8.炎

 ***


 婚約披露宴の前日――いよいよ王太子妃の婚約者が正式に告示される直前、ユリアは王太子に呼び出された。


 熱愛ぶりに周囲が湧く一方で、伯爵令嬢の顔はどこか浮かない。それはともすると、幼なじみの従者が、既に屋敷を出て行ってしまったからかもしれなかった。


 ――王宮の、王太子の私室。

 そこに案内された彼女は、躊躇を見せたが、結局固い顔のまま入室した。


「……殿下」

「やあ、ユリア」


 王太子は寛いだ様子で彼女を迎える。ユリアは挨拶が済むと、さっと頭を下げた。


「先日の非礼をお詫びさせてくださいませ」

「ああ……気にしていないよ。今日はただ、記念日前の最後のきみを堪能したかっただけ」


 ささやかな祝いでもしようと言うのだろうか。王太子は二人分のグラスにワインを注ぐ。


「昨日は僕が急ぎすぎてしまった。明日になれば、僕たちは晴れて正式に婚約者だ。そうしたら――」

「いいえ。いいえ――殿下。今日はそれをお伝えしに参りました」


 機嫌のよさそうだった王太子の手がピタリと止まる。伯爵令嬢は空気の変化に臆することなく続けた。


「わたくしのこの身を、国と殿下に捧げます。世継ぎを産み育て、誠心誠意、国民の誰もが幸せになれるように尽くします。でも――」


 ユリアはそっと、青い目を伏せた。華奢な指が自然と、麗しい桃色の唇をなぞる。


「ずっと、好きな人がいます。どんなに遠くに離れても、この愛だけは捨てられない。だから……他の全ては捧げられても、唇のキスだけは差し上げられません」


 コトン、とグラスの置かれる音。


「……正体を現したというわけだな、娼婦が」


 ユリアはきょとんとした。王太子が言わないような単語が耳に入ってきた気がする。聞き間違いかと顔を上げた彼女は、冷酷なエメラルドグリーンの目に射貫かれ、身をすくませる。


 王太子は怯えた様子の婚約者に口角をつり上げ、彼女の手首をつかんで乱暴に引っ張った。


「殿下、なにを……!?」


 ユリアは訳もわからないまま引きずられ、唐突に突き飛ばされる。

 投げ出された先は、寝台だった。

 すぐに王太子はユリアに覆い被さり、酷薄に笑って見下ろす。


「それで? 想い人やらとは、どう楽しんだんだ? ん?」


 混乱している所に更に暴言を吐かれ、ユリアの頭はうまく言葉の意味を理解できない。

 いやらしい手つきで腰の辺りのなぞられてようやく、自分が不貞を疑われていることを知った。そして、暴力的なやり方で確認されようとしているのだということも。


「――ご、誤解です! わたくし、そんな――」


 高貴なるお方は、弁解しようとする令嬢の顎をつかんでくくっと笑う。


「もし本当に純潔でも、夫婦になる間柄なんだ。責任は取ってやる――構うまい?」


 ユリアは戦慄する。


 今までも、急に抱き寄せられたり、キスを迫られたり、多少強引に感じることはあった。

 だが相手は仮にも貴族から評判のいい王太子である。

 今日、私室に呼び出された時点で違和感はあったが、まさか婚約披露宴の前日にこんなことが起こるとは。


「い、いや……離して! いやぁっ!」

「うるさい、黙れ!」


 暴れ出したユリアの頬を、陵辱者が殴りつける。

 ぐわんと頭が揺れ、ユリアはうめいた。

 大人しくなった令嬢の胸元をつかみ上げ、男は睦言を囁くような甘い声で語る。


「……僕に目をかけられておいて、こんなに手間をかけさせて。それで心は捧げられない? ふざけるのも大概にしろ。お前はもう僕の所有物ものなんだ。勝手をして不愉快にさせるな」

「そんな――」

「ああ、誰かに泣きついても無駄だ。僕に無体を働かれたなんて、誰も信じない。むしろ姦通罪できみが断罪される。証拠は僕が望めば、いくらでも出てくるのだから」

「……このような恥知らずなお方とは、存じませんでした!」

「何とでも言え。お前が僕の言うことを聞かないのが悪い」


 ビリビリッと音を立てて服が破かれた。ただでさえ小柄で華奢なユリアは、男に押さえ込まれると何もできない。更に細い首を絞められて、気が遠くなりそうだった。


「――あっ、う」

「さあ、どうする? 選ばせてやろう。恭順による輝かしい未来か、一族もろとも破滅か」


 ――そうだ。この男の言うとおり。

 仮にもし、うまくこの場から逃げ出せたとして、外聞のいい王太子が暴行したなんて誰も信じない。国王夫妻は確実に息子の味方をする。


 その上、伯爵家にはエイデンがいた。調べられ、赤い髪の彼の存在が知れ渡れば、生け贄の羊にされるのは確実だ。伯爵家をもう離れていても、元主人の窮地を知れば、彼はきっと戻ってきてしまう。そして拷問の果て、処刑されるのだ。自分のせいで……。


 ユリアの身体から、くたっと力が抜ける。悔しさで視界がにじんだ。


「……お願いです。家族に、大切な人に、ひどいことをしないで。なんでも言うことを聞きます。だから……」

「では、唇は許さないだなんてバカなことももう言わないな?」


 絶望に染まった顔を見下ろし、王太子は満足げに笑う。が、直後に眉をひそめた。


「……なんだ? 騒がしいな――」


 不審な音に王太子が顔を上げたのと、部屋の扉が破られたのはほぼ同時だった。

 扉の前、見張り役に立っていたらしい男が投げ捨てられる。


 燃える炎のような赤い髪の闖入者は、室内を見回し、寝台の二人に目を留めた。特にユリアの惨状を知ると、ハシバミ色の目の奥で憤怒の感情が燃え上がった。

 だが彼は頭に血が上ったまま飛びかかることはなく、ゆっくり息を吐き出して、静かに卑劣漢をねめつける。


(――エイデン)


 ユリアは信じられない思いで、何度も瞬きする。だが、彼は確かにそこにいるようだ。王太子が慌てた様子でユリアから離れ、傍らの剣を手に取ったからである。


「誰か! 近衛はどうした! なぜこの男の侵入を許している!?」

「……誰も来ない。全員、寝ているから」


 エイデンはゆっくりと一歩踏み出した。存在感のある男が動くと、ゆらりと辺りの空気が揺れたように見えた。


 気圧されそうになった王太子は、それでもプライドで踏みとどまり、うなり声を上げる。


「貴様、薄汚い下賤の輩が、何をしに来た」


 問われたエイデンは、ふっと目尻に皺を作る。


「――赤狗ですから。ご主人様を困らせる厄介者に、噛みつきに参りました」


 まるで少年のような無邪気な表情と声音に、王太子はつかの間毒気を抜かれた。その隙を、エイデンは逃さない。


 一瞬で近づき、顎を下から掌底で刈り取る。

 王太子は剣を抜く間もなく倒れた。


 数呼吸分、エイデンは低く構え、相手がまだ動くか注視する。

 しっかり気絶させたのを確認すると、息を吐き出し、ユリアに駆け寄った。


 緊張の解けたユリアの両目から、とめどなく涙がこぼれ落ちる。


「エイデン……エイデン、エイデン……!」

「怪我は!? どこか痛む所は!」

「大丈夫、一度ぶたれただけ……ああでも、どうしよう! どうしよう……」


 エイデンはユリアの腫れた頬に顔をゆがめたが、すぐに彼女に上着を被せ、抱え上げる。ユリアは逆らわず、エイデンに従った。


 彼は窓から紐状の何かを使い、器用に建物を降りていく。行きはこれで登ってきたのだろうか。エイデンを信頼しているユリアは、抱える手が片手になってもちっとも怖くはなかった。


 無事地上まで下りると、すぐ近くに馬が隠してある。

 ユリアを乗せたエイデンは自分もまたがると、早口に説明を始めた。


「これから大協会に連れて行く。明日は婚約披露宴の予定だったから、必ず見届け人の枢機卿が来ている。きみはそこで、異端者に拐かされそうになったと保護を求めるんだ。協会管轄に入ってしまえば、王族だってすぐには手出しできない。伯爵夫妻も、待っているはず」


 ユリアは黙って耳を傾けていたが、不安になってエイデンを見上げた。


「ねえ、待って。それって……」

「おれはこの後、出頭する。筋書きはこうだ。おれは前からきみに横恋慕していた。王太子を殺し、奪おうとした。だけどあと一歩というところできみにフラれて絶望し、自白を――」

「駄目よ! どうしてそんなこと――」

「わかるはずだ。きみならわかるはずだ!」


 夜の道を、なるべく馬を急がせて駆けていく。


 ユリアは唇を噛みしめ、エイデンを見上げる。月夜の光に、淡く青年が微笑む顔が浮かんだ。


「――王族に手を出したんだ。誰かが悪者にならないと収まらない。ここにおあつらえ向きの赤毛がいる」

「エイデン……」

「伯爵家の評判が落ちることまでは、止められないと思う。きみ自身もきっと、好奇の目にさらされて、たくさん嫌な思いをする。でもおれに騙されていたと言えば、きみも伯爵家も、生き延びられる。なるべく全部、おれ一人で持っていって見せるから」

「いや、そんなの……」


 すすり泣くユリアを、エイデンはぎゅっと抱き寄せた。何度も隣り合ってきた彼らだが、こんな風に密着したのはこれがはじめてだった。


「ごめん。もっと早く、あいつの危険性に気がついていれば良かった。悪く感じるのも、言うのも……全部、持たざるおれの、ひがみから来ている気がして。あいつがきみに向ける嫌な感じは、きっとおれ自身の嫌な気持ちから来ているんだと……だから出遅れて、もう、こんなことしかできないけど」

「……一緒に行きたい」

「駄目だ。きみは生きるんだ。……おれも生き残った。生き延びられたから、きみに会えた。一生愛を捧げたいと思える人に」

「わたくし、もうそんな人、会えない」

「大丈夫……きみは素敵な女性だ。絶対いい人と巡り会う日が来るよ……」


 駆けて駆けて、夜を抜けて、やがて馬の足が止まる。


「尖った屋根の建物が見えるだろう? このまま協会に入れる」


 自分だけ下りようとするエイデンを、ユリアの小さな手が引き留める。

 彼は涙でぐしゃぐしゃの彼女の頬を愛おしく撫でた。


 じっと見つめ合った男女の影が、一度だけ重なる。

 ユリアの唇は今、心に決めたただ一人の男に捧げられた。


「前にも言った。遠く離れても、ずっと側にいる。この身朽ち果て、命の炎が尽きるとも――きみがおれを覚えてくれている限り、おれの炎はきみの中にずっと灯っている」


 その言葉を最後に、彼は素早く馬を下りる。


「エイデン――!」


 そしてユリアが追いつく間もなく、夜の闇の中に走り去ってしまった。

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