第15話 長い別れ
「まだ、外科部長だった時のことです。私は、初診の患者さんを診察室に呼ぼうと名前を見て驚きました。それは、私が若い頃にお世話になった医局の部長だったのですから。当時の部長がよくおっっしゃっていた言葉が、最近は外科医を志望する人が少なくなってね、でした。今も同じなのですが、外科系は命のやり取りと直面することが多く、患者さんやそのご家族ともトラブルになることは少なくありません。それを避けたい若い医師達が多くなってきていることも事実です」
暖炉を囲んでいるそれぞれの人が、なるほど、とうなづいている様子が見てとれた。
「その時の部長が私を可愛がってくれたのは、私が研修を終えてからの第一希望に消化器外科を選んだからだと思っております。そういう訳で、とてもお世話になった先生が私を訪れてきたのです。そして、精密検査の結果は肝臓癌でした。私はすぐに説明をして、その日のうちに入院していただくことにしました。そして手術の日のことです。当時の私の恩師であった外科部長は、何故か出来るだけ少人数で手術をして欲しいとのことでしたので、私は最低限必要なスタッフと共に手術室に入りました。そして私は、恩師が麻酔で眠ってしまう前に一言だけ声をかけました。任せてください、と。するとそれに答えて恩師は、肩の力を抜け、とだけ言われました。決して難易度の高い手術ではなかったのですが、恩師を手術するとなると流石に私も緊張していたことを患者は分かっていたのでしょう。そして、術前カンファレンスで計画したように手術は無事に進行していったのですが、手術も山場を越えた頃に、私の耳元に声が聞こえてきたのです。その声はまさに今、手術をされている恩師の声でした。腕を上げたな、然し、其所じゃないんだ、横行結腸を開いてみろ、そうだ、其所から3センチのところだ、と。私は目眩を覚えながらも言われた所を指で触診すると、違和感のある感触を覚えました。周りのスタッフは予定になかった私の行動に青ざめている中、私は構わずに結腸にメスを入れました。すると其所には僅か2ミリ程度の腫瘍がありました。手術後、スタッフの一人、手術室勤務の看護師が、先生お見事でした、と言った様に思いますが、記憶は曖昧です」
何処から風が吹いてきたのか、蝋燭が揺れ、また静かに天に向かって炎を静止させると、外科医は語り出した。
「驚くことに、その後、臓器を提出して調べていただいた臨床病理部からの報告では、肝臓は転移で、原発巣は横行結腸だったのです。時々起こる事なのですが、原発巣の腫瘍は静かで、転移先で大暴れする。今回も、そのパターンでした」
私と同じくらいの年齢の男性だろうか?外科医に質問した。
「それで、先生の恩師である医師は、一命を取り止めることができたのでしょうね?」
「それはどうか分かりません。確かに原発巣を取り除いたお陰でしょうか、5年以内は何事も起こらなかったのですが、結局は再発しました。多分ですが、結腸の腺癌細胞は、既に全身に拡散していて行動を起こす時まで、5年という歳月の間、静かにしていたのでしょう」
「まぁ! そんなことがあるのですね。でも、再手術はされたのでしょう?」
今夜の夜会では、たった一人きりの女性が言葉を発した。
「いいえ、年齢的にも体力的にも、手術はしない方が良いと判断しました。いえ、判断したのは私ではなく恩師であったと言ったほうが正確な表現でしょう」
医師は話を続けた。
「恩師は言ったのです。ねぇ、先生、医者が人の命を救おうなんて烏滸がましいとは思わないのか? 医師という者はね、生きていて素晴らしいと思えるような、そんな命のサポートをすることだけに全身全霊を傾ければいいとは思わないかい? 自由を奪われた束縛の延命なら私は断るよ、と先生はそう言われたのです」
「これが私の医師としての方針を、方向を、形づけた貴重な体験です」
「以上です」
彼は、既に体温で温まってしまった、掌の中のギムレットを飲み干した。
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