五.太兵衛と初

 

 

 赤沢清左衛門の伯母は、先代藩主の側室であった。

 先代の長逝を機に出家し世俗を離れているが、今の藩主の生母がその人だ。

 他国から迎えた正室の子が夭折したためにお鉢が回ってきたのだが、そこから赤沢家はみるみる力を持ち始めた。

 一時には筆頭にまで上るかという勢いがあったが、藩政に混乱を来たすことには慎重だったようで、次席に甘んじた。

 主君の血縁であればこそ、藩政の均衡を崩すことを恐れたのである。

 清左衛門は、その殊勝であった父親に似ず、家督を継ぐと権威を振り翳すようになった。

 謀反や簒奪めいた大事こそ起こさないものの、商家からの献金を頻繁に募り、私腹に入れたまいないも多くあったものと囁かれる。

 城下の豪商との繋がりも深く、政務上便宜を図ったようなこともちらほらと耳にした。

 睦子がその遊興ぶりを諌めても、おなごが口を挟むなと一蹴し、挙句はそうした口煩い妻を遠ざけ、従順なばかりの愛妾を寵愛し続けた。

(おなごが気にすることではない、か)

 三日後の早朝に城下を出立した太兵衛は、配下を引き連れて一路西の山間へ向かう馬上にあった。

 馬の背に揺られ、太兵衛は自ら初に言い放った一言を反芻する。

 初は従順な部類のおなごだろう。

 少々思い詰める質ではあるが、決して愚かなおなごではない。少なくとも八年の歳月を共に過ごし、太兵衛はそう思っていた。

 赤沢家にとって、即ち太兵衛にとって八巻家との繋がりは重要なものであった。

 清左衛門のために危うくなった主家からの信頼を築き直すには、八巻家と縁組するのが良策と考えた。

 そのために迎えた嫁だったが、結果として今、初につらい思いをさせていることは重々承知である。

 藩政を席巻しつつある八巻家から、赤沢家の保身のために初を人質に取っているようなものだった。

 ここ何年も跡継ぎに恵まれないことを思い悩んでいる様子が憐れではあったが、それがとうとう他に愛妾を取れと言い出した。

 加えて、初の生家からも離縁を申し出てくる始末。

 その都度断固として撥ね付けたが、初が生家の意向を知れば、自ら離縁を願い出てくるのではないかと、内心で戦々恐々とした心地だった。

 ふと見送りに出た時の初の顔が浮かんで、太兵衛は来た道を振り返ったが、既に城下の町並みは見えなくなっていた。

 

   ***

 

「八巻家から、そなたを離縁してくれるようにと、度々お遣いが来ています」

 太兵衛を送り出して翌日、初は早速睦子に呼び付けられていた。

 睦子は痩身の背筋を伸ばし、その神経質そうな目で正面に座る初をじっと見据える。

 威風すら漂う姿には大身家の矜持が溢れ出ており、それが高圧的に感じられて、初はいつも義母の前で怖気付いてしまう。

 睦子は自身も番頭の家から赤沢家に嫁いだらしいが、その気位は高く、更に夫の清左衛門に煮え湯を飲まされ続けてきた経験のためか、底意地の悪さのようなものが露骨に表れている。

 畏まって頭を下げていたが、初は静かに顔を上げた。

「父が、離縁を申し出ているのでございますか」

「ええ。太兵衛から聞いていませんか」

「──いえ、何も」

 寝耳に水であった。

 まさか実家の八巻家から既にそうした話が出ているとまでは、思っていなかったのだ。

 太兵衛は一度もそんな話をしなかったし、寧ろ初の考えを見透かして牽制している雰囲気さえあったほどだ。

 子もなく何の役にも立たぬ嫁でも、それでも八巻家との繋がりを絶つわけにはいかない、というふうに。

「今朝方も、とにかく一度そなたを八巻の家に寄越すようにと申して来たのですよ」

 太兵衛もいつ戻るか分からず、こうも毎日のように遣いが来ては外聞も悪いと睦子は眉を険しくした。

「良い機会ですから、よくお話を伺って来るとよいでしょう」

「ですが、ご出立の前に太兵衛さまから八巻の家には行かぬよう申し付けられて──」

「太兵衛が八巻家からしか嫁は取らぬと言って譲らぬから、そなたを迎えましたが……、大身は他に二十家もあるのです。当家では離縁の申し出に応じることは吝かではありませんよ」

「………」

 ぴしゃりと言い切る睦子に、初は返す言葉を失くした。

 当時縁談を申し入れてきたのは、清左衛門だった。

 どうしても初をと望んで、あの清左衛門が頭を下げるので、八巻家でもひどく驚いたのを覚えている。

 八巻家では幾度か正式に断りを入れていたが、それでも清左衛門は諦めず、最後にはとうとう根負けして話を受けた。

 太兵衛はその性質において、清左衛門とは似ていなかった。

 武芸百般において他に引けを取らぬ実力を持ち、機微を察することにも長けている。清左衛門の素行を自らの戒めとして捉え、堅実に職務に励んでいることは初にも分かっていた。

 清左衛門について悪し様に言う者はいても、太兵衛の悪評を耳にすることは嫁す前から今に至るまでただの一度もないのが、その証左だろう。

 睦子も言うように、他に大身の家はいくつもある。

 その中で何故自分が赤沢家なぞに嫁がねばならないのかと、当初は厭で仕方がなかったのも事実だ。

 嫁してみれば意外にも、太兵衛は優しく気遣ってくれた。

 きつい質の義母との間に入り、初を庇い続けてくれ、それは八年が経つ今も変わりがない。

 ただ、以前と変わってしまったように思うのは、初と二人きりの時に見せるその面持ちと態度であった。

「わたくしが許可します。そなたは一度、八巻の家にお戻りなさい」

「……分かりました、そのように致します」

 太兵衛の言い付けが気に掛かりはしたが、初は命ぜられるまま従うほかなかった。

 

 

 

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