冬の宮殿とブーゲンビリア(一輪)
始めてサンクトペテルブルクの冬宮殿に訪れた時、青空の下に唯一構える雄大なる姿に思わず息を飲んだ。細やかさで美しさを模った装飾に目を奪われ、規則正しく綺麗に準えた外の風景と相反する、優雅で官能的な雰囲気を持つ芸術の祭典とも呼べる内部のデザインを俺は決して忘れまい。
しかし
「しかし、だ」
ここはお世辞でしか美しいと言えない様な掃き溜めだった。
貴族は常に自分より権力ある貴族に取り入ろうと必死になり、同郷の者も昨日までワイングラスを共に傾かせた人すらも平気で裏切りやがる。財力と特権を持つ貴族は立場を守る為に手回しし、下の者を更に貶めては自分と同じ立場の人間をまた顔色一つ変えず破滅させる事を常日頃考えて止まなかった。
出合う貴族全てに違う顔を見せ、違う言葉を交わし、しかしそのような貴族等は皆権力と金のみを瞳に映している。
正しく、宮殿は巨大に聳え立つ魂の墓場だった。
「ニコライ殿、今夜はその剣を降ろし、ワインでも如何ですかな?」
「断らせて頂きます」
自分より影響力あるならばと食いついて来る連中が気に食わない。
「ニコライ侯、是非とも我が領地で行われるパーティーに、引いては公爵にお言葉を」
「断らせて頂きます」
同級だとすれば浅ましい笑顔を貼り付けて利用しに掛かる連中も気に食わない。
「ニコライよ。そろそろ儂の息子と時間を持ってみるが良い」
「断らせて頂きます」
下の者は駒としか見ない視線が、何よりもまして気に食わない。
(気に食わない!)
父の死後、自然と受け継ぐ事になった騎士の爵位を持って宮殿に来た。膨らんでいた思いからは嫌悪だけが流れず、理想は絶望に近い形で砕かれてしまったのである。
それでも未だ宮殿に残っているのは
「そうやって、折角の美人を辛気臭い顔で台無しにするでない。余の誇りである騎士ニコライよ」
ただ陛下がそれを望まれたからだった。
エリザヴェート・ペトロブナ女帝陛下は誰よりも美しく、またある意味で宮殿の中で唯一権力等という営みから外れたお方だった。何より女性だった俺を、護衛として傍に置く事で何よりも嫌悪する営みからの自由を保証してくださった方でもある。
しかし始めてお目にかかった十年前とは違い、今や病いにおかされ一日の多くをベットから余り離れる事もできずにいらっしゃるのが現状だ。
「申し訳ございません。決してこの時間に対して物ではありませんでした」
「其方は色々抱えすぎなのだ。もう少し気を楽にして、たまにはめを外してみると良い」
現在では公爵様からの報告等を陛下に伝える、という役目もあるけれど実際の所は身の回りの世話をする侍女とそう変わらない。
「はめを外す、ですか」
「甘味を楽しんだり、動物を愛でたり、殿方と遊ぶも良し。そういう経験もまた大切よ」
「お言葉はありがたいのですが」
如何なる物も所詮気休めにしかなるまい。楽しめもしない物を所望するなど、陛下に取り入ろうとする連中と同じだ。
しかし俺のそんな態度にも女帝陛下は微笑むばかりだった。美しさはギリシャの女神彫刻のようで、暖かなること母親の如く、声には安らぎあり、母なる大地を総べる優しさは尽きる事がない。
「良い良い。まだ探せぬなればそれも一興、風情のある悩みよ。それでも、うむ。お主の変りようが楽しみだ」
エリザヴェート様はそうおっしゃってご就寝になった。俺は出来る限り静かに部屋を後にする。
「エリザヴェート陛下。それでも俺には何もかもが、あの場所じゃ色褪せて見えてしまうのです」
月が陰った日でも尚、ネヴァ川から反射される光は川辺を照らしてくれた。俺はロングソードを両手に、宙へ大きな半円を何度も何度も描く。何にも捕らわれず、ただ悩むだけの時間だった。
「何故陛下はそう堂々といらっしゃる事ができる?」
全身が汗だらけになってようやく疲れ果てて剣を降ろすと、川の流れを伝って来た冷たい夜の風が額を一瞬で乾かしてしまう。
「俺は、どうしていけば良いのだ」
宮殿に来てからなめられる事のないように貴族としての役目は果してきた。他から決闘を申し込まれた事もある。それでも女帝陛下の側近として剣を持って制してきた。
しかし得たい物も、失いたくない物も、果したい目的もない。そんな俺が何処で何をしようと、そこに何の意味があるというのか。
もっと力のある者に媚び諂う事しかせぬ連中の作り笑いが浮かんできた。連中は皆醜くも己の求める何かに手を伸ばしていたのである。けれど俺は、俺はそんな醜さすらも持ち合わせる事が出来ない。
「何にも崇高さを持てぬなら、俺はあの醜い連中と何が違う」
息を整えてようやく、後ろから芝生を踏みしめる足音を耳にできた。
「誰だ!」
振り返るとそこには綺麗なドレスを着込んだ女性が一人佇んでいた。明るく澄んだみ空色のドレスを後ろに束ねて膝下を晒し、首伝いに少し膨れた胸を隠すフリルの飾り。他の貴族同様額を晒して後ろに結んだ髪はチューリップで染めたようなくすんだ黄色をしている。
「怖いですわよ騎士様」
そんな見た目だけでは想像もつかない少年のように透明で澄んだ声と、逆に落ち着いている雰囲気には不思議な魅力を感じれた。陛下の侍女は皆貴族家計の娘さんだが、彼女は中でも特出している。
「申し訳ない。確か、レア・ド・ボモンだったか」
「レアで良いですわよ。騎士様はここで何を?」
ドレスに汚れが一切なく、み空色に色褪せた部分もない。芝生を歩く時も音を立てない身だしなみは気品が滲み出ていた。
「特には、寝つけなくて少し身体を動かしただけであります。それでは良い夜を」
「もう行くのですか?」
「ええ」
軽く水に浸した布で剣を拭き、さっさと宮殿に戻ろうと踵を返す。だが周りを見ても俺の持ってきた丸いワインボトルが見当たらなかった。
「うん。良いブドウ酒ですわね。」
気付けばいつの間にかレア殿が瓶の底を片手に、ブドウ酒の中身を空けていたのである。
「それは、幸いです。きっとワインも本望でしょう」
正直かなり驚いてしまった。宮廷は色々なマナーにかなり厳しい。その分に貴族共は内側はどうあれ、外側は礼儀礼節をちゃんと守るのが一般的だ。比べて彼女の行動は余りにも破格的だったのである。
「悔しくないのですか? 折角のワインを」
「いえ、そのような事は決して」
勿論文句の一つはあった。が、彼女は女帝陛下のお気に入りの侍女である。今後何度も顔を合わせる事になるのに、トラブルは避けたい。
「魂なき返答など、腰抜けなのですね」
そう割り切ろうとしているとレア殿は唇の端を上げてこちらをあざ笑うようにして挑発してきた。
「それが誇りある騎士のあるべき姿なのですか? 本当にそれで良いのですか?」
「一体何が言いたい」
睨みつけると彼女は背中からベルトと、鞘に収まったレイピアを見せつけてきた。何重に重なった曲線の護拳と細い刀身を持つそれは、殺傷能力の高い武器である。
「とても貴方に必要な物には見えないな」
「勝てば、女王様から授かった一番良いワインを謝罪と共に持ってきますわよ?」
何の冗談かと思っていたが、鞘からレイピアを抜いた彼女の脚の運び方は尋常ではなかった。歩幅は狭くも剣の重さにふらつく事なく、握っている手からしっかりとした力が込められているのを見て取れる。
「侍女に必要な技術ではないと思うが?」
「必要かどうかが、全ての価値判断の基準にはなりえないのではないでしょうか?」
「それは、そうだな」
毎日のように剣を振う事、ありたい姿を見出そうとする事、きっとそれは必ず必要な物ではない。ただ宮殿に溶け込むという選択肢も、何もかもを返上して故郷に帰ってしまう選択肢も、貴族である俺には許されている。
「そちらが勝てば?」
「心配はいりません。不可能を語る程、わたくしは酔っていないのですから」
俺は十年以上剣と銃を鍛えてきた。将校ではなくこのロシアの騎士としてだ。だからこそのプライドもある。それ以上に幾ら陛下の侍女とは言え、その側近の護衛騎士がここまでバカにされて戦わなければ恥さらしだ。
「あんたが生半端な実力がない事を願う。でなければ女帝陛下の侍女を殺した人間になってしまうだろうからな!」
鞘に収めようとしたロングソードをそのまま両手に握って身体を投げた。大きく一歩を詰めて先に相手の刀身をこちらの剣身ではねる。
剣先同士がぶつかった時、掌から全身に伝わる衝撃は凄まじい。それを利用し、左手で首根っこを掴んで制圧してやろうと思っていた。
それで十分だろうと、なめていたのだ。
「散々挑発しておいて何ですが、今のは想像以上に頭にくる物がありましたわ!」
彼女は全力で振った剣と剣がぶつかる瞬間に自ら手を放した。同時に半歩を詰めて、前のめりに身体を投げた俺の首筋と伸ばした左手を逆に掴みとる。気付けば地面から脚が離れ、代わりに背中を付けていた。勢いと加えて彼女の腰を軸に投げられた衝撃が全身に響く。
「ッ!」
自分が勝負に、あっけないくらいに容易く破れた事を知覚して最初に浮かんだのは悔しさではなく疑問だった。
「どう考えても、ただの侍女じゃないだろ」
俺が考えていた事を、そのまま逆利用されたのだ。未だ手から剣同士がぶつかった衝撃が抜けない。
月を隠すようにして、倒れていた俺を見下ろしてくる。油断していたとはいえ、彼女の動きは脚の運びからタイミングに至るまで余りにも完璧で美しかった。
「いいえ、エカチェリーナ陛下の忠実な侍女ですわよ? おほほ」
「嘘だ……」
俺の呟きを耳にすると、わざとらしくドレスを軽く持ち上げる。不思議と俺は目の前に佇む人が自分に嫌気がさしている事に感覚的に気付いてしまった。
(何故かは分からない。けれど何となく)
安心できる。同じ場所に生きるからか、それとも綺麗さっぱりと決闘に破れてしまったからか。
「レア・ド・ボモン、この借りはいつか必ず返す」
「だから、気軽にレアと呼んでくださって大丈夫ですわよ? キリル侯爵様」
「なめて掛かっては破れた。そんな状態で気軽にはできんな」
「噂通り頑固ですわね」
彼女の手を握って地面から立ち上がる。もう剣を持つ前のような複雑で捩じられたような不快さは綺麗さっぱり晴れていた。雲が晴れたような気持ちだけが少しの鉄臭さと共に口の中に広がる。
しかし冷静になってみると驚きが薄れてゆき、悔しさだけが色鮮やかに浮上してきた。もしなめて掛からなかったらこんな結果にはなっていなかっただろう事は予想できる。
「もう一回だ。今のは綺麗な勝負とは言い難い」
「見た目で騙してきたとでも仰るのですか?」
その場で軽やかなステップを踏んでドレスを見せびらかす動作は、流石バレーの本場フランスの人といった所だった。鍛えこまれた動は美しくしかし軸がぶれない。
「賭けはもうどうでも良い。ちゃんと本気で決着を付けねば納得がいかないんだ!」
「んん、確かにわたくしとしても手応えがないと言いますか。でも一様騎士様に勝ったのは事実です。ここで辞めておいた方が得かなーとか、思っちゃいますけど?」
何と言うあからさまな態度なのだろうか。レアは横目に、わざとらしくレイピアを鞘に納めて背中を向けやがった。しかし俺は自分が騎士たりえるという事を、確かな誇りを抱いていると証明しなければいけない。
「フランス出身ならワインには定評があるだろう。ならば、ウォッカでどうだ!」
「先の勝負を含めて二本分ですわよ?」
「そうこなくちゃ! 折角だからズボンを貸してやる。そのドレスじゃやりにくいだろう?」
「配慮ありがたく思いますが、これはわたくしの制服にございます」
俺達は数十、数百回と疲れ果てるまでに我々が剣をぶつけた。それは子供の頃に戻ったようで、純粋な楽しさと心通わせている安心感を与えてくれる時間だった。
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