三.近習頭取

 

 

「政之丞はいるか」

 襖の向こうで藩主の呼ぶ声がして、政之丞は短く返答してから襖を開けた。

 手招かれて執務部屋に入り襖を閉めたのを見計らい、藩主の加賀守は更に近くに呼び寄せる。

「八巻が申していたが、このところ特に岩角村の付近に野盗が出るそうだ」

「は、そのようでございます」

 先日岩角村を管轄する代官から報告が上がり、その被害の多さに頭を悩ませた郡代が執政会議に持ち掛けた議題だ。

 他領から流れてきたと思われる野盗は、その被害件数からすると集団で、家畜や作物を盗み、女や子供を攫っていくこともあるという。

 城下から十里ほどの山間の岩角村はさほどに大きくもない農村であったが、北に屹立とした山嶺が連なり、その向こうは他領となる。耕作地としては猫の額のような面積だが、それでも野盗に潰されては痛手だった。

 近年の冷害で不作が続いたために、領内の農民の数は減少の一途を辿っており、欠落していった者の立ち帰りを切望している状況だった。

 そのために本来ならば然るべき罰を課すところを、期限を設けて不問にする措置をとっているほどだ。

 これは八巻家老の発案で、八巻は更に倹約令を厳しく改定し、家中にも徹底するよう促している。

 この倹約令は藩主も例外でなく、領民や家中と苦渋を共にすべく加賀守自らも率先して倹約に励んでいた。

「やはり派兵するしかなかろうかの」

「代官や名主の話では、当地の者だけでは取り締まることが困難であるということです。確かに派兵には負担も生じますが、後々のことを思えば、賊は急ぎ取り締まるべきかと存じます」

「そこまで大々的なものだろうかの。奉行らだけでなんとか出来んものか」

「は、大隊までは必要ないかと存じますが、それなりに警護の者を配備せねば防げぬ有様と聞き及んでおります」

「しかし、やはりちと大袈裟ではないかの」

「被害が麓の村々や街道にまで広がれば、それこそ大事になりましょう。少数を派兵して取り締まれるのならば、芽は早いうちに摘んでおくほうがよろしいかと」

「そちも八巻と同じことを申すのだな。……ふむ、確かに大隊を動かす羽目になるよりはましであろうの」

「出過ぎた事を申しました。何卒、御寛恕かんじょを」

「よい、よい。余がそちの意見を聞きたがったのだ。畏まることはない」

 加賀守は温厚な人物であったが、些か優柔不断な性格で、その時々に声の大きな者の意見に流れがちである。

 そうしてその場では同意したものを、こうして後から熟考するのか、政之丞に意見を求める。

 その度に決定事項を潰さぬよう配慮して進言するのだが、大抵はそれで加賀守の気も済んでいた。

 此度も一頻り話して胸の閊えが取れたのか、加賀守はやがて話題を変えた。

「ときにその方、今年でいくつになった」

「は、三十を数えました」

 政之丞は今年三十になったが、未だ独り者で通っていた。

 近習を勤め、加賀守の眼鏡に適い頭取に取り立てられてから早二年が経つ。

「そうか、早いものだな。そろそろ妻を取ったらどうだ。わけもなく独りでいると、妙な噂が立つぞ」

「それがしの噂、でございますか」

「あまりにも女の気配がないので、男色家ではないかという話をしていた者がいるようだ」

「なんと、そのような噂がございましたか」

 無論、そんな事実はないし、加賀守も根も葉もないのを承知の上で政之丞を心配しているのだ。

「跡目のこともあろうし、八巻もその方のことを気にしていたようだからの。早いほうがよいぞ」

 が、政之丞はその心遣いに謝意を述べるに留め、あとはいつものように談笑して職務に戻った。

 

   ***

 

 野盗を取り締まるのに番組を出す話まで出ているのには些か驚きもしたが、政之丞は詰所に戻るとはたと考えた。

 誰が指揮を執ることになるのか。

 次の執政会議で取り決められるのだろうが、既に番頭の何名かが候補に上がっているものだろう。

 その中には、番頭の赤沢太兵衛も当然含まれているのに違いなかった。

 赤沢家のいざこざに纏わるものは、他の家中にも聞こえているはずである。

 家老職の中にも序列があり、筆頭の剱持家、次席の赤沢家、他に月番の家老が八巻家を含め三家ある。

 中でも赤沢家は先代まで随一の権勢を誇っていたが、今の清左衛門になってからその権威は著しく凋落していた。

 先代の築き上げた権威を笠に着て、藩政を恣に動かさんとするのを筆頭家老が黙っているはずもなく、剱持は徐々に八巻を重用するようになった。

 そこから赤沢家に入れ替わるように、藩主と筆頭家老の信任を得る八巻家が台頭してきていたのである。

 今や席次とは別に、赤沢家と八巻家は伯仲しているように見えていた。

 だからこそ、八巻家の出である初をおいそれと離縁するわけにもいかず、赤沢太兵衛も家の権威を盛り返さんとする機会を窺っているはずである。

 八巻が太兵衛を推せば、恐らく筆頭家老も同意し、指揮はそのまま太兵衛に決まるだろうと思われた。

 執政会議の決定は藩是である。

 それにより下された命には従わねばならぬし、太兵衛がそれを拒むことはまずない。

 詰所にいた二人の近習に目を留め、政之丞はその机に近付く。

「上岡、牧、次の執政会議の日取りはどうなっておる」

「は、まだ明確にはなっておりませんが……」

 上岡が言って、牧がその後を接ぐように口を開く。

「明日には剱持さまが登城なさるとのことですので、日取りは明日にも取り決められるものかと存じます」

 すると政之丞は虚空に目を逸らし、そうか、と一言頷いた。

 

 

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