7.黒い噂
***
ユリアの父に披露宴前に伯爵家を去ることを告げれば、伯爵は大きくため息を吐いた。
「わかった。次の仕事場への紹介状を――」
「いいえ。お気持ちだけありがたく頂戴します。……ご迷惑がかかるといけませんから」
エイデンが固辞すると、伯爵は何か察した顔になり、ぐっと唇を引き結ぶ。
「すまない、エイデン。長く仕えてくれたお前に、この程度のこともしてやれない」
エイデンは緩やかにかぶりを振った。
恩返しの終わりが来ただけで、恨みなんてない。
「ユリアには、お前自身から話しなさい。……最近気まずくなっていたようだが、最後なのだから」
大事な話があると寝室のドアを叩けば、ユリアは応じてくれた。
彼女もまた、湖面のような澄んだ青色の目に、すべてを悟ったような色を宿している。
「――お別れなのね」
「はい」
「いつ?」
「婚約披露宴までに、ここを出ます」
「わたくしが今からでも、王太子妃なんて嫌だって言ったら、出て行かずに済む?」
エイデンは答えかねた。するとユリアは自嘲するような笑いを零す。
「冗談よ。……あんなに大勢の前で、皆に聞こえるような求婚だったのですもの。今更許されないわ。わたくしが失敗したら、わたくしの好きな人は皆終わり。そうでしょう?」
伯爵家では天真爛漫な様子を見せ、時にエイデンをささやかな要求で振り回したこともあった彼女だが、けして物知らずな夢想家ではなかった。
小さな両肩に背負わせてしまっているものを思うと心が痛む。エイデンはそれを取り除くことができない。
だが、小柄で華奢な伯爵令嬢は凜と顔を上げた。彼女は見た目通りの弱い人間ではないのだ。
「いいの。わたくしね、どうせどなたかには嫁がないといけないのだから、それならてっぺんを取ってしまうのも悪くないって思うのよ。世継ぎを産んで、王をお助けして……それでね、いつかこの国の誰もが、お互いに思いやれる時代を作るわ。どんな子でも祝福されて、愛される時代を」
ユリアは手を伸ばし、エイデンの髪を愛おしそうにくしけずった。
二人の視線が交錯する。ユリアは笑った。
「エイデン……わたくし、」
「うん」
「……きっとずっと、あなたのことを忘れないわ」
「……うん」
「あなたがわたくしを守ってくれたことを。この先もきっと、守り続けてくれることを。どんなときも、覚えている。わたくしの小さな灯火」
エイデンは頬に触れる小さな手に、そっと自分の手を重ね、囁いた。
「おれも、きみを生涯忘れない」
連れて逃げて。一緒に行こう。
そんな言葉を口にするには、二人とも分別がありすぎた。
ただ、互いを惜しむように額を合わせ、しばらくずっとぬくもりだけに耳を傾けていた。
***
「エイデン、今日も話をしてくれないのかしら?」
――聞き覚えのある声に、はっと気がつく。
再び従者として、ユリアの社交に付き従っていた。もう一週間もすれば、披露宴――今日が最後の舞踏会になる予定だった。
ユリアが華やかな世界に馴染もうと努力する姿を見ているうち、あれこれと思い出が蘇り、ついぼんやりしてしまっていたらしい。
エイデンは隣を見て、深くため息を吐き出す。
「……何度目ですか」
「あなたがあたくしと遊んでくれるまで」
妖艶に微笑む美女は、ユリアの社交界デビューの日に話しかけてきた貴婦人だ。何度も手紙を送ってきた一人でもある。
彼女は初日の無礼をとがめることもなく、エイデンを見かける度にふらっと話しかけてくるようになっていた。
聞いたところによると、どうやら結構有名な未亡人らしい。
エイデンはずっと気のない素振りなのだが、遊び人は適当にあしらわれることを楽しんでいる風でもあった。
「では、今日が最後になります。もうおれはこういう所には来ませんから」
「まあ……残念だこと。落としきれなかったのね」
ふふふ、と扇子で口元を隠し、優雅に貴婦人は笑う。
そしていつものように、独り言なのかエイデンに聞かせているのかわからないような噂話を始めた。
「ご存じ? 王太子殿下はね、幼い頃から天才だったの。文武両道、才色兼備。国王夫妻の溺愛ぶりも無理からぬもの、あの方はなんでもおできになるのだから」
「……それは、はい、まあ」
「――けれど裏を返せば、彼の“理想の完璧”に傷がつくことを許容できない、ということにならないかしら」
また他愛ない噂話、しかもよりによって王太子の自慢話が続くのかと思っていたエイデンは、思わず貴婦人の方を振り返る。
「――昔、王太子殿下には幼なじみがいたそうよ。同じぐらいの年頃の男の子。遊び仲間の一人。その子はね、殿下のように容量がいいわけではなくて、いつも彼の引き立て役みたいだったわ。でもね……弓の腕だけは、殿下以上だったの。天賦の才だったのかしら? どれだけ殿下が練習を重ねようと、かなわなかった」
今日この会場には、噂話の当事者も来ているはずだ。このまま聞いていていい話だろうか? だがエイデンは何かに憑かれたように、聞き入っていた。
いまいち年齢のわからない美女は、相変わらず扇子を盾に、隣のエイデンにだけ聞こえるような小さな声で話を続ける。
「ある日、二人はお供達と一緒に、狩りに行ったのよ。立派な鹿を取ってくると言って、いつも通り出かけていった。だけど事故が起きて――殿下の幼なじみは帰ってこなかった。誰かが鹿と思って打った矢が、運悪く首に突き刺さってしまったのね。殿下は深く嘆き悲しんだわ。少なくとも見た目上は、ね」
エイデンはぱっと口を開いたが、すぐに閉じた。美女の目はもはや、笑っていない。
「……大丈夫よ? これは噂話。そして運の悪い事故の話。結果として、殿下以上の弓の名手はいなくなったわけだけれど、そんなことはうがち過ぎな見方よね?」
「……どうしておれに、そんな話を?」
「さあ、どうしてかしら。あなたを見ていると、思い出すからかも」
美女は再び、笑みを浮かべた。エイデンはその顔が誰かに似ていると思ったが、肝心の誰かまではわからない。
「弓が上手だった子はね。それ以外は本当にどんくさくて……だけど。いいえ、だからこそ。弱い人のことを思いやり、そのために立ち上がる、真の勇敢さを持っていた。だからこそ――」
あの男には目障りだったのでしょうね。
最後の言葉は、パチンと扇子を閉じる音に紛れて、ほとんど聞こえなかった。
彼女が立ち去ってから、エイデンはようやく思い出す。
――伯爵夫人だ。彼女が娘に、そして時にはエイデンにも向けてくれる優しい笑み――母親の顔。
妖艶で派手な未亡人は、夫人と同じ笑みをエイデンに向けていたのだ。
まるで、かつて失った我が子の面影と重ねるかのように。
妙な気持ちのまま、その日の舞踏会は終わった。未亡人を見送ってから程なく、「急に気分が悪くなったから」とユリアが帰りたがったのだ。本当に、彼女は青い顔になっていた。
「どうかしたの、ユリア」
「なんでもない! なんでもないのよ……」
伯爵夫人が気遣うが、ユリアは慌てたように答え、彼女にしては引きつった笑みを作る。
ユリアはそわそわとして、何度か顔を、特に口元に指を当てていた。そしてエイデンの方は、絶対に見ようとしなかった。
エイデンも何かあったのかと不安げにユリアを見ていたが、何気なく視線を上げ――直後に、ぞっと心が冷えるのを感じた。
ほんの一瞬だけではある。けれど確かに、婚約者を見送りに出てきた王太子が、ユリアをにらみつけていたのだ。
――僕の花嫁に汚れた染みはいらない。
あのときと同じ目。その直後、取り繕うように元の顔に戻るところまで一緒だ。
エイデンもすぐ、伯爵家の従者としての彼に戻った。
あと少しだが、いつも通り。
けれどそのハシバミ色の目には、今までにない、何かの決意が強く宿っていた。
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