1.偶然が必然に変わる

 ***


「エイデン! やっぱりまたここにいたのね。お気に入りの場所なの?」


 ところがユリアは約束通り、もう一度エイデンに会いに来た。


 二度目の訪問の時、孤児院の人間はユリアが今度も来るとは聞いておらず、完全な不意打ちであった。しかも彼女は騒がれないよう、こっそり隠れて裏庭に入ってきた。


 エイデンが固まっていると、ユリアは心配そうな顔になる。


「……まさかわたくしのこと、忘れてしまったの?」

「いいや。きみは……ユリアだ」


 エイデンが慌てて返せば、少女はぱっと花のような笑顔を浮かべ、またあれやこれやとおしゃべりを始める。


「エイデンは、お花が好き? だからお庭にいつもいるの?」

「別に……ここは人が来ないから」

「そう……? お花のことにくわしいなら、聞きたいことがあったのだけど」

「……どんなこと?」

「わたくしもね、この前小さなお花をいただいたのよ。毎日水やりをして、鉢植えを日当たりのいい場所に置いているのに、最近はあまり元気がないみたいなの。何がいけないのかしら」

「それは……水をあげすぎなんじゃ、ないかな」

「本当!?」

「花の種類にもよるけど――」


 他愛ないやりとりの合間、エイデンは何度か、ユリアに質問しようとして口を開いた。


 ――どうしてわざわざここに来るのか。

 ――自分のことを不気味だとは思わないのか。

 ――赤い髪の子と話してはいけないと、言われてはいないのか。


 けれど結局、その日それらの言葉は出てこなかった。

 言った方がいいと思っていても、ユリアの微笑みを見ると、彼女の言葉をもっと聞きたいと思ってしまったから。


 日が傾くと、ユリアは帰りの時間だと言った。

 今度の別れ際、ユリアはエイデンの手をぎゅっと握った。


「次はあなたの笑っている顔も見たいわ」


 そんな言葉を最後に、彼女はまた去って行った。



 エイデンはその日の寝る前、握られた手を顔の前に持ってきてみた。

 ……これは土くれの匂いだろうか。ユリアはもっと、花のようないい香りがしたのだが。


 夢のようなユリアの気配が残っていないものかと試していると、他の子のうるさいいびきがして、はっと我に返る。


 自分は一体、何をしているのだろうか……。


 きっと今度こそ、ユリアとの“次”はない。

 わかっているはずなのに、二度あったことはと思ってしまうと、一度目の時よりそわそわする気持ちがなくなってくれそうになかった。


 ***


 ユリアは三度目も、こっそりとエイデンに会いに来た。

 今度は雨の日だったのに、やっぱり裏庭に探しに来てくれた。


 エイデンは彼女を倉庫に連れて行った。埃とカビの匂いのする場所だが、ユリアは躊躇なく、楽しげにエイデンの隣に腰掛けた。


「あなたの言う通りね、お水をあげすぎないようにしたの。花は前より元気になったわ。エイデンって物知りなのね」


 他愛ないことを幸せそうに話すご令嬢を前にしていると、エイデンは期待と不安で気持ちがぐしゃぐしゃになるのを感じた。


 ――今日こそ、聞かなければ。ユリアの話が始まると、きっとこの前と同じになってしまう。だからからからの喉から勇気を振り絞った。


「どうしていつも、おれに会いに来るんだ? きみと話したい人間は、他にいくらでもいる。おれの所に来ても、そんなにいいことがあるとは思えない」


 頭でわかっているつもりでも、どんなに押し殺しても、エイデンの心は感じることを思い出してしまっていた。目の前の少女が、消えたと思っていた火をまた灯して、そしてたきつけている。


 一度だけであれば、ただの思い出。

 二度目があれば、幸運な再会。

 もう三度目ともなれば――これ以上を期待してしまう。


 最初から希望なんてなければ、裏切られることもない。

 そして今がたぶん、手を離されても諦められるぎりぎりの期待具合だ。


 エイデンがぐつぐつ煮えたぎる感情を抑えて喋ると、ぶっきらぼうで、冷たく聞こえる。

 それでもユリアはさほど気分を悪くした様子もなく、膝を抱えてくすりと笑った。


「そうね。わたくしと話したい人はいっぱいいるわ。でも……」

「……でも?」

「あなたはわたくしを見て、わたくしの言葉を聞いてくれるでしょう? それに喧嘩もしないわ。ほっとするの。ここに来ると」


 エイデンはユリアの言葉に驚いたが、少し腑に落ちた部分もあった。


 確かに、彼女は子ども達の中で、常に微笑んで話を聞いている側だった。ユリアを前にすると、皆自分のことを知ってもらおうとして、口数が多くなるようなのだ。そしてそれが加熱すると、口論や取っ組み合いが始まる。


 一人きりのエイデンであれば、喧嘩は起こりようがない。そしてエイデンはいつもユリアの様子を窺っている。


(そうか。おれみたいな奴は、案外ユリアの周りには少ないのかもしれない)


「エイデンは……わたくしがこうして会いに来るのを、迷惑だと思っているの?」


 考え込んでいるエイデンに、ユリアはぽそっと小さく尋ねた。

 二人とも黙ると、しとしとと外の雨音が聞こえてくる。


 けして、なりたくてなった独りではない。

 エイデンもかつてはユリアのように、屈託ない笑みを浮かべて楽しく友達と話す子どもだった。


 けれど無条件に愛してくれる両親は急に消え、髪が赤い、ただそれだけの理由で、彼は人の輪から外された。もうあの頃のように、無邪気に他人を信じることはできない。


 ――でも、もしあの頃の自分のままだったなら、ユリアはこんな風に話してはくれなかったかもしれない。


 幸せは人を無神経にする。たぶん、幸せなだけのエイデンは、他の人間と同様に、ユリアの話を聞く前に、まずは気を引こうとしたはずだ。自分は話を聞いてもらえて、当然の立場だと思っていたから。


 ただちやほやされるのと、大切にしてもらえるのは、きっと違うことだ。

 過剰な接近もしないが、拒絶もしない距離感。

 ユリアはこれを、自分が大切にされていると捉えたのだろうか?


「迷惑じゃ、ないよ。むしろ……」

「むしろ?」


 ユリアが促すように繰り返したが、その先は続けられなかった。


 ――きっと最後に迷惑だって思うのは、きみの方。だっておれは赤毛だから。


「……花の話が聞きたいな」


 かわりに、彼女の大切な世界のことを教えてくれるように水を向ける。

 ユリアが嬉しそうにしていると、エイデンの心も温かくなるように感じた。


「エイデン、また今度ね」

「……また」


 ユリアはびっくりと目を見張ってから、とびきりの笑みを零した。いつも帰る彼女を見送るだけだった少年は、この日控えめではあるが、確かに手を振り返したのだ。



 エイデンはもう、“次”を疑うことはやめにした。“次”がなくなったとしたら、それはきっとユリアにとって前向きなことのはずだ。エイデン以外の拠り所が増えたということなのだろうから。


 もし彼女が赤毛のことを知る時が来て、騙された、卑怯者とエイデンをなじる日が来たのなら――その時は甘んじて受ける。黙ってこの時間を守ると決めたのは、エイデンなのだから。


 ユリアはエイデンの凍えた心に、温かな火がまだ残っていたことを思い出させてくれた。

 ならば自分も、彼女の小さな日だまりになろう。ここがいいと彼女が言い続ける限り、寄り添って話を聞こう。


 これはユリアがくれたものを返している時間なのだから。


 けれど“次”は、それまでの三度と全く異なるものになった。


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