夜明けに実る、アルストロメリア(一輪)

漏れ出る吐息は白く、粉塵で覆われた天は真っ黒に染まった。他人の物で染めた手は赤く、ロシアの血が流れる瞳だけが青い。明るい蝋燭の灯りの元で、暗い寒さは空腹を用いて人の本質を試す。

 指の先が凍り付いて砕かれていく一九四二年の秋。都市に繋がる全ての道はことごとく潰され、数えきれない人々が飢えと銃弾によって体温を失った。国からの補給は不味いパン数枚のみ。それすらも既に半分がおかくず混じりのゴミと化している。

 何時死ぬか分からない恐怖に如何なる聖人の精神をも粉砕された。倒れそうな空腹はやせ細ったネズミをしゃぶらせ、酒なしでは削られていく希望にすら酔えない。人類が積み重ねて作った、絵画と文字列の数々は一燃えくさとなり下がり、同種食いをしてしまった連中が射殺されたというニュースが人口伝えに耳に届いてきた。いよいよ残された道は他人の物を奪う事だけだと誰もが思ったはずだろう。

 奪い取る事こそ正義であり、抗えないのは非力の証明でしかないのだと。きっと誰もが思ったはずだ。いや、思っていた。


――――


 銃口を目に男は俺の足首にしがみ付いてきた。

「本当にもう食べる物は何もないのです! 家内も、子も腹を空かせているます!」

 寒くて腹が減った。

 周囲の家を燃やしてでも暖かい場所に居たいと願い、人を殺してでも食べ物を探し求めるようになるに時間は余り掛からなかった。もう死んでも良いとさえ思ったのにも、次の日には略奪してでも腹を満たしたくなる。

「すまないが、そんな事実は俺の知った事じゃない」

 目を細ませて俺は銃で男の足を打ち抜く。悲鳴が町中に轟き、赤い鮮血が床に流れて絨毯を染めた。しかしそんな物は煮ても焼いても食べられない。

 隣部屋からタンスが開かれ、小汚い少女が男に抱き着いてきた。開かれたタンスには幾つかの缶詰が積んである。

「あるじゃないか。残されたのがあるじゃないか! あんた良い人だな。とても助かるよ」

 感謝の言葉を送って缶詰に手を伸ばすとタンスの中にいた女性が腕にしがみ付いてきた。それに対して勝手に拳が振るわれる。手袋越しなのにも、手の甲に嫌な感触が染みついた。反射的に擦ってみるが、べっとりとついた感覚を薄める事はできない。

「抵抗するな。弾丸だってただじゃないんだ。それに人の肉は食べない主義なんでな」

 連中を背に家から出ると砲口と銃口から立つ煙と街を燃やし尽くした灰が天を覆っていた。昼の天は暗く、あまねく地上を照らしていた太陽は姿も見えない。

 神に祈れば爆撃が落ち、祈らなければ流れ弾に撃たれ、恐怖に振えよう物なら全てを奪われる。こんな世界で俺のような力しか頼る事のない人間にできるのは他人の品を奪い取る事だけだ。

 そう、こうやって生きるしかできない運命にある。こうやって生きて、こうやって死ぬだけの定めにあるのだ。

(だから仕方ない。仕方ない事だ)

「殺してやる。次は問答無用で撃つ」

 悪態をつきながら車に戻っていくと開けた道に、赤ずんだカーキ色のロングコートを着込んだ一人の男が立っていた。長い髭を生やし、血の付いた斧が握られている。白く色褪せた髪に光のない黒い瞳は威圧感を宿していた。

 毎日顔を合わせているにも血の跡に圧倒される。そんな俺にアブラモフさんの方が崎に気付いた。

「気持ちのいい朝だなユスチン」

「アブラモフさん、どうでしたか?」

「薬品とか色々と。そっちの収獲はあったか?」

「食べ物と弾薬です。 まだ食べられそうな瓶詰も幾つか。ですが、残念ながらもこの近辺は漁り終えてしまったのか知れません」

 サーヴィチ・アブラモフ。現在俺が身を置いている集団、言わば強盗団の団長とも呼べる方だ。包囲戦開始から数ヵ月、数万が餓死する中で俺が生きられるのもこの人のお陰だろう。

「そうだな。また連中が性懲りもなく何処かから品々を溜め込むまで対象を変えるとしよう」

 アブラモフさんは取り出した地図に、皮手袋に付いた血で文字を書く。日付と読めない文字の羅列だが、文盲の俺なんかが見た所で理解もできまい。

 アジトに戻っていく車の中ではラジオが流れていた。音声の状態が酷いせいでなんの話を呟いているのやら見当もつかなかったが、助手席では常にアジト、国軍、敵軍の位置までを復習して地図を修正していく。

「興味でもあるのか?」

 横目で見やっていたのが気に障ったのか、こっちを見る事なく一言を放った。俺は軽く首を横に振って運転に集中する。

「いいえ、どうせ俺なんかに見ても分かりませんから」

「そうか。賢明な選択だ」

 幾ら車輪を回そうが晴れた天は出てこなかった。前が見えるだけの暗闇を走り抜けていくと何処もかしこも壊れかけている。人が心を休ませるべき家も、腹を満たすべき補給線も、寒さを耐えさせてくれる意志と共に。

 ハンドルを握っていると頭の中が少しずつ雲っていった。余計な考え、解決しない悩み、改善できない現実、そんな諸々が言葉では表せないイラつきになっていく。

 アジトに戻って不味い食事を終えると、その感覚は少し和らいだ。

「なんだってんだ一体。俺は、俺に出来る事をしただけだろうが、何も間違っちゃいないはずだぞ」

 「クソが」と汚い単語が後を追って出てきた。意図したのではなく、腹の底から込み上げてきてしまったのである。

 アブラモフさんが無視するように言い聞かせ、仲間の多くが目を逸らせたその感覚に俺は未だ未練が残っていた。「罪悪感」等と言われる余計な感覚に未だ未練が残っている。


 数日が経った。終わらないようで、寧ろ我が国の軍が押されつつある包囲の状況にアジトの位置を変える事に決める。実に今、最後にこの周辺で回収できる限りを探ろうと話し合っていた。

「ユスチン」

「はい」

「北上するに当たって君とアガーポフにはアストリアホテル周辺捜索を任せたい」

 人差し指が叩いた地図の場所を見ると何となく位置を把握できた。文字は何一つ読めないが、地形や景観を描く。

「了解です。終わり次第そちらに向かいましょう」

「頼む。勿論だが銃と食料を持っていくのは忘れないように、間違っても軍に掴まれるなんて事はないように心がけろ」

「そのような事は」

「ない。という断定は控えろユスチン。油断の前にはいつだって断言がつき物だ」


 瓦礫を踏んで進む度に車が軽く跳ねた。尻から背筋を伝って全身にその衝撃に打たれる 。最初は尻の痣で済むが、段々無視できないくらいイラつかせる厄介な問題だ。

「ホテルか。戦争前まで泊った事もないのにな」

 アガーポフはいつもの笑みを浮かべていた。奴は目だけ笑っていないのにも、その唇の端を落す事がない。面と向かって話をしているとどうも気味が悪く、けれどどことなく馴染みのある男であった。

「皆同じだろうよ。俺だって同じさ」

「いっその事アジトにしてしまえば済む話じゃないか?」

「それはアブラモフさんが決定すべき部分だ。何かアジトには適しない理由があるのかも知れん。見当すら付かないがな」

「確かにごろつき共がたむろっている可能性は高そうだぜ。その時はこのアガーポフ様が全員撃ち殺してやるけどな」

 自分の小銃の手入れをしながら笑みを深めるが、未だに目は笑っていない。まるで顔の上下が別れてしまったような、若しくは目だけが違う景色を見てしまっているような、不思議とそんな風に感じた。俺は何も返す事なくウォッカを飲んで酒瓶を渡す。

「ありがとう。私の分は飲み干しちまって困っていた所だったからよ」

「寒いからな今年の夜は」

「いつだって夜は寒くて当たり前だろうよ」

 思わず昔話でも取り出す所だった。何気なく「どんな風に生きていたんだ」等と、「戦争が起きる前はどうだった?」等と口走ってしまいそうになったのである。そんな物、もう今更思い出した所で死にたくなるだけだというのに。

「まあな。夜はな」


 ホテルを回ってみたが既に役に立ちそうな物は何も残っていなかった。住み着いている連中を数人始末したが、それ以外何ともない。幾らか予想はできていた事だ。でなければこの周辺をたった二人で調べろという事も先ずなかっただろう。

「抜け殻、若しくは残骸だな。少なくても私には役に立ちそうな物が見当たらねぇぜ」

「立派な建物なのにな。それにこの周辺に言える事だが砲撃の被害も少ない」

 八つ当たりでもするかのように壊れた残骸を蹴ったり、何でもない瓦礫を転がしながらアガーポフが舌を打った。

「確かに。この近くだと崩れても可笑しくはないんだが……ん?」

 一旦アジトの方に帰ろう。そう言いだそうとしていた時、俺達は二人同時にある建物に目を向けた。何をする場所かは分からないが随分と立派な煉瓦の建物に、回りは植林だらけの建物である。窓も全て木の板で塞がれていて、まるで誰かが意図的に要塞化したように思えた。

 遠くから様子を見ていると地面にトラックが通ったタイヤの跡が見える。しかも落ち葉を踏んで、また積もっては踏んでを最近まで繰り返した跡だ。

「何かを運んでいるとか、運び出しているとかか?」

「分からん。でも胡散臭いのは確かだぜユスチン。以外と食料貯蔵庫だったりしてな」

「いや、流石に軍の施設に警備一人ないというのはあり得ないと思うが」

 それくらい分かる。気になるのは一体誰がこんな場所に陣取って閉じこもるかという点だ。

「何であれ持ち帰る収獲がないというのも味気ない。何かは持って帰ろう。何かはな」

「それには同意するよ」

 少し考えていると腹から音がした。腹が減っている。そのたった一つが全ての思考を遮って首を縦に振らせた。

「何だって良い。人がいれば、きっと食べ物もある」

 何処もかしこも木の板が打ち付けられているおかげで俺達は歩いて建物まで向かう事ができた。砲撃や流れ弾等でガラスが割れるのは当然として、完全に防ぐというのも極端だ。が、寒い風を避ける為の措置だというなら納得はいく。

 のだが、他のどの家とも異なるのが一点。木の板を剥いで直ぐ、俺達は同時に妙な所に気付く。

「『暖かい風だ』」

 火を浴びているような暖かさでは勿論ない。寧ろそれで言えば寒いくらいだが、外と比べ温度が格段に高いという話だ。廊下には誰もいないけど人が通った跡は真新しく、それ等はこの場所で身構えている連中の存在を強く主張している。

(見回りの跡、とするとやはり何かを守っている?)

 内部に入ったのにも閉鎖された空間で足音も話し声も聞こえない。得体の知れない存在に足を引っ張られているような、いつもの感覚に襲われながらも最大限注意を緩めず一番近くの部屋に足を運んだ。

「鍵が掛かっているな。撃って壊すか」

「音が大きすぎる。一様ピッキングを試してからにしよう」

 銃声は大きい。実際、見えもしない前線での爆音は数キロも離れている家の中でも聞こえるくらいだ。ここで銃を撃てば近所の地下にまで響くだろう。

 アジトにいた強盗から学んだ通りに扉を開いて倉庫に足を踏み入れた。そして広がる光景を目にした瞬間、耐えがたい程の希望に身を震わせる。

「な、何じゃここは。どういう事だよこれりゃ。夢じゃないよなユスチン!」

「この都市に、こんな場所が残っているだと?」

 そこには見渡す限りの作物が保管されていた。芋、トウモロコシ、さつま芋とそれ以外でも数十の、名前も知らないような食べ物が箱詰めにされている。それこそ空いている棚がないくらいに。

「凄い。全部食べられる物なのか? 」

「一部でも良いからよ。いや、いっそ箱ごと持ち帰ろうぜ。ここに来たのは大正解だった!」

 食料貯蔵庫に見えるそこで、残りの箱を覆っていた布を捲ってみた。どの箱にもなんらかの植物が一杯である。

 そんな時背中の方から足音がした。癖のように振り向くとそこには一人の男が充血した目でこちらに銃を向けている。

「アガーポフ!」

 箱の中を確かめながら喜びに目を笑わせていた奴は、その次の瞬間銃弾を頭に撃ち込まれた。

 即座にリボルバーを向けるべく男の方に目をやると、いつの間にか投げつけられた木材目の前に迫っている。完全な油断からの衝撃が頭を揺さぶり、一瞬で床が近づいてきた。視野が九十度回転し、全てが大きく傾いて行く。

「貴様等は、一体……」

 額からの血で赤く染った視界を二人の男が立ち塞いだ。俺は落したリボルバーに手を伸ばしたが、一人がこちらを見下ろしながらそれを取っていく。

「自分はただの研究者ですよ。今は無職に近い気もしますが、心だけは満ちていますとも。では死なない程度にお願いします」

「慣れない事をするのは良くないが、手加減してみるさ」

 状況を把握する暇もなく、振り下ろされた銃床に頭を殴られた。それを認知できて直ぐ、真っ暗な世界に突き落とされる。

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