春雷のあと

紫乃森統子

一.嫁して八年

 

 

 嫁して三年、子なきは去る──。

 俗世にはそう言うが、はつが十八で赤沢太兵衛のもとに嫁いでから、既に八年が経っていた。

 義母の睦子むつこが頻りに太兵衛を呼び付け、離縁を勧めていることには気が付いていた。

 気付いていながら、知らぬふりをした。

 太兵衛から離縁を言い渡されたら従うつもりでいたが、待てど暮せど太兵衛の口からは何も語られない。

 義母が直接初に何か言ってくることもなかったので、その視線に刺されながらも黙ってやり過ごす毎日だった。

 子が無いせいで初の肩身は狭く、義父母ばかりでなく、家士も奉公人もがどこか余所余所しい態度だった。

 嫁して五年ほどまでは足繁く子宝祈願に通い、親類に子が産まれたと聞けばその胞衣えなを踏ませて貰ったり、俗信だと思われることも何でもやった。

 それらが功を奏することはなく、懐妊の兆しもないまま更に年月を経てしまっている。

 ここまでとなると、もはや諦観が勝って、いっそ自分から太兵衛に離縁を勧めようかとさえ思ってもいた。

 離縁まで言わずとも、他に愛妾を迎えるようさり気なく進言したことが何度かあったが、太兵衛は一切取り合わなかった。

「愛妾など取れば禍の元となる。そんなものを迎える気はない」

 というのが、太兵衛の言い分だった。

 太兵衛の父でありこの国の次席家老である清左衛門は、無類の女好きで正妻の他に何人も愛妾を持っていた。

 いずれも別宅に住まわせていたが、本宅にいるよりも別宅を泊まり歩くほうが多いような男であった。

 そんな暮しぶりなので、当然正妻の睦子とは極めて仲が悪く、睦子が何かにつけて太兵衛を重宝するのも当然の流れだった。

 

   ***

 

 初は褥の傍らに座り、太兵衛の訪れるのを待っていた。

 春先の強い風は建具をかたかたと鳴らし、どこからか入り込んでは行灯の明かりを微かに煽る。

 寒くはないが、襖に映る影を揺らす風に心細さを感じた。

 寝間は共にしていても、この三年は殆ど同衾することはなくなっている。

 つまりは太兵衛も初との子を諦めているのである。

 やがて仕度を終えた太兵衛が襖を開けて入って来ると、初は指を着いて頭を下げる。

「まだ起きておったか。先に休んでいて良かったのだぞ」

 と、労うようでその実は素っ気ない声がした。

「お話があって、お待ちしていました」

 太兵衛もそれで察したのだろう。途端に顔を曇らせた。

「また子の話か、わからんやつだな」

 げんなりしつつも、太兵衛はそれでも離縁を言い付けないし、妾も取らぬという。

「親類から養子を取ることも出来るだろう。そなたもまだ二十六だ、この先に子が授からぬと決まったわけではない」

「でも、義母上さまはご納得されませんでしょう」

「愛妾など要らん。そなたはわしに父上のような男になれと申すのか」

「そうではございませんが……」

「では何だというのだ」

 歯切れの悪い初に苛立ったか、太兵衛は機嫌悪くやや声を荒らげる。

 ややあって太兵衛は大仰に吐息して夜具を捲ると、褥の上にどっかりと胡座をかいた。

「……この家が父上の妾のことで散々に悩まされてきたことは、そなたも知っているだろう」

「………」

 義父の清左衛門は複数の妾を囲い、中には子を産んだ愛妾もいる。

 正妻の睦子も太兵衛を含め二男一女を産んでいるが、睦子は割合に嫉妬深く、妾もその子も一切本宅に寄せ付けなかった。

 そうした中で唯一、本宅に入れた庶子がいたのである。

 幸之助という名で、剣の腕が立つという男だった。

 清左衛門が特に気に入り、幸之助が十八の時、妻子に頼み込んで正式に赤沢家の三男として迎え入れたものであった。

「父上もどうかしておられる。あんな男を迎えたばかりに、余計な面倒ごとを抱える羽目になったのだからな」

 果たして幸之助は確かに剣は強かった。

 だが、それ故に驕ったところがあり、家老の子息であるのを良い事に昼日中から料亭や茶屋遊びに耽る体たらくで、始末の付けられない事態となったのだ。

 散財を繰り返し、方々で問題を起こすようになると、さすがの清左衛門も己の見る目のなさを悔いたのだろう。

 城下の道場で婿取りの話を聞きつけると、幸之助を焚き付けて名乗りを上げさせたのである。

 道場側の条件として、高弟島崎与十郎との勝負に勝つことを挙げられたが、その勝負にも敗れ、挙句乱心したかのように見届け役として付き添った太兵衛に襲い掛かったという。

 間一髪、幸之助は試合ったばかりの島崎に斬り伏せられ、太兵衛は無傷で済んだ。

「あのようなことは二度と御免だ」

 苦虫を噛み潰したように顔を顰めると、太兵衛は改めて初の目を覗いた。

「子はどうとでもなる。そなたもあまり気に病むな」

 太兵衛はいつもこんな調子で、初の話にまともに耳を傾けることはない。

 この日もそれは変わらず、またすぐに目を逸らして床に入ってしまった太兵衛に、それ以上何も言うことは出来なかった。

 

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