夜明けに実る、アルストロメリア(二輪)
凡そまともな思考能力を取り戻せた時には、既に薄暗い裏路地で虫のように生き伸びていた。捨てられた家を転々とし、傷つけて物を奪って生きてきたのである。
俺にはそれ以外の方法が分からなかった。誰も教えてくれなかったし、周囲の大人も皆同じだったのだろう。
いつも裕福に生きて物を奪われる役と、いつも貧乏で物を奪う役がいる。そうだとばかり思っていた。物が何処から来て誰が作るのかという考えには至れず、そこに至るだけの知識もなかったのだ。
「寒い。腹が減った」
始めて周囲を真似て発音できた言葉だった。感覚がなくなった肌が割れて血が滲み出るのが「寒い」で、目に見える物なら石ころでもそのまま口にしてしまうのが「腹が減った」である。
その二つを忘れられるのなら、呟かずに済むのなら他は何でもよかった。他の事なんてどうでも、良かったはずだ。
目を覚ますと数人に囲まれた状態で手足を縛られていた。縄は固いが手慣れていない感じで、そのままでも骨が外れてしまうくらい力任せの結び方をしている。
「強盗野郎が目を覚ましたぞ」
「そんな言い方は辞めておきましょう。彼にも名前がありますから」
「死なないで欲しいという気持ちで手加減したんだが、それでもこんな早く起きる物なのか」
珍しい物でも見るように見やってくるも、その全員が憔悴していた。一体どれ程の間を凌いだのか分からないが、近い内に道端で死んでしまう手前の様子である。
「筋合いもありませんが、乱暴を働いた事は詫びましょう。私はこのパブロフスク実験所の現所長を勤めさせて頂いているニコライ・イワノフと申します。貴方の名前はなんですか?」
汚れた背広をきちんと整えた、淡々としている印象の男だった。低いながらもゆったりとした声は人を落ち着かせる力がある。だが、そんな事はどうでも良い。俺の目には未だあの部屋で見た食べ物が焼き付いてあるのだから。
「一体ここは何処だ。あの大量の食料はなんだ。まさか溜め込んでいるというのか?」
「食料という表現は少し間違っていますが、溜め込んでいるのは事実です。この実験所はその為の保管所として現在維持されているのですから」
「ニコライ所長、強盗野郎にそこまで教える必要はありません!」
「まあまあ、彼は話が通じる人のようです。先ずは会話をするべきでしょう。少なくともこの状況で齧りついてこない。人間として最低限の自制心はある方だと見受けられます」
所長と呼ばれる男は微笑よりも薄い笑みを浮かばせながら的外れな事を周囲に説いた。俺に取っては好都合だが、言い方はかなりイラつく。
(いや、こんな状況じゃ殺されないだけでもありがたい事か)
「良くもあれだけ集められた物だな。溜め込んでいる物をこの人員で分け合えば、確かに終戦まで持ち応えられそうだ」
俺がそう言うと突然そこにいた全員が笑みを零した。失笑に苦笑に微笑に、それでも声を出して笑う者はいない。首を傾げているとニコライ・イワノフは訳の分からない事を言い出す。
「私達はあれ等に手は出しませんとも。決してあの種達を口にする事はありません」
「なに?」
心底何を言っているのか分からない。食べ物を溜め込んで食べない等とバカみたいな事をする理由が何処にあるというのか。
「売って金にしても、使い道がないはずだが?」
「売りもしません」
「なに?」
訳が分からない。
その場の皆が腹を空かせているのにも食料を喰わない等、もしかすると餓死で自殺を測っているとでも言うのだろうか。とすれば愚かの極みだと誰もが嘲笑うはずだ。銃があるのにわざわざ腹を空かせてから死のうとするとは、随分と頭の可笑しな場所に迷い込んでしまったらしい。
得体の知らない連中に妙な拒否感を感じていた矢先、またしてもイワノフというやらがいかれた事を言い出す。
「ここでは現在三十万に至る種を保管しています。元は三十七万はいたのですけど。かなりの数が失われてしまいました。しかし私達は残りを守り、保存し、後世に届ける為にここにあるのです」
「後世に届ける?」
「はい。後々この種はソ連の、引いては世界中の食料問題を解決してくれるかも知れませんからね。希望の種、少し恥ずかしいですが大袈裟に言えばそういう事です」
皆がそんな戯言に頷いていた。きっと冷や汗を流していたのは俺だけだろう。
(妙な集団ではない。ここは本当の狂人達の集いだった!)
外では数万人が現在進行形で飢え死んでいく。ここに来るまでの道を歩けば死体なんて積もる程見つかるはずだ。目の前の憔悴した連中も、どうみても数日で倒れて死にそうに見える。なのに一体何を言っているというのか、まるで現実が見えていない。
「これでもう質問はないのでしょうか」
俺は口を噤んだ。狂人共に対して迂闊に口走ってしまえば殺されかねない。そんな空気を感じ取ったのである。
「では本題に移りましょう。実は現在深刻な問題が生じまして、人員の不足で私達には今ある種を守り切れない事が判明されました。最善を尽くしても足りません。そこで貴方に種を一緒に守って欲しいのです」
「所長!?」
数人が騒めき、顔を曇らせたが、俺には大きなチャンスだった。縄さえ解ければこんな狂人共は殺して脱出できる。
「どうですか?」
「も、勿論俺に出来る事なら協力させて貰う」
「ありがとうございます! やはり貴方は良い人でした。ではこれを」
イワノフは声を上げて、何かの箱を俺の背中にぶら下げた。そこからは短い縄が繋がっていて、端には取っ手に見える鉄の棒が結ばれている。
「これは一体」
「中には爆薬が詰め込まれています。棒を引っ張ったり、落した瞬間に中から引火して爆発する仕組みです。簡単に言えば簡易手榴弾ですね」
「何だって!?」
「勿論貴方様が約束をたがえる事はないと思いますが、私達にも保険が必要です。ご理解ください。寝る時は解除してから拘束して、また取り付けるという事にしましょう」
背中の箱から来る重みは砂のようで、確かに同じ量の爆薬に感じれた。本当はどうかが重要なのではない。もし本当なら狂人一人の行動一つに生死が別れるかも知れないという事だ。
「貴方の銃です。どうか間違った使い方をしないよう心がけてください」
リボルバーを手に握らされて尚指一本動かせない。震えながらも男の方を見上げると、イワノフとか言う狂人は先程とはまるで違う目をしていた。憔悴した様子で、殺気すら感じる真っ直ぐな瞳と力強い視線、自信に満ちた表情、本能的に察してしまう。嘘など混じっていない、背中に背負わされているのは本物の爆弾だ。
「これから宜しくお願いします」
数週が経ったが俺は何一つ動きを取れず、拷問に近い真似をされていた。毎日研究者と倉庫を巡りながら目の前にあるのにも食べれない食料を見つめていなければならない。
(手が届く距離、いや手が届くのにも、クソ!)
「不満そうな表情だなユスチンとやら」
今日は特に腹立たしい日であった。ドミトリー・セルゲイェヴィチ・イワノフ、眼鏡をかけた如何にも研究者という顔の男は稲の倉庫を管理していて、ここは手の届く位置に数万を軽く超える粒が保管されている。
「この命綱を手から放す気もないし、腹が減っている人間には今やっている事が拷問に近いという事実を否定する気もないが、それでも君は堂々としていて良いんだ」
俺と会話を持ちかける数少ない研究者の一人であるドミトリーは掠れていながらも明るい声を発していた。何処から来る元気なのか分からないが、この状況では恐ろしく聞こえるだけである。
「未来の為に生きれるのだからとか、そういう話なら聞き飽きたぞ狂信徒が。今飢え死にしている人々が数万はいる。その全をて見捨てているんだ」
「酷い言われ様だな―。第一そういう人々から強盗してた君に言われる筋合いはないと思うんだけどね」
「それは」
反論できなかった。この数日で分かった事だが、こいつ等はとてつもなく腹立つ連中である。何を言おうとも拳ではなく言葉で人を殴りつけてくるのだ。身体の痛みには慣れているつもりだったが、言葉には表せない暗い気持ちになってしまう。強盗する時と同じ、人を殴る瞬間と同じ感覚を想起させるのだ。
「すまない。もしかして痛い所を突いてしまったかな?」
「生きる為に仕方なくやった事だ」
「そうか。仕方がなかったなら、仕方がないな」
仕方なかった。だからやっただけだ。何も悪くはないはずだろう。寧ろそうしない方があほうだ。何も奪わないでいるから、何かを奪われる。
「そんな仏頂面しないでくれよ。すまなかったって」
「別にしてねぇ」
舌をうつと奴は仕事に戻りながらクスクスと笑い始めた。悪かった気分がより一層悪くなる。
「何笑ってんだ。そんなに滑稽か?」
「まあな。いい歳した奴が子供みたいに拗ねた顔してやんの」
「第一目標が決まった。絶対に殺してやる」
手を出せないとして徹底的に舐られていた。心の中の言葉をそのまま吐き出しながらリボルバーのゴングを引く。しかし奴は横目に見ずに作業を続けた。
「ちっ」
「なぁ、君夢はあるかな?」
「夢?」
「そうさ。夢はないか?」
突然の切り出し、しかしいつもこんな下らない事を聞いてくる。気持ち悪い上から目線で、クソの役にも立たない事柄を喋ってくるのだ。退屈しているならトランプカードでも準備して欲しい。
「そうだな。この倉庫にある稲で飯をたらふく食う事とか夢かな」
挑発するつもりで言うと眼鏡野郎は声を出して笑いだした。
「良いな。それは良い夢だ。いつかここにある全てを使ってこの僕が飯を作ってやろう。ソ連の土地に合う品種改良に成功してからだがな!」
「それはありがたいな。今すぐぶっ殺してやりたくなる」
どいつもこいつも研究者の癖して理解力に乏しい奴ばかりである。
「そんなあんたはどんな夢があるんだ? 言わなくても予想はつくがな」
「君の予想通りさ。ここにある稲作でソ連でも簡単に栽培できる稲を作って、誰も飢えない国にする。そうだな。例えば腹を空かせた子供のない国から作るとしようかな」
聞き飽きた、臭い言葉だった。
「最後まで種を守ってくれればの話だがユスチン。君には一生分の米をあげられると思うんだよ」
「ここいいるだけでも一生分に見えるが?」
「全然足りないし十年も保てない。それに君の妻や子にも一生分となるくらいの量にできる自信があるね」
「家族はないな」
「ならできてからの一生分だ」
「そんな量がでるのか?」
「当たり前さ。見た事があるんだ。この粒粒がたわわに実った水田を。風の形を見せてくれる黄金色の畑を。きっといつかあの光景を我が国でも見れるようになる!」
(またそれかよ)
何時か、後に、戦後、十数年経てば、今腹が減っているのにも見えもしない未来の事ばかりを語りやがる。
「良し。チェックは終了だ。来週にまた頼むよ」
「ようやく終わりか」
数千を超える袋を全部確認しやがってからに、凄まじい時間がかかった。適当に見れば分からないのか、一々袋を手に取って異常はないか確かめる。案外学者という連中も能がない。
「他の研究者の前では喧嘩になりそうで控えるがね。芋類、トウモロコシ、麦と色んな食用作物があるが、断然人間に必要な分を確保している作物は稲だとも。でなくちゃ僕は研究対象を変えたよ。育てるのにかなりの水源が必要になるが、それでも東洋では古来より数百万を養った程の作物なんだ」
倉庫を閉じてから眼鏡野郎は稲の事を語った。全く興味がなくて片耳で聞き流すが、これがとてつもなく鬱陶しい。真上まで昇っていた太陽が傾いて、夜が夕日に染まるまで奴は口を一回も休まなかった。こっちは腹が減って倒れそうだというのに、何処から気力をだしているのかが謎である。。
「このパブロフスク実験所を立ち上げたニコライ・バビロフ博士は僕が最も尊敬する植物学者でね。ある両足付いた、歩くゴミのせいで現在はここを離れていらっしゃるが釈放は近い。いずれここに保管されている種がソ連を救えば全世界が真の研究者が誰かを思い知るだろうさ」
「も、もう喋らない方が良いぞ。喋り過ぎると死にかねない。頼むから黙っていてくれ、いや、ください」
研究所内を巡回しながらも数時間は続く話に俺の方が先に気力尽きた。どうにか止めたくて両手を合わせる。何故口を動かしているのは相手なのにこっちが苦しくなるのか。
「確かに喉が乾いたな。その事でだが、君は酒は何が好きかな? 僕は断然ビールでね。度数が低くて体温は上がらないのだが、歴史が長いだけあって味の整えも良い。それに」
「お願いだから辞めてくれ!」
けれど奴は喋るのを辞めなかった。本気で誰かの口を塞いたくなったのは始めてである。
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