「この先も、子は生せぬかもしれません。でも──」
初は離れた温もりを追うように、太兵衛の大きく温かな手をその両手で繋ぎ直していた。
「私がお慕いするのは、嫁してから今日までずっと──、太兵衛さまおひとりです」
その夏、赤沢邸の軒下には、燕の子が巣から顔を覗かせていた。
【了】
春雷のあと 紫乃森統子 @shinomoritoko
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