夜明けに実る、アルストロメリア(三輪)

 研究所で見た奴等は総じて十三人くらいだった。その中でも顔を数回と合わせたのは半分だけ。言葉を交わしたのは実験所の所長を含めた三人だけである。連中も、俺のような人間と出くわすのを余り良しとしなかったのかも知れない。

「随分と貴様もやせ細った物だな犯罪者」

「お陰様だ」

 エフゲニー・ボルフ、巨躯に見合う大きな手を持ったその男は一ヵ所から絶対に動く事がなかった。中になにが入っているのかすら教えてくれず、ただずっと倉庫の前で銃を握りしめて守っている。

「そのまま死んで土に帰る事を深く願っている」

 そしてかなり敵対心を露わにしてくる奴でもあった。

(この方が喋り続ける眼鏡野郎より増しだがな)

「一様俺は協力をしてやっているのだが? ボルフ、あんた仮にも教養ある知識人様なら言う事があるんじゃないか?」

「意味のある、もしかすると人類の歴史を変えられるかも知れない偉業に、ごろつきの強盗を協力させてやっているんだ。所長のお決めになった事でないなら、貴様のような悪党は処刑している」

「いつかあんたが死ねば、この倉庫の中にある種は全て私が燃やしてやる」

 そう言うと鋭い視線を向けてきた。手にしたモシンナガンの銃口が徐々に上ってくる。

「冗談だよ。こんな至近距離で爆発が起きるのは好ましくないはずだろ?」

「勿論、こっちも冗談だ」

 大男はそう言って銃身についた埃を拭き取って見せた。だが銃口がずっとこちらの額を狙っているせいで安心できない。

 気を張っているとあっという間に腹が減ってきた。研究所の連中は軍から補給されたパンだけで生きる。俺もまたその生活を強いられている訳だが、全然足りない。酒を寄越してくれるのは幸いだが、やせ細ったネズミすら出ない場所ではとても耐えられない。

「ここでは余った食料は食べないのか?」

「余った食料はない。軍からの補給は皆で分けて食べたはずだ」

「倉庫にある方だ」

「倉庫にあるのは種と標本だけだ。食料はない」

「同じだろうが」

「全く異なる物だ。食料は「食用にする物」を差す。中にあるのは食用ではない。つまり食料にはなりえない。食料について語るなら定義を調べて来い」

 身体に取りつけられた爆弾が無ければ殴った。最低でも鈍器で頭を殴りつけた事だろう。

「ならその種と標本に余り物はないのか?」

「ない」

「あんなに沢山あったじゃないか。数粒、一粒食べても良いはずだが?」

 どの倉庫に入っても同じだった。俺の入ってみた六つの倉庫全てにあらゆる作物が瓶や袋にごまんと詰まっている。

「ダメだ。全て必要な量で、必要不可欠な最低限度だ。これから冬になる。栽培もできん」

「全部一粒ずつ揃えるだけで良いんじゃないのか?」

「どれが発芽して確実に実るか分からない。一粒欠けた事で、この先の研究に支障をきたす可能性がある。もしそれが重要な鍵となる植物だったとしたら、代償は数百万の命だ」

「後ろの倉庫にも、そんな物が入っているのか?」

「他の研究者の前では言えないが、恐らくは最も重要な品目達だ」

 確認できないんじゃ何が保管されているか分からないが、一体どれ程の作物が入っているというのか。

(あの眼鏡野郎が言う数百万を生かす稲よりも凄い何かか)

 ふと稲の入れてある袋の事を思い出し、そこに張ってあったラベルの絵のような字を床に書いてみた。うろ覚えだが何となく真似てみる。

「何て読むか分かるか?」

「知らん。ソ連の文字じゃないのは確かだが、筆記体って感じでもないし、イギリスのアルファベットでもない。貴様ソ連出身じゃないのか?」

「そんなはずはない。あの稲が入っている袋についてあった文字だ。ちょっとうろ覚えだが」

「字が書けないのか?」

「そもそも読めもしないが」

 奴は口を開けて一瞬呆けた。すると「そんな事もあるか」と明らかにこっちに聞こえる大きさで呟く。

「俺はあんたみたいな研究者でもないんだ。字が読めない人なんて寧ろ多いくらいだろ」

「まあそうだが、この研究所にはなかったからな。忘れていただけだ。貴様のような犯罪者は読めなくて当然だな」

「読める奴もいる! 俺が読めないだけだ!」

「分かったから熱くなるな。当然字が読めると勝手に勘違いしていただけだ」

 拳を握りしめたその時、比較的近い場所から着弾音がした。二人同時に廊下に伏せて、何処からの音なのかを把握する。

「この近所は余り爆撃が落ちないんじゃなかったのか?」

「「余り」と言っただけで「落ちない」とは言ってない。それにここは研究所の一番外側だ。爆撃に見舞われる確率はほんの少し高い。破片もたまに飛んでくるしな。窓を塞いだのは冷気を塞ぐ為もあったが、基本的には爆発の衝撃で割れるからという理由が一番大きいんだ」

「危ないじゃないか!」

 死にそうだから協力しているのに、砲弾で死んだら元も子もない。

「そうだが?」

「一旦避難して来れば良いだけの」「ダメだ! ここを離れるのは許されない!」

 話を終える前に奴は遠くからの爆撃に似た大声を叫びながら俺の頭に銃口を当てた。咄嗟にこっちもリボルバーを突き出したが、怯えた素振りも見せない。

「なんなんだいきなり」

「あの倉庫は最も重要な品物が保管されていると言ったはずだ。貴様みたいな犯罪者が来て、盗んでいってしまったらどうする!」

 上空からの爆撃が地を揺らした。数分間振動と轟音が続き、本来の何倍もの長さに感じる時間が恐怖を煽る。

「熱くなるなよ。先ず命だろ」

「先ず命だからこそだ。ここを離れる事はできない」

 銃口を互いに向けたまま睨み合っていると、終いには廊下の先で砲弾の破片が木の板と窓枠をぶち壊してきた。轟音が建物中に鳴り響き、廊下に吹き荒れる冷たい風と共に小石が襲ってくる。着弾してはいないようだが、破片が飛んできたのだろう。

「まだ倉庫は無事だ。が、しかしそれは問題じゃない」

「当たり前だろうが! 今爆発に巻き込まれる所だったんだぞ!」

「違う。そうじゃない。壁が崩れて賊が侵入する可能性が高くなった。さっさと補強するぞ」

「はぁ?」

 奴は身体を覆った土埃を叩き落とす事もなく、崩れた壁に駆けつけて行った。俺は文句をいう間も与えられず連れていかれる。

「遅れての爆撃が落ちてくるかも知れないんだぞ!」

「貴様の言う通りだ! 近くにもう一度爆撃が落ちて倉庫が壁ごと破壊されるかも知れん。早速取り掛かろう」

「そういう意味じゃなく」

(頭可笑しいにも程があるだろ。まだ爆撃は終わってないんだぞ!?)

 遠くの上空からエンジン音が降り注いだ。まだ地面は揺れていて、爆発音も近い。にも、グレイベルは迷う事なく俺の背中に繋がっている縄を手放して駆けつける。どうにか落ちる寸前に受け止めた物の、後一歩で爆死する所だった。

「俺を殺す気か!」

「さっさと資材を集めろ。空いた穴を防げる分が必要だ。小さい物だと爆発時に寧ろ危険になるぞ!」

 聞こえてもいないのか、外に捨てられていた大きな鉄板等をあちらこちらから引っ張ってくる。

 しかしその必死な態度が仇になった。俺に取って凡そ一ヵ月ぶりに訪れた、もう来ないかも知れない機会を作ってしまったのである。

 (逃げよう。ここに居ては命が幾つあっても足りない)そう思った矢先、踵を返して資材を集めに取り掛かった。数人の話声が工具を揃えて駆けつけてきたからだ。

 数週間前なら良かった。そのまま逃げても別の地域まではいけただろう。が、こんな腹を空かせた状態の徒歩では恐らく半日ももたない

 俺はようやく訪れた機会を唇を噛み締めて手放すしかなかった。

「壁が崩れているぞ!」「直せ。今すぐに!」

 そんな時だった。遠くから目に捉えられない程に速い何かが近くに落ちてくる。流星のような爆薬の塊が瞬間的に地面を揺さぶり、俺は轟音に打ちのめされた。真っ白に染まった視界が戻って、自分が再び地面にぶっ倒れていると気付くには少々時間を要する。

「な、なんだ一体。砲撃、かなり近い」

 今までとは比較にならないくらい近かった。立ち上がつてみると実験所周りの森に大きな穴が出来ている。そこには数本の木々を完全に消し飛ばし、地面を刳り抜いたような痕だけが残っていた。

「あのいけ好かない野郎はどうしたんだ?」

 土埃が寒い風に乗って晴れていく。その先では奴が資材を両腕に抱えたまま地面に俯せていた。背中に大きな砲弾の破片を刺されたままに。

「ア」

 目に見える程の破片が深く刺さってしまっている。抜いたら出血で死に、そのままにしても助かるはずがなかった。ここに凄い医者と薬品やらがあればともかく、食料もない場所に何があるというのか。

 だがしかし、奴は膝を震わせながらも立ち上がった。集めた資材を抱えたまま、崩れた壁の方へと足を進ませる。

「バカな。あの傷で?」

 けれど数歩動いて、予想通り膝から崩れ落ちてしまった。駆けつけてみると、その瞬間に大きな手が胸倉を掴んでくる。しがみ付くような強い指の力、そこには確かに息絶える寸前の必死な意志が宿っていた。

「守れ。倉庫にある標本を。もっと安全な場所に、壁を補強してでも!」

「倉庫何て気にしている場合か! 今死ぬかも知れないんだぞテメェーは! この血でもどうにか止めないと」

「死んでも、活かさねばならない。数十数百数千万、億に至る人々の為に、未来の為に。早く標本を、標本を守らね……ば」

 両腕にあった資材を俺に渡して、大男の全身から力が抜けていく。しがみついていた指も剥がれ、意志の込められていた瞳は光を失った。やがて冷たく凍えた地面の上に背中を当て、白い大地を真っ赤に染めていく。

 他の連中が着いたのはその後であった。結局大男の最後の言葉を聞けたのは、誰でもない俺だけなのである。

「ボルフ、大丈夫か!」

「寄りにもよって砲弾がこんな近くに落ちるとは!」

 人が死ぬ姿を見るのは、決して始めての経験ではなかった。飢えて死に、銃に撃たれて死に、この手で殺した事だってある。のにも、そのどれとも違った感覚だけが残っていた。まるで奴の意志が手についた血から伝染してしまったように、べっとりとして静かに伝わってくる。

(何にそんな必死こいてんだテメェは)

 人が死んだ。ただ飢えを解決する為に他人の物を奪うような強盗でもなく、生きる事を諦めて首を吊るした連中でもない。叶わないと誰もが思うであろう夢なんて抱きやがって、何かを守り続けていた「人」が死んだのだ。

「ボルフ、あんたこんな奴に任せるとか。頭悪いだろ」

 べっとりとついた血に、俺の身体が勝手に動きだす。駆けつけてきた研究員の連中から道具を奪い、夢中になって壁を塞ぎ始めたのだ。「何故」と自問自答を繰り返しながらも手を止める事ができなかった。

 自分の背中に付けていた爆弾から伸びている起爆装置が落ちている事に気付けたのはその後の事であった。

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