十五.悲願
吹き付ける風は強く、道が山間に差し掛かると胴に回して強くしがみつく腕に小さな礫が当たった。
霰だ。
城下では薄日が差し始めていた空は、山に入るにつれて厚みを増し、黒々とした色を帯びた。
霰は次第に強くなり、初の身体を穿つように叩き付ける。
「初さま、霰です」
「構いません、大丈夫です。先を急ぎましょう」
些か速度は落ちるものの、八巻家の抱え与力に馬を出させ、初は政之丞のあとを追った。
九郎次自らが出向くと言い張るのを、初は断固拒絶して押し切ったのである。
峰が赤沢家を動かせば、城は間違いなく八巻家にも登城を命じるだろう。
その時に九郎次が留まっていたほうが良いと考えた。
剱持がすべての指示をしているとするなら、九郎次は兎も角、よもや初が動くとは考えていないだろうと思ったのである。
すっかり暗くなった間道に、微かな雷鳴が轟くのを聞いた。
「この先、礫が大きくなるやもしれません。しっかり私の背にお隠れ下さい」
「分かりました、行けるところまで急ぎましょう」
まだ年若く初よりもいくつか年下だが、何代も前から八巻家に仕え、そこそこに腕も立ち、馬術も能くするとして九郎次が家士の中から抜擢した男だった。
城下から駆け通して来たものの、山間の村へ到達するまでに日は落ち、月明かりさえない漆黒の帷に包まれる。
松明を片手に照らしても夜道は殆ど先も見えず、風に揺れる木々や笹の葉音が鳴るのみで、時折野犬の遠吠えが聴こえる。
こうなると馬では走れず、歩みは遅々として進まなかった。
政之丞はもう村へ辿り着いているに違いない。
或いは既に剣を交えた後かもしれない。
初が行き着く頃には、手遅れになっていることも充分に有り得ることだった。
***
初めは、単なる妬みであった。
芳賀道場で太兵衛が免許皆伝となって以後、一つ年下の宗方政之丞は目覚ましい成長で太兵衛を追い上げた。
太兵衛が免許を得てから一年後には、政之丞もまた皆伝免許を受け、更には秘剣をも伝授されたという話が
秘剣は極秘に、しかもただ一人にのみ伝授されるものだと聞き知っていたが、免許を得た頃からそれが己に託されるに違いないと考えるようになっていた。
だが予想に反して、秘剣は政之丞が受け継いだのである。
武門の家の嗣子として、それはひどく屈辱的なことだった。
そんな話が聞こえてきてから、太兵衛は内心で政之丞を敵視していたのだ。
姿を見るのも忌々しく感じられ、憤懣のぶつけどころもなく、苛立った日々を送ったものだ。
それから間もなくして芳賀が病死すると、道場は絶えて門人も去り、秘剣を使えるのは政之丞のみとなった。
対峙するのは道場にいた頃以来だろう。
久方振りに見える同門の徒は、変わらず隙がない。
篝火の元で互いに睨み合い、太兵衛は青眼に構えた。
普段なら八相をよく使ったが、今の肩ではそれすら困難であった。
刃は骨まで達しており、座っていてさえも脂汗が滲む。
「負傷したと聞いたが、片腕でやり合うつもりか」
「大人しく斬られてやるつもりもないのでな」
太兵衛の足が地を
政之丞の身体が跳ね、太刀が弧を描いた。
その跳躍は素早く、太兵衛は下から救い上げるように刀身を振り上げて防ぐ。
受けた衝撃が肩に響き、傷がひどく疼いた。
撥ね退けるには至らず、政之丞の刃はそのまま太兵衛の刀身を抑え込み、力業で太兵衛の眼前に迫る。
篝火が照らす政之丞の面持ちは、その造形に沿ってくっきりと陰影を描き出した。
「流石に速いな」
加えて、その太刀筋には迷いというものが微塵も感じられない。
それもそのはず、この男に迷う理由などただの一つも無いのだ。
太兵衛を討ち斃せば、そのまま城下へ戻り剱持と八巻から更なる信認を得て、この男にとっては悲願でもあっただろう初を娶る。
迷い、隙が生まれるとすれば、それは太兵衛にこそ生じ得るものだった。
「初はこの八年、心の奥底におぬしを想い続けておったことだろう。可哀想なことをした」
「それはどうだろうな。少なくとも、今の私は拒まれたぞ」
拮抗していた力が僅かに緩み、太兵衛は賺さず刃を押し返して間合いの外へと引き下がる。
肩の傷が引き攣れ、じわりと血の滲む感触が肌を這った。
「どういうことだ」
「初どのが慕っているのは、私ではない」
政之丞の声音に抑揚はない。苛立った気配もなく淡々と事実を述べている、といったふうだ。
片腕で大刀を構え、相対する政之丞の出方を窺う。すると政之丞は太兵衛を見据える目はそのままに静かに刀身を鞘へ収めた。
再び切っ先が向くかと思っていたが、どうも様子が違う。
ただ、刀を収めたその挙措には微塵も無駄がなく、逆に殺気は際立ったように感じられた。
「分からんのか。初どのが想い慕う相手は、貴様だと言っている」
政之丞の言葉に、太兵衛は構えを崩さず眉宇を顰める。
「貴様に家督を継がせることを良しとせぬ御方がいるのだ。赤沢家の存続自体、赦されぬかもしれぬ」
そうなれば、初に、そして八巻家にまで類が及びかねない。
「初どのが如何に貴様を慕っていようと構わぬ。私が娶るぞ」
遠雷が徐々に近付き、霰が冷たい雨に変じて降り出したのはその直後のことであった。
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