第9話 二人
濃紺のスーツを着た男性は、少しも躊躇う様子もなく語り始めた。
「私は2輪が好きで、休みの日は必ずと言って良いほどツーリングに出かけます。勿論そうなった原因みたいなものを今からお話ししようと思っています。若い頃から2輪が好きでしたが、結婚してからは危ないからと2輪に乗ることを妻から止められていました。いえ、今は離婚していますので元妻と言うべきなのですが」
その時、小さく、外国製のストーブの中で薪が弾けた。
「別れた妻とは、一人の男の子を授かっていましたが、生まれつき身体も弱く、私達は大事に育てました。その甲斐あってか、幼稚園も卒業して無事に小学校に入学することもできました。ですが、生まれつき身体の弱い息子は、運動もろくに出来ず、それだけが原因だとは思いませんが、校内で虐めを受けることになっていました。どれだけの虐めがあったのかは皆様の想像にお任せします。なにせ、その子の父親である私でさえ虐めを受けていることを知らなかったのですから」
彼は、ここで、またグラスに唇を寄せた。
「息子は小学校高学年に達することは出来ませんでした。登校拒否では有りません。小学3年生で自殺しました。小学3年生で自殺ですよ」
少し語気が荒くなってしまったせいか、彼は自分を落ち着かせるように目を瞑ったようかのに見えた。
それは、深い呼吸を何回かした事で伝わってくる。
「それからの私は、当時の妻に止められていた2輪でツーリングに行くようになりました。でも、それ以来、休みの日にツーリングに出るようになったのではありません。最初は妻も時々のツーリングでしたので多めにみていてくれていたのですが。ある時のツーリングの日のことです。まっすぐな道を勢いよく走っていた時のことですが、前に走っている車が遅いので追い抜かそうと安全確認の為に右のサイドミラーを見た時、あろうことか、ミラーに写っていたのは顔でした。後方で走ってくる車などではなく死人の顔でした。それは、まさしく死んだ筈の息子の顔だったのです。ミラーはいつの間にかリアシートが見えるように移動していたのです。私は、私にはあの輝くような息子の笑顔を忘れることなどできませんでした。そして、それ以来なのです、休みの度にツーリングに出るようになったのは。勿論、そんな私ですので、たった一人で妻が待っている家庭を省みることもなく。妻は家を出て行ってしまいました。どれだけ寂しい思いをさせて来たのだろうかと反省しています。でも、あの時の私にとって大切なことは休みの度に息子を乗せてツーリングに出かけることだったのです。そして今も。だからこそ今では、サイドミラーを見なくても背中に息子の温もりを感じることができます。後ろから手を回し、しっかりと掴まっている息子の鼓動を感じるのですよ」
その時、今度は、大きな音をたてて薪が弾けた。
「今夜は、妻も信じてくれなかった話を聞いてくださって、感謝いたします」
私は、氷が溶けて薄くなったカンパリソーダを飲もうと顔の近くに持って行くと、薄い紅色をしたグラスの向こうに、父親の座っている椅子の横に立っている、小さな男の子が見えたような気がした。
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