07 死に損ないの誇り
「どうして、こんなところに……」
依頼人である
彼女に『呪い』として纏わり付いていた『念』。その発生源であるらしい、右頬に痣のある女性の霊体は、恨みがましい目つきで小さく唸っている。
「先生、どういうことですか? あの霊体も、木全 公佳さん? 同姓同名の別人の霊?」
「霊体というより、思念体なのかもしれないな。恐らく、この鏡の中の世界でしか存在できないような」
「へぇ……?」
公佳さんはがっくりと項垂れている。彼女の感情が負の方向へ揺らいでいるのが伝わってきた。
こんな場所で精神不安定になるのは非常に危険だ。あの『念』の影響を直接的に受けてしまいかねない。
先生は思念体を拘束したまま、わずかに眉根を寄せた。
「今この場で『呪い』を解く必要がある。服部少年、あの思念体の意識に触れられるか?」
「できますけど……大丈夫ですか? さっき思念体への攻撃が彼女の精神にも干渉しとったように見えたんですけど」
「あぁ、そのことも含めて事実関係の確認が必要だ。『呪い』の原因もそこにあると思う。結界は解いていい。アレの思念を読んでくれ」
「……分かりました」
僕は握り合わせていた両手を解き、一つ深呼吸して思念体と向き合った。
結界を張るために全方位へ開いた状態だった感覚の回線を引き絞り、ピンポイントに目の前の思念体へと向ける。
『念』の塊で覆われた、その意識の深層を探り当てれば、相手の感覚が流れ込んでくる——
——『ムラサキカガミ』という言葉を二十歳まで忘れずにいると、死ぬ。
小学四年生のある日、誰かがネットで見つけてきた都市伝説の話で、教室じゅうが持ちきりになった。
「あと十年経つまでに忘れんとかんね」
「ずっと覚えとったらどうしよう」
「成人式までに頑張って忘れよう」
みんなが口々に言う中に、こんな声が紛れ込んだ。
「木全さんだったら、むしろ映った鏡の方が死んでまうんでないの」
「あの痣さ、紫色っぽいことない?」
「というか、そもそも『ムラサキカガミ』って木全さんの呪いだったりして」
それ以降、私には『呪い』というあだ名がついた。
学校にはあだ名禁止のルールがあるから表立って呼ばれることはなかったけど、クラスメイトが陰でこそこそ私をそう称しているのに気付かないはずもない。
だって、教室は酷く狭いのだから。
私の顔には、左側の頬の広い範囲に生まれ付きの痣があった。毛細血管が拡がったものらしくて、紫色をしている。痛みはない。ただ見た目が悪いだけ。
瞼も腫れぼったくて目が細いから、余計に悲惨に見えるみたいだった。
「女の子なのにね」
「殴られた痕みたい」
「痛々しくて可哀想」
昔からよく言われた。
「怖い」
「気持ち悪い」
「化け物」
「見たら呪いがうつるよ」
私だって、好きでこんな顔に生まれたわけじゃないのに。
鏡を見るのが嫌だった。
「見たら呪いがうつる」ような顔なら見えなくなればいいと、鏡を墨で塗り潰したこともあった。
そんなの何の解決にもならないと知ってはいたけど。
「綺麗な顔に産んであげられんくて、ごめんね」
それがお母さんの口癖だった。
「人間は見た目より心が大事なんだよ」というのも。
謝られるのも、心が大事と言われるのも、どちらも辛かった。
私の見た目は「悪いもの」に違いないから、他人に酷いことを言われても仕方ない、と。
せめて心だけでも綺麗でいるために、じっと我慢して耐えなきゃならない、と。
そう言い聞かせられているようで、辛かった。
皮膚科の治療でも、痣はなかなか消えなかった。
美容整形へ行きたいと言ったら、反対したのはお父さんだ。「そんなことに余計な金を使うな」と返された。
私の悩みは、「そんなこと」で一蹴されるものだったらしい。
何度か喧嘩に近い話し合いを重ねた末、「二十歳超えたら勝手にしろ」と言い放たれた。
視界が開けた。
二十歳になれば、この顔を変えられる。
醜い私は二十歳で死ぬ。
鏡を見ながらそう唱えるのが、新たな日課になった。
整形資金のため、高校に入ってからバイトを始めた。
ファストフード店だったけど、私のような顔の女がレジ係だとお客さんからクレームが入るからと、裏方に回された。
——『ムラサキカガミ』を忘れるな。陰口を言われた時の、あの悔しくて惨めな気持ちを忘れるな。
鏡を見て唱える。
醜い私は二十歳で死ぬ。
道を歩いていても、大学に入っても、通りすがりに露骨に指さされることがあった。
——『ムラサキカガミ』を忘れるな。この程度のことで挫けてたまるか。
鏡を見て唱える。
醜い私は二十歳で死ぬ。
醜い私は二十歳で死ぬ。
醜い私は二十歳で死ぬ。
そうしてようやく二十歳の誕生日を迎えて、私は新しい自分を手に入れた。
シミ一つない白い肌。くっきりした二重の、アーモンド型の大きな目。
明るい色味のメイクも覚えた。美人だと言われることも増えた。
醜い私は二十歳で死んだ。
嬉しかった。もう心ない他人の視線に怯えなくていい。
百貨店という接客メインの業界にも就職できた。
郷土祭の大役にも抜擢された。
醜い私はもう
そのはずだったのに。
「木全さんって、整形しとるって本当?」
「道理で綺麗だと思ったら、弄っとったんだ」
「見た目ばっか取り繕ってもねぇ」
今度はそんな陰口を叩かれた。
——『ムラサキカガミ』という言葉を二十歳まで忘れずにいると、死ぬ。
その都市伝説が、本当だったら良かった。
醜かったという事実すらも、二十歳のあの時に丸ごと消してしまえたら良かった。
いくら美しく生まれ変わったつもりでいても、元が駄目なら意味がない。ただの偽物でしかない。
死に損ないを引き摺りながらじゃ、きっと上手く歩けやしないのに——
凄まじい負の感情の渦から、無理やり意識を引き剥がす。
他者の感覚を我がことのように受信する『
以前は意図せずに何でもかんでも受け取ってしまい、自分の感覚なのか他人の感覚なのか区別も付かずに混乱したり、自意識ごと他者に乗っ取られたような状態になったりしていた。
今ではもう、自我をしっかり保ったまま他人の意識に触れられる。大丈夫、僕は僕だ。
だけど、息苦しさの残滓はまだこの胸にある。
「服部少年、どうだった?」
「先生、あの……」
僕は今しがた見てきたものを、掻い摘んで先生に伝えた。
「なるほど。『念』を魂として宿した鏡像が、あの思念体なんだ。かつて木全さんが鏡に映った自分に与えていた呪詛が、今になって跳ね返ってきている。自分への陰口を耳にしたことで蘇った悪感情が、過去の『念』を引き寄せてしまったんだ」
「木全 公佳さんは……自分で自分を呪っとったんですね」
思念体への干渉が公佳さんに影響したのは、あれが彼女の一部だからだろう。
厄介な『呪い』だ。全くの第三者からだという方が、よほど解決しやすいに違いない。
生身の方の公佳さんが、震える声で呟いた。
「私、どうしたら良かったの? 生まれ持った顔じゃ『化け物』呼ばわりで、顔を直したら『整形女』呼ばわり。醜く生まれた時点で、どう足掻いたって無駄だったのにね……」
先生は膝をつき、彼女に目線の高さを合わせた。
「無駄ってことはないでしょう。この先の人生まだまだ長いんだから」
「一旦おかしな噂が立ったら、ずっとついて回るんですよ。過去の自分のせいで、この先の人生も台無しです。過去をなかったことになんかできませんから」
「過去をなかったことにはできない。それは確かだ」
思念体の彼女が俯く。被さった髪が痣のある顔の右側を隠す。消したいものを消せないまま。
「過去のあなただって、あなたの一部でしょう」
「その過去の私が、元々呪われてたんです」
「いや、そもそも呪いをかけたのは、親御さんや周りのクラスメイトたちだ。ありのままのあなたを否定し、尊重しようとしなかった」
「ありのままの私……」
「あなたはずっと独りで戦ってきた。他でもない自分の心を守るために、挫けることなく前へ進んだ」
「あなたは逃げなかった。他人を呪うこともしなかった。ただ、自分と向き合い続けた」
先生の心地よい低音の声が、穏やかに、だけど力強く言葉を紡ぐ。
「誇っていい。自分の力で望む姿を手に入れたあなたは美しい」
公佳さんが顔を上げる。強い表情で、じっと先生を見据える。その目の端にじわじわと涙が盛り上がっていく。
先ほど
僕にも、何か伝えられるだろうか。
「……あの、僕も前は自分が嫌いだったもんで、何となく分かるんですけど。自分の嫌な部分を直視するってだけでもしんどいし、それを乗り越えて変わろうとするのも大変なことですよね。その上でちゃんと前に進んできたのは、本当にすごいことだと思います」
嫌で嫌で仕方なかった過去の自分。だけど今の僕は、それを何もなかったことにはしたくない。
あの時、僕の背中を押してくれたのも先生だった。
我が師匠は続ける。
「心が大事だと言いますが、姿形も大事だと、私はいつも考えています。魂は
そして、思念体の彼女へ視線を向ける。
「あそこにいるのは、あなたが辿ってきた道筋の証左です。孤高のまま戦い抜いた、
公佳さんの頬を一筋の涙が伝っていく。かつて痣のあった場所を。
先生が差し出した手を、公佳さんは断った。
「大丈夫です、ありがとう」
現し身の彼女は自分の足で立ち上がり、幻影の彼女にそっと歩み寄る。
実体の彼女が、思念体の彼女を掻き抱いた。
「ごめんね……」
消え入った声は、すぐに押し殺した啜り泣きへと変わる。
過去の彼女の両腕が、現在の彼女の背中に回される。
『
僕の耳にも、確かにそう聴こえた。
閉ざされた世界に封じられていた『念』が、解放されていく。きらきらと美しく瞬きながら、夕暮れ色の空へと溶けていく。
それがすっかり浄化され、姿形をなくしても、公佳さんは過去の自分のいた空間をぎゅっと抱き締め続けていた。
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