2.運命を決める言葉
***
ユリアはいつも通り孤児院にやってきたが、今度はいくら探し回ってもエイデンの姿が見当たらない。裏庭も倉庫もがらんとしていて、寂しげだ。
……なんだかいつもと違う、嫌な空気を感じた。
居心地の悪さを感じつつ、きょろきょろしていたユリアは、人の気配にはっとする。
急いでにこやかな笑みを浮かべると、小太りの少年が気持ち悪い笑みを浮かべながら近づいてきた。
「お嬢様。赤毛なら、今日は会えませんよ」
名もわからぬ少年は、いやらしく揉み手してそんなことを言った。ユリアは形のいい眉を顰める。
「……なんのこと? だれかから、なにか聞いたの?」
「そりゃあ、まあ……」
小太りの少年は言葉を濁す。
――ユリアは秘密のお友達のことを、家族にしか打ち明けていない。孤児院に来る必要がある以上、最低限、母の協力は必要だった。彼女はむやみやたらに言いふらすような大人ではない。
エイデンだって、会いに行くといつも一人で、なるべく目立たないように引っ込んでいる。彼がこの少年を信頼して、ユリアのことを喋ったのだろうか? そうとは思えなかった。
「会えないというのは、どういうこと? お出かけしているの?」
「いやあ、その……出てこられる状態ではありませんで、はい」
「病気なの? それともけが? お見舞いがしたいわ。それとも会わない方がいいような状態なの?」
ユリアが言葉を重ねると、へらへらする少年の表情に一瞬、冷酷な光が宿ったように見えた。
「なんでそんな、わざわざあいつに拘るんです? あんな奴、お嬢様の相手にするような手合いじゃありませんて。外れくじを引くようなことなんかしないで、他の子と遊べばいいでしょう。代わりはいくらでもいるんですから」
ユリアは内心、憤慨した。
他の子で代用しろ!? このでぶっちょは何もわかっていない。エイデンだからいいのだ。エイデンでなければ、駄目なのだ。
大人びているけど子どもではなくて、ユリアをいつもじっと待ってくれる。
あの少年だからこそ、ユリアはほっと息をつけるのだ。
普段は無欲で、聞き分けの良すぎるぐらいの伯爵令嬢は、このときはじめて執着するものを見つけていた。こうなったら絶対に、エイデンの顔を見るまでは帰らないと決め、本気の懇願を始める。
聖女の再来と評される美少女に泣き落としされれば、たかが孤児院の大将程度、否と言い続けることはできなかった。
「あんな奴に構い続けたら、人生損するだけだと思いますがねえ」
最後にそう、負け惜しみのように釘を刺し、渋々エイデンを呼びに行く。
まもなくユリアの前に、エイデンが連れてこられた。
彼女は変わり果てた友達の姿に、ぎょっとしてしまう。
エイデンは頭にも腕にも足にも、体のそこら中に包帯を巻いていた。歩いてくるときも杖にすがり、足を引きずっている。
ユリアは慌てて彼を座らせたが、その時にも、一瞬痛みで表情がわずかに変わったのが見てとれた。
「どうしたの!?」
「……転んだ」
相変わらず口数の少ない彼は、ぽそりと簡潔に説明する。
ユリアは唖然と口を開いていたが、はっと今日の孤児院のおかしな雰囲気と、先ほどまでのやりとりを思い出す。
「ねえ……あなた、ここの人達に、いじわるをされているの?」
ユリアはこっそり聞いてみたが、エイデンは珍しく、目を細めただけで、何も言わない。だが沈黙が答えているようなものだ。
ユリアは怒りで顔を赤くしたが、直後にすぐ青くなる。
「そのけがって、わたくしのせいなの? さっきね、あなたとはもう話すなって、ここの人が言ったのよ。……わたくしがあなたとお話をすると、あなたが酷い目に遭うの?」
――エイデンは答えられなかった。ユリアの言ったことは、間違いではなかった。
エイデンはもちろん、ユリアと会っていることを誰かに話したりはしない。けれど、何しろ閉鎖的な孤児院という場所、どこかで誰かが、二人のことを見かけたのだろう。
先日、子ども達のリーダー格である、太った少年に呼び出された。いじめっ子の彼はにやついて、エイデンにこう言いつけた。
「なあ。おまえ、お嬢様に気に入られてるんだろう? 紹介してくれよ」
――エイデンは要求を拒んだ。
ユリアを独り占めしたかったからではない。いや、多少はそういう部分もあったのかもしれないが、何よりこのいじめっ子のろくでなしっぷりを知っていたためだ。
彼は前に、女の子を泣かせたことがある。恥ずかしいことをされて屈辱的だったと、その子は泣きながらエイデンの服を破き、馬乗りになって殴りつけた。だからなんとなく、そういうことがあったんだなとエイデンは察していた。
ユリアはエイデンにとって、大切な友達で、恩人だった。そんな彼女を、このデブに紹介する? そんなことは、たとえ嘘でもおべんちゃらでも、口にしたくないと思った。
――そしてエイデンは、お嬢様の前に出られないぐらい、殴られた。
でもやられっぱなしではなく、急所に一発強い蹴りを返してやった。今までエイデンはずっと大人しかったから、奴は予想外の抵抗にちょっとビビったようで、あれ以来エイデンの手の届く範囲に近づいてこようとしない。
……まあ、しかし。そんなことは、ユリアには言えない。
エイデンは口をぎゅっと引き結び、それ以上何も言うつもりがない意思を示す。
ユリアはしばらく、彼が何か言うのを待っていた。エイデンの酷い有様に涙が出たせいだろうか、ハンカチを取り出して、行儀良く鼻をかむ。
それから凜とした顔になり、エイデンをあの湖面のような青い目で見据えた。
「エイデン。あなた、うちに来なさい。わたくしの従者に迎えます」
エイデンは最初、きょとんとした。ユリアの言葉を理解すると、自嘲のような表情に変わる。
「……無理だ、そんなこと」
「どうして!? わたくし、この場所にあなたを置いていけない。お母様はね、人のいいところを見なさいって言うわ。わたくしもそう思ってる。でもそれは、悪いことをしていても無視しなさいって意味じゃない、そうでしょう? あなたは悪いことをされているわ。それを見ないふりをするのは、とても悪いことだわ」
エイデンは、ユリアの大好きな思慮深いハシバミ色の目を伏せ、そっと小さく言った。
「でもおれは、赤毛ですよ?」
「……だから、なに?」
「赤い髪の人間は、産まれながら罪人なんだそうです。だから――」
「ひどい扱いをしてもいいんだ、ですって? あなた、わたくしがそんなことを言う人間だと思っていたの、エイデン!」
激高するユリアを前に、エイデンは目を丸くする。
いつもの彼女は、朗らかで穏やかで、争いとは無縁の人間に見える。けれどその内側には、これほどの情熱が隠されていたのだ。
「赤毛だから? ええ知っていたわ、知っていましたとも。でも、だから、なんなの? なんだっていうの? あなたの髪は、誰よりもきれいだわ。あなたの目は、誰よりも澄んでいるわ。百年も前のおとぎ話を皆していつまでも、なによ! あなた自身を知らない人達だから、悪魔だとか魂がないとか、好き勝手言えるのよ!」
初めて会った日のような衝撃に、エイデンは晒されていた。
彼女はとっくにエイデンが何ものか知った上で、会いに来てくれていた。そして赤い色を、きれいと言ってくれるのだ。
エイデンの心は、とっくに彼女といたいと感じている。
エイデンの思考も、彼女と一緒に行った方がいい、と考える。
無気力な子どもでいた頃は、最底辺ではあっても、脅威とは認識されなかった。けれど今回、エイデンは抵抗できることを示してしまった。孤児院はこれから、大人も子どももエイデンに苛烈な報復を加えるようになるだろう。
――このまま別れたら、本当に、ユリアと二度と会えなくなるかもしれない。
「あなたと一緒にいたら、わたくしがひどい目に遭う、ですって? だったらそんなことを言う人は、わたくしをぶてばいいのだわ。わたくしにはおべっかを使って、あなたのことは陰で叩いて……そんな人がいる所に、このまま置いてなんかいけない」
エイデンの気持ちは揺れていた。
ここで頷けば、苦労するのはユリアの方だ。自分がユリアを不幸にするかもしれない――それは自分が死ぬかもしれないことと同じぐらい、恐ろしいことに感じられた。他の人なら構わない。だけどユリアが、エイデンのせいで、と言うようになったら。
ユリアは少年の手をしっかり握り、力強く重ねて言う。
「もう一度言うわ。エイデン……いっしょに来て。あなたといるわたくしが心配なら、ずっと側で守って!」
守ってほしい。その言葉で、彼の心は決まった。
エイデンはユリアの手を握り返し、「はい」と静かに答えた。
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