9.真実の愛

 ***


 王国は一大スキャンダルで、かつてないほどの大騒ぎになっていた。

 婚約披露宴前に起きた、未来の王太子妃の強奪未遂――その犯人は、赤い髪の男だと言う。


 かつて王子と結ばれた聖女に立ちはだかった巨悪の再来。

 あらゆる憶測と噂が飛び交い、無知で無関係な人々は連日無意味に集っては、あれこれと賢しく陰謀論を戦わせた。


 当事者である伯爵家には、当然あらゆる層の人間が殺到したが、彼らは皆妙に口が固く、噂の男のことをちっとも語ってくれない。


 代わりに王太子側の人間達が、いかにこの赤毛の男が邪悪で卑劣か説いた。

 ゴシップに飢えた誰も彼もが飛びつき、もはや国で大悪党エイデンの名前を知らぬ者はいない。


 罪人に下される華やかで派手な裁きが望まれていた。



 ――そして大勢の観衆が見守る、茶番じみた裁判が始まる。

 弁護人なんてものはつかない。これはただ、悪行と処刑方法を確認していくための舞台である。


 赤毛の悪魔は首に縄を打たれ、引きずられるように法廷に引っ張り出された。

 しかしその姿は大勢の想像と大きく乖離している。


 胸を張り、凜と背を伸ばして歩く若者は、ふてぶてしいというよりどこまでも清廉で、聖職者がごとき高潔さに満ちている。投獄生活によって少し痩せても、エイデンの存在感は健在だった。

 入場前はブーイングの嵐だったのに、エイデンがいざ場に現れると、傍聴席は裁判官が木槌を鳴らすまでもなく、しんと静まりかえっていく。


 裁判官は淡々と事実確認を行っていき、罪人は静かに、けれどきっぱりとそれらに答える。


 彼は終始、自分が全て企てたと話す。


 伯爵家を騙そうとしたこと、企みを見抜いた伯爵に解雇され、憎悪を募らせたこと、王太子の婚約者に対する勝手な執着――。


 それらが暴かれる度、王太子とその取り巻き達がエイデンを断罪する。

 だが彼はほとんど、彼らの言葉に反論しなかった。

 ハシバミ色の目は静かに、己の行く末を眺めている。

 エイデンの奇妙な静けさに圧されるように、相変わらず傍聴席も緊張に包まれてしんとしている。


 やがて証人の一人として、この事件のもう一人の主役が現れた。するとにわかに会場は色めき立つ。

 哀れな伯爵令嬢もまた、恐ろしい目に遭ったせいだろうか。やつれた彼女は更に華奢になり、今にも壊れてしまいそうな儚い見た目である。

 身に纏っているのは灰色のドレスだが、首には鮮やかな緑のスカーフを巻いていて、自然と人目を引きつける。


 一斉に好奇の目が降り注がれる中、令嬢は健気に気丈に証言席に立つ。これだけの視線の中で、さすが未来の王太子妃に選ばれる娘、身体は小さいのに肝の据わったことよ――これだけでも、そんな風に彼女を見直す者が少なくなかった。


 王太子は婚約者の姿に目を細める。エメラルドグリーンの目は自分をコケにした二人への復讐に燃え、口元は目の前で想い人の未来を閉ざしてやる嗜虐心で歪んでいた。


 エイデンはちらりと一瞥しただけで、それ以上はただまっすぐ自分の前を見つめている。


 ユリアは手を組んで俯いたまま、一つ一つ、問われたことに答えていく。


 ――この男と前から知り合いだったか? はい。

 ――彼の企てを何も知らなかったのか? はい。

 ――彼は鮮やかに王宮の奥まで侵入を果たしたが、本当にあなたの手引きはなかったのか? はい――。


 愛らしい声が法廷に響くと、この場の悲壮感がより増していく。


「――さて、証人。以上ですか? 何か他に、付け加えることは?」

「はいっ、質問! 証人が被告人と恋愛関係にあったというのは、事実ですか!」


 ユリアが黙り込んだ隙を突き、無粋にも傍聴席から誰かが野次を飛ばした。途端、堰を切ったように、わあっと人々が騒ぎ立て出す。


「そうだそうだ! 王太子とどっちが本命だったんだ!?」

「何も知りませんでした、全部彼のせいですなんて、幼なじみにしては随分情がないじゃないか!」

「本当は、あんたがけしかけたんじゃないのか。可愛い顔しておっかねえ女だ――」


「静粛に! 静粛に!」


 裁判官がどれほど木槌を叩こうと、誰も止められない。

 警備の人間は、王太子派が多いためだろうか。ユリアに心ない下世話な言葉を投げかける人々を、止めるどころかむしろ煽っていた。王太子もまた、劣勢に立たされる自らの婚約者を見て、密かにほくそ笑んでいる。


 しかし、たおやかな白い手がすっと上げられると、波が引くように静寂が戻ってきた。


「証人……何か付け加えることが?」

「はい」


 それまで俯いていたユリアが、顔を上げた。

 ――王太子は奇妙な胸騒ぎに眉をひそめる。


 ユリアの目は生気を取り戻し、きらきらと輝いていた。今までの憔悴しきった様子が嘘のように。


 彼女は一呼吸置いてから、凜と言い放った。


「告白いたします。わたくしは嘘をつきました」


 人々がざわめく。さざ波が立つような囁き合いは、木槌の音でいったん収まる。


「嘘? どんな嘘ですか」

「エイデンについての嘘です。――彼は罪人ではありません」

「それはどういうことでしょう?」


 ユリアは言葉を切り、艶然と微笑んだ。その視線の先には、何を言い出すのかと驚いて目を見開いている赤毛の青年がいる。


 彼をじっと見つめながら、ユリアはドレスのボタンに指をかけた。彼女の挙動に首を傾げていた人間達は、次の瞬間、あっと口元を覆う。実際に声を漏らした者も、とっさに横の連れ合いの目の前に手を伸ばした者もいた。


 ユリアはドレスを脱ぎ捨て、下着姿になっていた。真白く、磨き抜かれた真珠のような肌があらわになる。長い黒髪とスカーフだけが、彼女に残された心もとない砦となる。


「――どうぞ、よくごらんになってくださいませ」


 両手を広げ、惜しげもなく我が身をさらけ出した彼女は、けれどこの場を圧倒していた。


 本当に美しいものを見た時、人は感動に声を失うのだ。

 誰も破廉恥だとか、恥知らずなんて言わなかった。

 ただただ、神秘がそこにあった。この世の神がそこにあった。


「聖女様……」

「聖女様だ……」

「いらっしゃっただけで、この世界に平和をもたらしたと言う……」


 誰だろう、最初に目の前の奇跡を言葉にできたのは。皆が伝説を、そして目の前に立つ娘の異名を思い出す。


 ――聖女の再来。


 だからこそ、王太子はただ身分が高いだけのご令嬢ではなく、彼女を妻にと望んだ。伝説の通りであれば、聖女を娶る男は王がふさわしいのだから。


 そういえば聖女伝説の一つには、悪女に冤罪をかけられて窮地に立たされた聖女が、己の肉体という説得力で、自らの潔白を証明したというものがあった――。


「わたくしは証言いたします。この身の髪の先からつま先まで、この身この心に、何一つ汚れた部分はありません。それはわたくしを真実の意味で愛する人が、命がけで守り抜いてくれたからです。彼は確かに、禁じられた場に立ち入り、暴力を働き、騒ぎを起こしました。それは事実です。けれどわたくしを守るための行いでした――」


 そして美しきものが放つ言葉は、説得力を持って人の胸を打つ。


 沈黙の中、裁判官が厳かに問いかけた。


「あなたは今、守られたとおっしゃった。一体彼は、何から――あるいは誰から、あなたを守ったと言うのですか?」


 ――まさか!

 ――最初の殊勝な態度はこのためか!


 ユリアの奇策に圧倒されていた中で、二人の男だけが、彼女が何のためにその身をさらけ出したのか理解する。


 ユリアは誰にも聞こえるはっきりした声で言い放った。


「――王太子殿下です」

「何をでたらめなことを! 裁判官、あんな根拠のない放言、やめさせろ!」

「静粛に」


 観衆は興奮し、再びざわめきが広がる。裁判官は咳払いし、じっとユリアを見据えた。


「証人。それは何か、根拠あっての告発ですか?」


 ユリアは頷き、そっと首元に手をかけた。不自然に彼女の身体に残っていた、緑色のスカーフが取り払われる。


 ――どよめきが広がった。

 彼女の首には、赤い指の跡がくっきりと残っているではないか!


 他の部分が一点の染みもない白さを保っているだけに、痛々しさがよく目立つ。

 王太子は唖然とし、動揺もあらわに叫ぶ。


「でたらめだ! あんなもの、僕を陥れるために、適当につけたに違いない――」

「静粛に!」

「襲いかかったのは赤毛の悪魔の方だ! そいつは奴の手形だ! 騙されるな!」


 またもや場内がかしましくなり始めた。


「どういうこと? 王太子殿下って、誰にでも親切で、なんでもできる素晴らしい人じゃなかったの?」

「あれで裏ではあくどい奴だったってことなのか?」

「未来の王様だぞ? そんなこと……」

「そうだよな、赤い髪の悪魔が襲ったって話だったんだし」


「――でも」

「なあ」

「だって……」


「聖女様がおっしゃっているのに……?」


 風向きが変わり始めていた。

 高見から見下ろすだけだった人間が、今や一番注目される場に引っ張り出されている。


 ひとしきり騒いでから、観衆は物語の行方に注目した。

 場の興奮が収まってきた頃合いを見て、裁判官が傍らの席に呼びかける。


「ところで、枢機卿はどう思われますか」


 本来であれば、未来の国王と王妃となる人を見届けるためにやってきた協会の人間――老齢の高位聖職者は、話しかけられると祈りを捧げるポーズのまま顔を上げる。


「かのお方こそ、まさしく聖女様の再来。このように心身誠に純なるお方が、神聖なる場で嘘の証言はなさりますまい」

「――なるほど。では、赤髪の悪魔のことは? どのように解釈しますか」


 ふむ、と老人はたっぷりたくわえた髭を撫でる。


「百年前の、悪女スカーレット事変でしたかな? あれで赤い髪の人間は、そもそも随分と数を減らしましたでなあ。何しろ目立つし、何かすればすぐ通報される。生き残った者達は、社会から常に監視されながら生きていると言っても過言ではないでしょうなあ」

「……そうですね。実際、彼はとても目立つ容姿をしているように思います。そこで私は一つ疑問に思う。これほど目を引く男が――しかも本人によれば、恐れ多くも殿下殺害と婚約者強奪を目論見、あわや遂行の手前まで行った極悪犯なのだそうですが。前科が全く出てこないというのも、おかしな話とは思いませんか?」


 協会――聖女信仰が最も強い人間が、「赤い髪というだけでは、悪人の証拠にはならないのでは?」と言っている。その上裁判官は被告人の清すぎる経歴に言及し、更に手元の分厚い紙束をぺしぺしと叩いて続けた。


「ここに、被告人に対する証言というか、陳情というか……まあとにかく、彼を知る者達の声があるのですがね。上は伯爵家当主から、下は台所の下ごしらえ担当まで……皆一様に、エイデンという男がどれほど勤勉で努力家で、遵法意識の高い人物か――というような言葉を連ねているのです。もし本当にしてはいけないことを行ったのであれば、誰か困っている者を助けるための、やむを得ない行動であるはずだ――とも」


 エイデンははっと、控えの席を振り返った。


 ユリアの付き添いで来ていた伯爵夫妻が、そして彼らの随行人達が、各々静かな、けれど確固たる意思を持って見つめ返してくる。


「しかし、赤髪一族は妖しげな籠絡で人心を操った伝説もあります。彼が関係者を洗脳した可能性は?」

「ふむぅ……洗脳するまでもなく、本人が魅力的に過ぎるだけなのではないですかな。ホーッホッホ……」


 エイデンは断罪されていたときはぴくりとも動かなかったのに、今は非常に居心地悪そうな顔をしている。その姿がまた、全く悪人らしくないのだ。


 反面、時が経てば経つほど思惑から外れていく法廷の流れに、王太子がいらだたしげに声を荒げた。


「さっきからごちゃごちゃと、適当なことを! 首の跡なんて証拠にならない。身内のかばい立ても、ただの印象操作だ。僕は誰よりも国民の見本たる男だぞ。この身にやましいことなど、何一つ――」

「――そうでしょうか」


 静かに、けれどばっさりと王太子の言葉を切り捨てたのは、やはりユリアだ。

 憎々しげな目を向けられても、彼女は引かない。


「裁判長。わたくしと殿下の主張は相反しています。であれば、どちらかが嘘をついている、と考えるのが自然ですね」

「……時には全員が真実を語っていることも、あるいは嘘を語ることもありますが。この場合、そもそも事実を争っていますから、少なくともお二人のどちらか一人は、本当のことを話していないことになりますね」

「では、例えば――殿下の女性に対する誠実さを、わたくし以外にも語れる人がいたとしたら、どうでしょう」


 新たな人影が、証言台にゆっくり近づく。


 観衆が、そして裁判官達の席、更には蒼白となっていた国王夫妻達からも――法廷のすべての場所から、息をのむ気配がした。


 現れたのは、ユリアより少し背の高い女性だ。質素な身なりの、あまり目立たなそうな雰囲気である。

 彼女自身ではなく、彼女が抱きかかえている子どもの方に問題がある。


 三歳ぐらいの男の子は、見事な金色の髪の持ち主だ。そして母親の腕から、不安げに周囲を見回すその目は――見間違いようのない、それはもう特徴的な、エメラルドグリーン色をしていた。


 ***


 王太子のスキャンダラスな没落――婦女暴行に恐喝、隠し子、更には過去の殺人容疑。

 人々は完璧な仮面を剥がされた貴人のゴシップに熱中し、次から次へと出てくる“真相”に狂喜乱舞した。

 ここまで彼が悪事を重ねられたのは、息子を溺愛して放置し、時には隠蔽工作を手助けしたせいだと、国王夫妻にまで批判は及ぶ。


 輝かしき大悪党は世継ぎの身分から廃された。冠は未だ国王にあるものの、現王は既に国民の信頼を失った。近々、僻地に飛ばされていた王弟が帰ってきて、次の王になるという話も聞く。


 世間がめまぐるしく変わっていく傍らで、ユリアは無事元婚約者との縁を切り、そしてエイデンは――申し訳程度にいくつかの強制労働が実施された後、あっさりと解き放たれた。


「そうだのう。ま、老体から一言言っておくとだな。お前さん、無実の罪で処刑されるには、いささか慕われすぎていたのだよ。本当にまあ、あちこちから助けてやってくれの大合唱で、わしゃ耳が痛くてのう……」


 なぜかいる枢機卿に、どういう顔をしたらいいのかわからない、とそのまま書いてある表情を向けたエイデンは、近づいてくる迎えの姿に更に固まる。


「……何か最初に言うことは?」

「……ご迷惑をおかけして、誠に申し訳ございませんでした……」


 身の置き所がなく目をさまよわせながら頭を下げた彼は、襟首をつかまれ、ぐいっと身体を起こされる。


 ビンタか! と衝撃に備えるのだが、接触の気配はあれど思っていたよりずっと柔らかい。しかも頬ではなく……唇だ。


「おばかさん。……ありがとうと、ただいまよ」


 ユリアはぎゅっと、エイデンを抱きしめる。

 彼はこわごわ、ユリアの肩に、背に、髪に触れ……そしてようやく、抱きしめ返す。


「……夢を見ているんじゃないかと。目が覚めたら、処刑台に上げられるんだ」

「まあ! そんなことを言う悪いエイデンは、わたくしが頬をつねってしまうのだわ」

「いひゃいれす、おじょうしゃま……」

「その変な他人ごっこも、まだ続けるつもりなの? あんな風に言ってくれたのに?」


 エイデンはユリアをまじまじと見てから、頭を抱える。


 ……本気で死ぬ覚悟だったから、それはもう色々吐き出してしまったのだが。改めてつつかれると、穴があったら入りたい所の騒ぎではない。


「あー。えほん。そろそろいいかね。年寄りはの、長く立っていると腰が痛うて」


 枢機卿が片手を上げる。エイデンはぽかんとしているが、ユリアは彼に寄り添い、厳かに唱え始めた。


「この身朽ち果て、命の炎が尽きるまで――どのような喜びも苦しみも、この方と共に越えていくことを誓います」

「うむ。では、新郎殿。誓いの言葉を」

「――えっ。あの、おじょうさ、」

「あなた、存外逃げ足が早い人だってわかったから、もう逃がさないわよ。何のために、枢機卿をお呼びしたと思っているの?」


 ハシバミ色の目を大きく開いた青年は、何度も枢機卿とユリア、それから周囲に視線をさまよわせ――やがて息を吐き出して、ユリアに向き直った。


「この身、この心、魂の炎のすべて。あなたに捧げ、生涯を共にすることを……誓います」


 そして立会人に催促されるまでもなく、二人は互いの身体に腕を回し、今度こそ幸せなキスをした。


 ***


 昔々、一人の赤い髪の男の子がいた。

 ある時、彼は聖女と呼ばれる女の子と出会った。


 二人は互いに寄り添い、邪悪な権力者の思惑を打ち砕いて結ばれた。

 その後も何度も危機を乗り越え、懸命に活動を続け――すると彼らに赤い髪の子どもが生まれる頃には、誰ももう「赤い髪だから悪人」なんて偏見を口にする人間はいなくなっていた。


 真実の愛を誓い合った二人は、いつまでもいつまでも、幸せに暮らしたそうな。

 

 めでたし、めでたし。


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きみに真実の愛を捧ぐ 鳴田るな @runandesu

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