日記の続きはもう要らない

淡島かりす

日記帳

 少し色褪せた赤い表紙に手を添えて、ゆっくりとその日記帳を広げる。わざと作っているような丸い文字が並ぶのが目に入り、私は思わず苦笑した。そうだ、あの頃はこんな字を書くのが流行っていた。


「いつまで本棚見てるんだよ」


 台所の方から、呆れたような声がする。新居の片付けがなかなか終わらない苛立ちを、書斎に入ったまま戻ってこない妻に向けているのは明らかだが、そんな声も嬉しかった。

 接着剤と木材が混じりあった匂いが満ちた新居。ここもやがて、家族の匂いに染まっていくんだろう。


「日記よ。ずっと書いてた」

「そんなの後でいいだろ」


 一枚、日記をめくった。


『X月X日

 付き合って一ヶ月記念日。マフラーを編みたかったけど、慣れないことはするもんじゃない。ながーいタワシが出来ちゃった。アキトは喜んでくれたけど……』


 覚えている。あれは酷かった。白とグレーなんて色合わせも、いびつな長方形も。相手がアキトでなかったら、そのままゴミ箱に叩き込まれていただろう。でも優しいアキトは、あのタワシを一年くらい使っていたっけ。

 高校時代の思い出と共に、次のページへ。日付は飛び飛び。思いついた時に書いたのがよくわかる。ずぼらな性格がそのまま投影された日記。


『X月X日

 雨。アキトの置き傘、誰かが持って行っちゃったみたい。相合傘なんて恥ずかしかったし、左肩ずぶ濡れになっちゃったけど、嬉しかった。こういうのも悪くないよね』


 アキトのあの傘、ビニール傘とは違ってちゃんとした作りだったし、てっきり大事なものだと思ってたんだけどな。意外とあっさりしてたから、もしかしたら要らない傘だったのかも。

 日記を読むと、忘れていた記憶が蘇ってくるから面白い。楽しいことも、嫌だったことも。うーん、嫌だったことはあまり思い出したくないから、読み飛ばしちゃお。体育祭のこととか。


『X月X日

 最近、誰かに付け回されてる気がする! ってアキトに言ったら、毎日送り迎えしてくれるって言ってくれた。守られてる感じがして、「アカネ・ビート」の主人公になった気分。あんな大恋愛してみたいなー』


 また懐かしい思い出。『アカネ・ビート』は当時流行ってた漫画だ。高校の軽音部が舞台で、確かドラマにもなったと思う。毎週水曜、夜九時から。思い出せてしまう自分の記憶力がおかしい。

 あの漫画みたいな大恋愛がしたい、なんて贅沢な望みだと思う。だってアキトがいたんだから、それで十分じゃない。なんて思えるのは私が大人だから。子供にはわからないよね。

 それにしても、アキトは本当に優しい。付きまとわれてる彼女を毎日送り迎えなんて、優しすぎて心配になっちゃう。また同じことしたら流石に怒られそうだから、やめておこう。

 優しいアキト。守ってあげたいと思う。この新居に来た時、「これからはここでユウのことを守るよ」と言っていたが、傍で聞いていて顔から火が出そうだった。そんなことしなくても、私だってアキトを守れるよ。


「何笑ってんだよ」

「別にー。日記に色々書いたなと思って」


 日記に顔を埋めて、左右に首を振る。アキトが見たら、また「気持ち悪い」なんて言われちゃうかな。

 一枚、二枚。


『X月X日

 アキトと同じ大学に行きたかったなぁ。でもこればっかりは仕方ないよね。アキトが頭いいのが悪いんだー! 大学行っても、毎週デートしようね』


 丸文字を忘れたような、尖った必死な文字を見て吹き出す。あの時は泣いちゃったっけなぁ。アキトは気づいていなかったし、気付いたところでなんで泣いてるかなんてわからなかったと思うけど。ちょっとそういうところ、鈍感なんだよね。

 デートも毎週行ったな。よく続いたと思う。アキトの肩越しに眺める東京タワーも、背中合わせで見た水族館も、まだ思い出そうと思えば鮮やかに蘇る。

 四枚。六枚。


『X月X日

 アキトに指輪買ってもらった。自分の指のサイズなんて知らなかったよー。皆は知ってるものなのかな? あ、ブラのサイズ知ってるみたいに、必要になれば調べるもの?』


 指輪と下着を併記するなんて、デリカシーがなさすぎる。何を考えて書いたのやら。

 右手の親指で、薬指に嵌った指輪を撫でる。これも大事な思い出だ。


「ユウ」


 アキトが焦れた声を出す。


「まだ書斎にいるの?」

「だぁって」

「日記なら、後で一緒に探してやるよ」


 ありがとう、と甘ったるい声が耳をさす。嗚呼、あの女。なんであんな愚鈍な声をした女が、アキトの横にいるんだろう。

 私のほうが頭がいいのに。アキトと同じ大学に行けるように努力だってしたのに。


「どこ行っちゃったのかなぁ」

「どっかに紛れ込んでるんだろ。よくあることだよ」

「見つけても読まないでね。恥ずかしいもん」

「読まないって」


 声だけを聞きながら、日記のページをむしり取る。

 文化祭のダンス、体育祭の応援団、修学旅行の函館の夜景。それらの記憶が小さく小さくちぎれていく。この日記みたいに、あの女からも記憶が消えてしまえばいい。

 小さくなった紙片を口の中に入れた。決して薄くない紙が頬に刺さる。この世から、この日記を消してしまいたかった。アキトが私を見ていなかった事実ごと。


「また書けばいいんじゃないか?」

「それはそうだけどねー」


 唾液と混じった日記の切れ端を、私は泣きながら飲み込んだ。


END

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