トレンチコートとジニア(二輪)

「63旅団リンカーンシャー連隊第8大隊、作戦の決行を準備せよ!」

 塹壕の中で我々は泥のと土の踏み台の上で息を潜んでいた。七月が始まった朝、私達もピリピリとした空気を纏わせては自分の腕時計を覗き込んでいる。

「何だお前緊張してるのか?」

「してるね。そりゃするさ」

 デールも私も隊を任された中隊長という、いわゆる上官の位置に立っていた。作戦と同時に一早く先頭に出なくてはならない。それは自然と死ぬ確立が倍増するという事を意味する。今までは運良く生き残れたが、今日もツキが舞い降りて来るかどうか、それとも神様からの使者が舞い降りてくださるかどうか、そこが肝心だ。

「テメェーは緊張してないのか?」

「勿論、若者達を率いる人間の一人としてはな」

「では兵士としては?」

「震えあがる足がもう10本は欲しいな。膝への負担が大きすぎる」

 聞こえるはずもない針の動く音が聞こえる、そんな気がした。拳銃を握る両手から手汗が滲みでて、まだ待機しているだけなのにも心臓が爆発しそうに脈打つ。突撃なんて一度や二度じゃないが、それでもこの視野が狭まって一直線になっちまうような、足元からじりじりと焦げていくような緊張感からは逃れられない。けれど、きっと俺という人間はこれから人を殺しに行こうという時に緊張すらしない人間とは口も利きたくないはずだ。

「爆撃が始まるぞ」

「あのクソったれの茨道でもどうにかしてくれよ」

 戦場の後方から数えきれない程の、大きな爆発音の津波が押し寄せてくる。それ等が運んでくる鉄の塊は秒を得ずに戦場に降り注ぎ始めた。雨、いや地面を抉ってひっくり返す数十キロの雹が戦場に降り注ぐ。

 応じて、敵もまた砲撃を開始した。砲撃が降り注ぐは「敵」の陣営、「敵」の塹壕ではない。「戦場」その物に降るのだ。敵の応戦意思が同じ雹になり、俺達の方へと鋭くも緞帳な牙を向いてくる。右に数百メートル向こうの塹壕にも爆撃が当たり、パニックに陥った新兵連中の喚きと、それを落ち着かせる怒鳴り声が叫ばれた。

砲弾が着弾すればその音は雷を遥かに上回り、人間等細かく粉砕するだろう。その雹は人間を荒っぽく引き千切り、到底五体を持っていた生き物には見えない布で包まれた肉にできる威力を持っていた。

 そしてそんな中でも時計の針は回り、分針が30分に至る。我々は一斉にホイッスルを口元に近づかせた。銃の銃口を敵軍の陣地に向け、少しでも恐怖を忘れられるように声を張る。

「『突撃!』」

一気に塹壕全体に、この戦場全体に数百を超えるホイッスルの音が鳴り響いた。

「『アァアア!!』」

ピークに達していた緊張を爆発させるように我々もまた叫びを上げながら塹壕の外へ跳びだす。泥と土と死骸を踏みしめ、塹壕内にある全ての人間が走り出した。

「生きる。必ず!」

 向こう側から一直線に並んだ閃光が光った。多少は我が軍の砲撃が通用したのか、弱まった雹の中で、点であった閃光は目に留められない速度の直線を描いてくる。戦場では直角に降る雨、ドイツ軍の機関銃だ。

 ただ銃を握りしめて一直線に密集して走る私達にはそれに対抗する手段がない。音速を超えてしまうその銃弾は、俺達が銃の引き金を引いたと気付く前に命を刈り取っていく。

「それでも、これくらいなら、まだ流れ弾も多い!」

 明らかに砲撃も、銃の洗礼も以前より弱まっていた。若しくは我が軍の総員で攻撃がどうしても分散されているのか。なんにしても死ぬ確立が下るなら喜び以外にない。

 しかし、唇の端が少し上がりそうになった私の目に入ったのは、殆ど解除されていない鉄条網バリゲート達だった。本来の計画通りなら現在敵の砲撃陣地を撃っている我が軍の砲撃が、ここを先に通りやすくしていなくてはならないというのに。

「話が違うぞ! 全く撤去されていない!」

「ど、どういたし……」

 「引き返しましょうか?」とでも言いたげな間抜け面で、小隊を引き行っている駆け出しが戦場で助言を求めて来やがった。思わず頭にきて、奴が来ているトレンチコートの襟元を掴みあげる。

「ぶち殺すぞテメェー! さっさと取り払え! それしかないだろうが!」

「は、はい!」

 着任して数日の人間に何を求めているのか。それでも、冷静でいられる状況でも無かった。幾ら敵軍の攻撃が弱まったとは言え

「っ!」

 先程の小隊長がいた場所に砲撃が落ちる。大きな衝撃に私は泥の上で膝を折る。天を見上げれば、先程とは比較にもならない数の砲撃が点となっていた。そしてそれを中隊に伝える暇もなく、雹は勢いを増す。

「中隊長!」

「屈め! 総員匍匐前進し、できる限りの鉄条網を除去せよ!」

 命令を下している私が、まるでバカみたいに感じた。部下も命令に従うべく鉄線カッターを取り出すが、一層厚くなった機関銃の弾幕は隙を与えてはくれない。いつの間にかの軍帽が吹き飛ばされたと気付いた時には、もう中隊の6割以上が見当たらなかった。完全に壊滅されている。

「な、何だこれは、話が違う。何故砲撃が強まる? 何故弾幕が厚くなった。まるで」

 まるで引き下がれない、鉄条網のバリゲートに届くまで待っていたかのようだった。いや、寧ろそれ以外の理由を考えられない。上層部の作戦が露呈されていたのか、そもそも上層部は作戦と呼べる物を練っていたのは確かか。

 私は連隊長が我々を集めて言っていた言葉を思い出した。「砲兵隊に寄って殲滅された陣地に、我が軍は歩いて行けるだろう! 諸君のすべきは軍歌を歌い、旗を立てる事だ!」

「作戦室のクソ共はずっと馬跳びでもしてやがるのか!」

 小隊長の引き千切られた腕の傍から 小銃を拾い、向こうの塹壕で頭を出している敵軍へ引き金を引いた。こんなにも遠くにいるのにも、その眼球が潰れ、頭蓋が陥没していく姿が脳裏に刻まれる。

「クソが! また殺させやがって!」

 腸を引きずり出されながらも鉄条網を一本一本と切っていく最前線の兵士達。その後ろで私は、命令を下す事の他に何も出来なかった。倒れていた部下を起こす暇もなく、ただ前へと突き進んでいく。

「リンカーンシャー第4中隊突撃!」

 鉄条網のない部分には集中砲火が当てられていた。だがそれでもそこを向かって前の大隊は突き進んでいく。それに応じて敵も更に弾幕を張ってくる。鉄条網を取り除き、匍匐前進で泥を口と鼻一杯に詰め込んで前に進んだ。

「中隊長!」

 そんな中、 私を部下が押し飛した。反応する暇もなく、誰かを見る時間もなく、隣に掘られていた穴に転がり落ちる。砲撃が地面に刺さってから爆発して作られたおボウル状の穴だ。

 どうにか死骸を踏んで溜まって腐ってしまった水から身を躱す。泥の壁にナイフをぶっ刺しては足場を作って昇っていった。

「感謝するぞ少尉。そしてすまない! 」

 落ちてから、頭上に機関銃の十字線が通り過ぎて行った。昇り切ると蜂の巣になって、顔も形を変えてしまったのは、いつも明るい性格のアルバートだった。私は目を瞑って敬意を表す事すらせず、その死骸を転がしながら前に進む。気休め程度だが、それでも被弾されるリスクが減るはずだ。

 ぐちゃぐちゃになった顔を向こうに逸らさせると声が聞こえる。銃声に集中して耳を防ぐと死体の手が私の首を強く掴んできた。それを払うと、先程逸らした顔がまたもやこちらを向いている。

 許せとはとtも言えなかった。けれども、利己的にも恨めとも言えなかった。ただ生きたかった。

「リンカーンシャー第4中隊! あ……」

 鉄条網のバリゲートを抜け振り向くと、そこにはもう私の中隊は残されていなかった。遅れてしまったのである。そう、皆が遅れてしまったのだ。遅れてしまった以外の理由は考えらない。でなくては200人いた中隊が数人しか見えないという事実の説明がつかない。

「す、進め。進め!」

 鉄条網を抜けた戦場には、それと言った障害等余りいなかった。せいぜい積み上げられた死体と血で作られた泥、砲弾で掘られた墓塊ばかり。

 数分前まで雄たけびをあげていた皆と共に、夢中になって銃を撃つ。もう既に指揮の体系も気にすることなく、ひたすら前に進んでいると何とも懐かしい後ろ姿が見えた。

「デール!」

「ニコラス?」

 まさか最も前に立つ中隊長が二人揃って生き残れるなんて、こんな奇跡を誰が予想しただろうか。

「奇跡ってんなら、この前線をどうにかして欲しかったがな」

「急な地震で敵軍の塹壕と砲台が崩れるとかな!」

 機関銃を握っている敵を重点的に狙い撃つ。味方もスナイパーよりも機関銃にのみ全神経を注いでいた。確実に当たるような一撃を繰り広げる剣士よりも、分で数十殺せる化け物の方が恐ろしい。

 互いの顔を見る事もなく進んでいるのにも、ただ前だけを向いて走っているのにも、不思議な事に私は頼もしさを得ていた。同じ泥を啜った仲間と立っているという感覚。今度ばかりは敵に殺させないという気持ちが自分を鼓舞させてくれる。

「切り抜け!!」

 下から最大限目立たないように手榴弾を投げ、こちらを見た敵兵をデールが狙撃した。機関銃が置かれていた手前の地面に刺さった手榴弾が爆発し、轟音と共に小さな破片がこちらまで飛んでくる。

 天から降る泥の雨、その向こうで銃をこちらに向けている兵士が一人塹壕から頭を出していた。銃口を構えようとするも遅い、と思っていたのだが、何か様子が可笑しい。その敵兵は何故かこちらを凝視して笑っているのに、気が抜けたようで、引き金を引こうとはしなかった。その隙を狙って頭を撃ち抜くが、何処となく部下からも見た事のある光景に、一瞬敵を同じ人間だと思ってしまう。

「ぶっ殺されたくなければ動けニコラス!」

「止まってもねぇよ!」

 敵は人間ではない。今戦っているのは地獄から這い上がってきた汚物だ。訓練所でそう叩きこんだはずなのに、顔を見た瞬間その決意が緩む。刹那の間だけれども、考えてしまうのだ。もしかすると敵軍も、似たような訓練を受けてでてきただけの、国の命令で戦うだけの青年ではないのかと。

 そんな知らんぷりをしていた「当たり前」を認識してしまうのである。

 首を少し振って雑念を消し、敵軍の塹壕を守る最後の鉄条網を超えた。手前まで来た事に気付いた兵士がこちらを向くも、もう遅い。敵の銃口が向けられる前に、デールと私は同時に左右に弾を撃ち込んだ。両方どちらの敵も一人ずつ、確実に撃ち抜いていく。

 引き金を引いて、ボルトで空薬莢を排出すると同時に装填を終わらせた。4人撃ち抜くとボルトが止まる。弾薬が切れた瞬間に敵軍の死骸をひっくり返し、落ちていた銃の引き金を引いた。続々と我が軍が塹壕になだれ込む。

「ようやく、最初か」

「ニコラス!!!」

 聴き慣れた幼馴染の声が名前を呼んだ。一息ついて緊張の糸が切れた隙間、後ろから腰に誰かが抱き着き、地面に倒れ伏す。間近で砲弾の音が鳴り響き、一瞬にして意識を持っていかれたのはその次の出来事だった。


「デール」


 敵の塹壕に頭を埋めて、目を醒めてもなお銃声と爆発音は続いている。

「デール?」


 軍装並みに重い何かが後ろから私を圧迫していた。身体を動かして向きを変えると、火薬と塵で真っ黒に染まった天が広がる。視線を少し下に向けると、そこにはデールが気絶していた。

「男に抱き着くなんて、そんな趣味はなかったはずだが?」

 冗談めかして茶化しながら身体を少し揺らしてあげるが、意識は全く戻ってこない。一旦起き上がらせようと肩を掴むとぐったりとしていながらも、割と簡単に上から退いてくれた。

「しかし、何だ。妙に疲れるな」

 足は軽いが、どうもデールが乗っかっているせいか上手く動かせない。少し動かすと痛みが走り、骨折してしまったのではないかという不吉さが襲ってきた。こんな所で負傷など、病気で死んでも可笑しくない。

「これじゃ、私は後方に移送されるかもな」

 デールはずっと何も言わず黙っていた。

 手を地面に置き、どうにか上半身を起こす。自分の足に目を向けると足の裏がこちらに向けられていた。臑の当たりが見事に圧し折られ、殆ど千切られている。それでも痛みを感じれないのは、誰かが止血用に膝下へ強く締めておいたベルトのお陰だろう。

「全く余計な事を。ズボンがズレ落ちて戦えない何て言うんじゃねぇぞ」

 隣に倒れていたデールを見下ろすとその手がベルトを強く締めていた。まさかこれを貸しだとか言って一生出しに使う気なのではないだろうか。

 苦笑しながらもそんな事を考えていた私の目に、不自然さが入ってくる。デールの足が何処にも見当たらなかったのだ。腰の方に手を伸ばしてみても、その下がない。あるべき場所に、あるべき物がない。

「なんだ」

 周囲を見渡すと塹壕の足場にデールの靴を履いた足首だけが置かれていた。腰から足首の間を繋ぐ部分は、もはや残されていないだろう。

 半分くらいは千切られたトレンチコートを捲ると、そこにはただのクソが詰まった長い細い袋だけが散らばっていた。数分前まで戦場を駆け、昨日まで共に語り合い、数年前共に入隊した友は、鉄の塊が落ちた事で消えたのである。

「お前も死んだのかよ」

 ここは敵の陣地だ。敵が自分の塹壕に砲弾を撃ち込む事は決してない。砲撃は後ろから降ってきた物だった。最前線の状況を知らない砲兵部隊の砲撃が、目の眩んだ誤射となって降りかかったのである。

「だから、そう言えってんだ」

 デールの瞼を降ろさせ、落ちていた銃を杖にどうにか塹壕の壁に背中を預けられた。ベルトを握っていた手を放させ、上半身だけでも楽に寝られるように態勢を変えてやる。強く絞められているベルトには、少し血が滲んでしまった手紙が刺さっていた。実家への手紙である。

 私はそれをシャツの中に入れてから目を瞑った。


――――


 名誉ある勲章を授けられた。横になっていた時、最前線にいた時は一度も来なかったような上の偉い方が、直々に枕に置いて行って下さった勲章である。勿論宣伝用の写真も撮った。

「成程、こいつを胸元に掲げていると死体も探せられない仲間達に自慢できそうだ」

 さぞかし、恨やましそうな目で戦場で活躍できなかったのを悔むだろう。

 隣に全身に包帯をして、指すら動かせない兵士もいたのだが、彼は残念ながら余り勇猛では無かったらしい。

 我が誇り高き第8大隊、いやリンカーンシャー連隊は希望的に見積って7割り以上が一夜で消え去ったと聞く。まだ確認作業中で、認識票を探すだけでも一苦労だという話だ。人間だが、おおよそが数にして2200人、全体からは50000以上と言う。正式な数となると実際は一割以上増えるはずだ。

「一列に並び、歩いて塹壕まで迎え。ってか」

 何て素晴らしい命令だ。あの混乱の中で、素直に従っていたなら敵軍をもっと喜ばせられた物を。

「まだ本人に渡っていない贈り物の変換はいつだ?」

 5万人が家族に送った手紙、家族が送った5万への手紙と日用品や本等。後方で洗濯されている彼等の服や品物、その全て持ち主のないゴミと化した。フランスの、ソンムという土地で、私達は寝転んでその地を埋め尽くす。

 あそこはこの世で最も地上に近い地獄だった。如何なる戦場がそうであるように、あらゆる戦闘がそうであったように、どのような戦争でもそうあり続けるだろう。

「こんな物が、必要……か」

 ベットの上で目を閉じると、このような状況なのにも心地の良い眠けが私を襲ってきた。塹壕の中で何週間も柔らかくて凸凹でない場所に寝た事がないせいで、身体がベットを求めている。

「何故ベットの上で寝られるのに戦争なんかが必要なんだろうな、デール」

 ふとベットの上でそんな事を考えた。考えても尚、どうしようもない事を亡き者に問う。

「ただ」

 今はただ身を任せたい。日差しの差す病院の中で過ごす、平和に見える時間の中で何もかもを手放したい。銃声も砲火も弾幕も着弾音もない場所で、殺した敵軍の顔も死んだ仲間の声も忘れられる気持ちを抱いたままに。

 今はたったの一つの単語に過ぎない忌々しい行為の事を忘れていたい。愛国心も、正義も、大義もないこの病院で。利益と思惑と欲望と死だけが蔓延するこの場所で。

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