二.花明かり

 

 

 下城の太鼓が打ち鳴らされて間もなく、宗方むなかた政之丞せいのじょうは詰所に待たせていた中間を伴って八巻家老の屋敷を訪ねた。

 昔からの親戚関係にあり、日頃から昵懇にしている家だ。

 十年前に妹のなおが八巻家老の嫡男に嫁してからは、付き合いはより深くなっている。

 なおの夫となった九郎次とは幼い頃から共に剣を習い、よく日暮れまで遊んだ仲で、互いに三十を数えた今も気の置けない相手だった。

 そういう相手に妹のなおを託せたのは幸いだったとつくづくと思う。

 なおは嫁してから立て続けに二人の男児を産み、婚家でも楽しくやっているようである。

「なおを呼ぶか義兄上。おい、なおはいるか? 義兄上がお呼びだぞ」

 酒を酌み交わしながら近頃の話をしていると、九郎次はふと思い立ったようになおを座敷に呼び付けた。

「九郎次、その義兄上というのはやめろ。お前にそんな呼ばれ方をするとどうも未だにむず痒くてならん」

 政之丞は苦笑するが、九郎次は何を今更と笑い飛ばした。

 間もなくなおがその座に現れると、自然話題は近頃の子供の話になった。

 下の子がやっと手習所に上がったとか、上の子の元気が良すぎて登った木から転げ落ちたとか、楽しげに話して聞かせる夫婦は実に仲睦まじいように見えた。

「相変わらず仲の良いことだ。昔は何かとおれに引っ付いていたのが、すっかり九郎次にお株を奪われてしまったな」

 二人はぴたりと反りが合うようで、縁談が持ち上がった時も双方二つ返事で即座に成立し、十年が経ち子が出来た今も夫婦ともに情緒纏綿てんめんといった具合だ。

 妹と友の両方が些か自分から削げ落ちてしまったような寂しさを覚えないでもないが、政之丞はそんな二人の姿もまた好もしく思っていた。

「時にな、政之丞。初のことなのだが……」

 なおを下がらせてから、不意に九郎次が声を落とした。

 つい今し方まで愉し気だった顔が急に曇りを帯びる。

 九郎次の妹の初が次席家老の赤沢家へ嫁していることは、政之丞も承知していた。

 昔は八巻の家を訪ねる度に顔を合わせていたが、幼い頃の初は人見知りの激しい大人しい娘だった。

 それでも兄の九郎次にはよく懐いており、度々顔を出すうちに政之丞にも馴染んで、笑顔を見せるようになった。

 政之丞と九郎次が庭で形稽古しているのを、縁側で微笑みながら眺めていた姿がとても愛らしかったのを今もよく覚えている。

「初どのが、どうかしたのか」

 九郎次はちらりと政之丞の顔を見遣り、手元の盃に視線を落とした。

「お前、近習頭取なぞやっておるのだから、次席家老と顔を合わすこともあるだろう。何か初のことで聞いていないか」

「いくら赤沢さまでも、城中で──それも近習なんぞに嫁の話をするわけがなかろう」

 近習頭取を務める政之丞は、藩主への取次ぎをその役目とし、当然老臣とも関わりはある。

 時には藩主の用で赤沢の家老屋敷に出向くこともあったが、執務部屋のある棟に家人が出入りすることは滅多になく、初と会うことは一度もなかった。

「実を言うと、去年の暮れにうちの親父殿が赤沢の屋敷を訪ねたのだ。もう八年も子がないのを、初も随分悩んでおってな。初を離縁してくれるよう申し出た」

 九郎次は盃の酒を弄ぶように、手の内でくるくると揺する。

「だが、有耶無耶に拒まれてしまっての。それ以来か、太兵衛の奴め、おれや親父殿が何度訪ねても、何かと理由をつけて初に会わせようとしないのだ」

 政之丞は口許に酒盃を運びかけて手を止めた。

「それは穏やかでないな」

「正月の挨拶には必ず顔を出していたのに、この年はそれも無かった」

 会うごとに元気のなくなっていく初の様子が痛ましくて、八巻家では以前から初を離縁させるべきか内々に話していたらしい。

 九郎次も妹の初のことはいたく可愛がっていたから、心配も一入ひとしおなのだろう。

「よもやと思うが、太兵衛に酷い目に遭わされているのではないかと、悪いほうにばかり考えてしまってな」

 九郎次の言葉に、政之丞ははっとと胸を突かれた。

 婚家で冷遇され、虐待を受ける初を想像してしまったからだ。

「政之丞。おれはやはり、お前に初を託したかったのう」

 

   ***

 

 赤沢家は何かと問題の多い家だったが、なまじ藩主家と縁続きであるために、内々で揉み消されてきたものも多いようだった。

 数年前にも庶出の三男が嫡男に斬り掛かった事件があったが、それも赤沢家老の禄の微々たる取上だけで、他には何の沙汰もなく済んでいる。

 藩主の側に仕えていると内密の話は様々に聞こえて来るが、初の現状まで知る機会はなかった。

 たまに藩主の用向きで赤沢の邸を訪ねることもあったが、家老屋敷の執務部屋がある棟に家人が近付くことは滅多にない。

 初が奥屋敷から表まで亘ってくるようなこともなく、その様子を窺い知ることは出来なかった。

 八巻家で火をもらい、中間の持つ提灯を頼りに夜道を家へ向かう。

 歩きながら、政之丞の胸中には初のことが引っ掛かり続けていた。

 席次は赤沢清左衛門のほうが高いが、九郎次の父である八巻掃部介も同様に家老の要職にある。

 赤沢家が藩主家ゆかりの家柄としても、やはり藩政の要路にいる人間とは親交を結んでおきたいのだろう。

 縁談は赤沢家のほうから持ち掛けてきたもので、八巻家ははじめ断るつもりでいた。

 しかし赤沢家老も嫡男可愛さからか諦め悪く食い下がり、太兵衛本人を取り巻く評判がそこまで悪いものでなかったことから渋々承諾したような具合だ。

 太兵衛と初の婚姻は、そういうものだった。

 今は昔の話だが、太兵衛との縁組が舞い込んで来なければ、八巻家ではいずれ初を政之丞に嫁がせるつもりであった。

 特に妹のなおが九郎次に嫁してからは、政之丞と初の縁談について度々両家で話題に上ったものだ。

 それがお流れになったのを、八巻家は詫びに詫びた。

 九郎次が酒に酔って零したのには、過去のそうした経緯に今も思いを残しているせいだろう。

 八巻家の南に広がる馬場に差し掛かると、政之丞はふと足を止めた。

 桜の季節には少し早いが、蕾を抱き始めた桜の木々が春先の風に吹かれて撓る。

 月に照らされてもまだ黒々とした影でしかない桜を眺め、政之丞は目を細めた。

(初どのはまだ覚えているだろうか)

 昔、政之丞がなおを、九郎次が初を連れて馬場の夜桜を見に出たことがある。

 満開の桜は月明かりに照らされ、白々と浮かび上がるような美しさだった。

 花明かりの中に佇む初は一層美しく、花にも劣らぬ微笑みを向けられた時、政之丞は心を揺さぶられたような気がした。

 思えばあの時から、初に心を寄せるようになっていたのかもしれない。

(無事でいると良いのだが)

 ただでも控え目で消極的だった初が更に萎縮しながら暮らしているのではないかと、政之丞の中にも不安が募るばかりだった。

 

 

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