08 境界線と生の源泉

「整形して、人間関係がいろいろ変わったんです。離れていった人もいたし、腫れ物に触るみたいに接してくる人もいました。でも、変わらずにいてくれる人もいて。探偵さんを紹介してくれた翼沙つばさちゃんも、その一人です」


 過去の自分を受け入れた公佳さんは、見違えるほどさっぱりした顔でそう言った。


「整形を選択したことも含めて、ありのままの私を受け止めてくれる人もいる。これからは自分を偽らずに生きたいです」


 柔らかな笑み。これまで目にした彼女のどんな表情より、美しく思えた。


「あなたならば、今後どんな困難が訪れても乗り越えられるはずです。さぁ、戻りましょうか」


 樹神こだま先生は懐中時計型スマートウォッチを手に取った。


「服部少年、先に気の流れを作ってくれ。鏡の中にいる分、通常より電波状況が悪いもんでな」

「分かりました」


 僕はその場で強く柏手を打った。ぱぁんと音が弾けると同時に、空間に生じた亀裂から清浄な気が流れ込んでくる。

 先生がスマートウォッチを操作する。すぐに鋭い呼び出し音が鳴り始める。いつもなら二回目のコールで繋がる回線が、今日はなかなか繋がらない。


百花もかさん!」


 異能の乗った先生の呼びかけの声は、吸い込まれるように階層の裂け目へと消えた。

 呼び出し音は鳴り続けている。ただそれだけが僕の皮膚の表面を震わせる。


「百花さん!」


 もう一度その名を呼ぶ声にほんの微かな焦りが混じったことは、きっと僕にしか分からない。

 いつもと変わらないように見える先生の横顔。薄い唇が三たびの声音を紡ぎかけたその時。

 どこからともなく、甘い香りが漂ってきた。

 それを百花さんの香の匂いだと認識した瞬間、ようやく回線が通じた。


 ぱりん、と鏡の砕ける音がして、ぐるりと左右が逆転する。

 空の頂点から膜が剥がれ落ちるように、景色を覆う赤みが抜けていく。

 そうして世界は正しい色彩を取り戻す。西日に染まる雲も、影の落ちた城の白壁も、黄金に輝くシャチホコも。


 いつの間にかすぐ側には、煙管キセルと先生のスマホを手にした百花さんが立っていた。


「おかえり。無事で良かったわ」

「ただいま。おかげさまでね」


 普段通りにまっすぐ伸びた先生の背中から、わずかばかりの安堵を感じた。百花さんのふんわりした笑顔がそれを受け止めるのも。

 途端に肩から力が抜けて、僕は今の今まで自分が酷く緊張していたことを自覚する。


 スマホは先生の元へ、二枚の鏡は百花さんの元へ。行きとは真逆のやりとりで、それぞれの持ち主へと戻される。


「ごめん百花さん、鏡一枚割れてまったわ」

「あぁ、戻ってくる時に割れたんでしょ。いいよ、そうなると思っとったで」


 見れば確かに、片方の鏡面には蜘蛛の巣状のヒビが走っている。

 百花さんは無事だった一枚を公佳さんに差し出す。


「これあげる。公佳ちゃん持っとりゃあ。外側に向けや、邪気を跳ね返す魔除けの効果もあるでね」


 公佳さんは、受け取った手鏡を胸の前で外向きに構えた。傾いていく陽光がそこに反射し、きらりと眩く閃く。


「そっか、外側に向ければいいんだ」


 それは少し湿ったような、笑みを含んだ声だった。


「……みなさん、本当にありがとうございました。あの、もし良かったら、郷土祭も見にいらしてください。私、千姫やりますから」


 示し合わせずとも、僕たち三人の答えは自然に揃った。


「もちろん!」


 その余韻を、園内放送が横切っていく。


『まもなく閉園時刻となります。園内をご観覧のお客さまは……』


 既に四時二十五分だ。

 四人で連れ立って、ぱたぱたと足早に出口を目指す。


 非現実から現実へ。

 非日常から日常へ。

 目には見えない境界線を跨いでいく。


 爽やかで心地よい初秋の夕方の風が、僕たちの背中を追ってきていた。




 後日。とある土曜日の昼過ぎ。

 名古屋市営地下鉄名城線矢場町駅、北改札口を出た辺り。約束の時刻ぴったりの待ち合わせ場所には、既に樹神先生が待っていた。


「すいません、僕ちょっと遅かったですね」

「いや、俺も今来たとこだよ」


 彼氏か。


 今日の先生は珍しくカジュアルだ。ネイビーのカーディガンに白のノーカラーシャツ、くるぶしが覗く細身の黒のパンツに白のスニーカー。

 束ねた長髪やすらりとした長身とも相まって、やたらお洒落に見える。これで私服が壊滅的にダサかったりしたら面白かったのに。


「ん? 何?」

「いえ、別に」


 重たいグレーの無地のパーカーに何の変哲もないジーンズという冴えない恰好の僕は、しぶしぶ先生の隣を歩く。


 地上へ出ると、既にものすごい人出だった。

 ケからハレへの境界線を、一気に踏み越えたようだ。


 今日は大なごや郷土祭一日目。天気は快晴。久屋大通公園のイベント広場では、さまざまな催しものが所狭しと行われている。

 特設ステージではご当地アイドルのライブをやっていて、ファンのものと思しき歓声が轟く。

 名古屋めしフェスティバル会場では、どの店舗にも長蛇の列ができていた。興味は湧いたけれど、あそこに並ぶ気力はない。


「百花さん、場所取りしてくれとるって」


 先生の後について、人の波を漕ぐように広い通りを渡っていく。

 こんな人混みに紛れるのは生まれて初めてかもしれない。お祭りなんて、連れて行ってもらったこともなかったから。

 胸の奥をそわそわと掻き回す非日常の空気は、呼吸するだけでも普段と違う器官を使っている感じがする。


「あっ、おったおった。百花さーん!」


 先生が手を振る先、それに応える百花さんの姿が見えた。


皓志郎こうしろう! 服部くん!」


 今日の百花さんは、左右で柄の違う着物だ。上前がクリーム色の地に朱色と臙脂えんじの椿の柄、下前が同じ三色でのストライプ。帯は白黒の斜め市松紋様だ。

 レトロモダンで華やかな彼女は、僕の顔を見るなり、くしゃっと笑った。


「やだ服部くん、寝癖付いとるよ」

「えっ? あぁ、昨夜勉強しながら机でうたた寝してまったんで……」

「ヒヨコみたいだよ。可愛いー、うふふ」


 シンプルに恥ずかしい。洗顔はしたけれど、鏡をロクに見ていなかったかもしれない。

 隣で先生が何やらぶつぶつ言っている。


「くそ、あざといな服部少年……」


 なぜそうなるのか。全く釈然としない。


「良かったぁ、行列来る前に合流できて。楽しみだねぇ。知っとる人がお姫さまの役ってすごいねぇ」

「うん。こんなこと滅多にないでな」


 周囲の空気が期待で満ちていた。この場の全員で、それを共有している。

 共感応エンパスの回線を閉じていても肌で分かった。こんなにわくわくするものなのか。


 やがて、名古屋駅方面から賑やかな祭囃子が響いてくる。

 行列が、近づいてくる。


 交差点の陰から行列の先頭が姿を現す。誰からともなく拍手が起こる。

 先陣を切るのは陣羽織姿の鼓笛隊だ。高らかに笛を吹き鳴らしながら行軍していく。

 後に続くのは甲冑を纏った槍隊や鉄砲隊。風に棚引く五色の吹き流しも見える。

 満を辞して白馬に跨った織田信長が登場すると、わぁっと歓声が上がった。

 有名な武将や姫君たちも、喝采を浴びつつ次から次へと行き過ぎる。色とりどりで豪華絢爛。賑やかしく威風堂々と、行列は連なっていく。


 豊臣秀吉隊の後は、いよいよ徳川家康隊の出番だ。

 毛槍を携えた武士や犬の乗った駕籠かごに導かれ、千姫の山車だしがやってくる。


 着飾った女房たちの一番前に、公佳さんがいた。

 紅の地に金の錦の艶やかな羽織に、江戸時代の姫らしく結い上げた髪。大輪の花のような笑みで、楚々と手を振っている。

 髪の上を彩る細かな飾りが身動きのたびにしゃらしゃらと揺れ、明るい日差しをきらきら乱反射する。まるで、その一つ一つが鏡であるかのように。


「公佳ちゃーん!」


 両手で大きくアピールする着物姿の百花さんが目立ったのか、公佳さんがこちらに気付いてくれた。

 奇跡のようなその一瞬、僕たちは手を振り交わす。

 今の彼女にもう『呪い』の陰はない。その姿は誰よりも気高く、そして美しく輝いていた。


 行列は進む。溢れるような『正』の、そして『生』のエネルギーを、辺り一帯に振り撒きながら。

 そうか。みんな、この圧倒的なハレの気を享受しに来ているんだ。


 千姫の乗った山車は、あっという間に目の前を通り過ぎてしまう。

 それが人波に紛れて見えなくなるまで、僕たちは手を振り続けた。


「良かったねぇ」

「あぁ、良かった」


 先生と百花さんが口々に言う。僕も心からそう思う。


 喧騒の余韻は温かく、どこか淋しい。抜けるほど高い空に、人熱ひといきれの残滓が昇っていった。



 ◇



 この世に生きる誰しもが、闇に心を囚われることがある。

 心の闇は、時として怪異を呼ぶ。

 現世と幽世かくりよの狭間に、怪異と繋がる世界がある。


 僕の名前は服部 はじめ。樹神探偵事務所の助手をしている。

 名古屋の街で不可思議な現象にお困りの方は、ぜひ当事務所にご相談を。

 ちょっと気障で蘊蓄語りの長い探偵が、あなたのお悩みをきっと解決いたします。



—了—

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ムラサキカガミに映るもの 〜なごや幻影奇想短篇〜 陽澄すずめ @cool_apple_moon

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