第12話 油絵
ベレー帽を被った初老の男は、紳士というよりもお洒落な浮浪者、という表現が似合うかもしれない独特の風貌を備えていた。
それもそのはずで、彼は自分は絵描きだと言っていた。
絵に興味のない私は、彼の名前を聞いてもピンと来ず、ただ絵を描いて生活ができるとなると、それなりのファンを持っているのだろう事は想像できた。
「今夜の私の話は、私が絵を描いて生活が出来る様になってからの物語のようなものです。私は幼い頃から絵を描く事が好きで、裏の白い広告や、色紙の裏などに、いつも絵を描いていました。幼い頃は、それでもよかったのですが、いいえ、やはり例え幼くとも、そうしょっちゅう絵ばかり描いていると、両親には怒られるものです。怒られるくらいなら絵を描くことなんて止めてしまおう。その程度でした」
私は、少し酔いを覚ますために、飲み干したグラスを預けて、新たなグラスに氷を入れてミネラルウォータを注いでもらった。
「それでも、突然、絵を描き出したのは、学生の頃に出会った女性を好きになり、その人を絵に描いてみたいと思ったからです。勿論、写真の方がリアルで良いのでしょうが、声もかけたことのない女性をカメラで撮るとなると、そんな盗撮まがいのことはしたくありませんでした。それで、とにかく近くの絵画教室に通い始め、学内のキャンパスで時々出会う彼女を思い出して絵を描き始めました。いえ、習い出したという方が正確ですね。それなりの月日が経って、その絵が完成した時には、絵画教室の先生が偉く誉めてくださり、何かのコンクールに出展しようという事になりました。その時の私は知らなかったのですが、その先生は、その道ではそれなりにご高名な方でした。そして、あるコンクールへ出展した私の絵は、最優秀賞を得る事ができました。それからは、幼い頃に戻ったように無我夢中で絵を描きました。初めて描いた油絵が、初めて応募したコンクールで最優秀賞を得たのです。夢中になってしまうのも当然だと思ってください。そして、これも当然といえば当然ながら徐々に高慢になり、挙句の果てには、その時からコンクールで入賞すらもできなくなってきました。高慢な心が絵にも現れていたのでしょう。そして、そんな時、私は初心に帰るために初めて描いた女性のことを思い出し、その直後に、そうだ、昔、旅で出会った景色を思い出して、初めて風景画を描くことに挑戦しようと、そう決めました。この時ほど気持ちよく絵を描けた事はありません。一切の欲を無くして、無我夢中で描けたのですから。暫く絵にのめり込むように描いていると、ふと思ったのです。この絵の中に自分の存在を見たのです。ということは、この絵を描いている自分は、この絵の中に居て、その絵を描いている自分が今ここにいるのだという錯覚のようなものに陥ったのです。私は不思議に思って、もしかして?と、筆を止め後ろを振り返ると、果たして今の私を描いている人物がいました」
「という事は、画伯。貴方が何人も居る、という事になるのでしょうか?」
何処からともなく、女性の声が聞こえた。
「いいえ、後ろにいた人物は、私ではありませんでした。全く知らない人だったのですよ。ただ、その人物が彼のキャンバスに筆を入れるたびに、私は絵を描きたくなり、描き出すとどんどん絵にのめり込んでいくのです。その時、私は思ったのです。私は、絵を描いているのではなく、描かされているのだと・・・。」
「それにしても良い絵をお描きですよ」
彼のファンだろうか、一人の男性が言うと、続けて画家に質問を投げかけた。
「ところで、その初めて描かれた女性の絵は、どうなったのでしょうか? ぜひ見てみたいものです」
「ええ、初めてのコンクールから数ヶ月して、結構な値段で売れました。そのおかげで、私は働くこともなく絵を描き続けられました。先程までお話しさせていただきましたように、山あり谷ありの人生で、私はすっかりその絵のことも、彼女のことも忘れていましたが、ある日、突然その絵と再会を果たす事ができたのです」
「では、今は、何処にあるのかを知っている?」
「はい」
そう言うと画家は、暖炉の部屋の扉の向かい側の壁を見つめ、促した。
そこには、大きな絵が掛けられていて、絵の中の女性は気高く美しかった。
今まで、どうして気づかなかったのであろうか? 部屋が暗かったからだろうか? あまりにも天井高く掛けられてあったせいだろうか。
それとも、今まで掛けられていなく、今夜、初めて壁に掛けられたのだろうか? そうだとするとあまりにタイミングが良すぎる。
ただ、不思議なことに、その女性は中世の時代のドレスを思わせる衣装に、数々の宝石を首から下げていた。
実際に、そのような姿をしていたとは思えないので、画家の逞しい想像力で仕上げられたものであろうと思えるのだが、あまりにもしっくりきて、その時代に描かれたかのような絵に。
そしてその美しい女性は、相手の心の奥まで見透かすような、あのマンハッタンのような、透き通るような、燃える赤の瞳でこちらを見つめていた。
この思いは、この暖炉の部屋に居る数名の男女も同じであったろうと思う。
この部屋にいる人達全てが、暫く呆然として絵に見入っていたのだ。
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