冬の宮殿とブーゲンビリア(三輪)

 エリザヴェート陛下は芸術に、特に西ヨーロッパの服や演劇と夜会に興味がおありだった。病気を得ても尚今日のように演劇を鑑賞していらっしゃる。

 美しい情緒豊かなオーケストラの音楽と軍人を演じる主人公の歌声が轟く劇場内で、様々な貴族達が心酔して心奪われていた。士官生徒アカデミー出身のアレクサンドル・スマロコフの綴った悲劇には、軍人の抱く国への忠誠と愛が込められている。

 女帝陛下も彼のフランスの情緒を落とし込んだ作品には目がなく、今も酔いしれた風に世界観に引っ張り込まれていた。

 しかしそんな美しい世界で、俺は一人だけ頭の中で別の事を考えている。

(派兵か。俺は元が軍人だ。いつかは来ると思っていたが)

 ここ一年間はそんな事考えもして来なかった。以前であれば宮殿から抜け出せた事を喜びとするはずだが、何故か素直に受け入れる事ができない。心臓を掴まれたような息苦しさが拭えないのである。

(何故だ)

 自問自答の最中でも、本当は原因に目星がついていた。

 以前までの俺は自分の事をただの父が爵位を守る用途で宮殿に送り込んだ代役くらいに思っていられたのだ。だからこそ死ぬ事は嫌だけれど怖くなかった。戦争に向かって死んでも自分が失う物は何一つないという区切りが存在していたのであろう。

「でも」

 始めて友と呼べる人ができた。一緒に酒を飲んで剣を交わして、互いの良さを認めて合わない部分を繋いで行ける人である。

「ならば俺はなんだ」

 舞台の上で軍人が己の使命を語った。犠牲になるのは嫌いだけれど国の為に戦わざるを得ない運命を嘆く。しかしヒロインの愛はそんな彼に何よりも勇気を与えてくれた。悲劇を喜劇的に見せられるくらいに確かな希望となる。

 しかし俺には何もない。決められた使命もなく、成しえたい目的もなく、騎士としての誇りもないではないか。もし女帝陛下が御隠れになれば、レアが国に帰れば、他人がいなくなっただけで俺には何も残らない。

「俺は……」

「ニコライ?」

 気付けば演劇は既に終わっていた。呼び声にようやく正気に戻される。

「心に響く内容だったかな。珍しい事ではないか?」

「いえ、いや、色々と考えさせられる劇でした」

「其方にはそうであろう。さてそろそろ」

 女帝陛下を部屋にお連れすると何かの手紙に目を通された。すると俺から予想もできなかった話題が陛下の口から零れる。

「レアとは上手くいっているのかね?」

「はい?」

「レア・ド・ボモンに関する話だ。まさか其方が知らぬとは言わせんぞ」

 確かに陛下は現在政治から手を引かれている状態だ。けれどまさか一騎士と侍女の話をされるとは思わなかったのである。

「上手くの意味は分かり兼ねますが、宮に多少の混乱を起こした事については誠に申し訳ございません」

「夜会で使われる酒をそう何度も盗むでない。使用人も困る」

「申し訳ございません!」

 言い訳の余地がない。正直行き過ぎだとは自覚していた。

「許す。何より其方とあの子は見ていた楽しい。喜劇のような、悲劇のような、さてどうなるやら」

「それはどういう」

 呆けていた俺に女帝陛下から読んでいらっしゃった手紙が手渡される。内容がはっきり見えるように広げて渡された手紙と陛下の尊顔の間を視線を行き来させていると、軽く首を縦に振われた。

「読むと良い。ここではなく其方の部屋でな。余は少し眠ろう」

「は、はい! では失礼いたします!」


 さっさと自分の部屋に戻って手紙に目を通すと額と背中から冷や汗が流れる。

「これは、密書?」

 内容からしてフランスのルイ十五世からエリザヴェート女帝陛下への密書だ。詳しくは今回のフロイセンからの攻勢に対する同盟に関わる文書である。

「フランスが我が国と正式に国交を結ぶのか」

 俺なんかの下級貴族に何故このような文書を、そんな思いを抱いて読み進めると後半部にて大使に関する内容が記述されていた。確かに、そもそもフランスのルイ十五世からの手紙等、入国規制されている今現在どうやって陛下の元にまで届いたというのか。

 一枚を捲って、一段下って、一文字を進ませる。そこには女装をした騎士デオン・ド・ボモンへの保護と大使館での就任が記されたあった。俺はそこでようやく女帝陛下の意図とお言葉の意味、そしてレアが今まで見せた態度に関する全てを理解する事が出来たのである。

「ただの使い捨ての札か。俺は」


――騎士達の夜会――

 女帝陛下の趣味として女性は男性の服を、男性は女性の服を着て参加する仮装夜会が開かれた。俺は特別に元々着ていた服でいる事を許されたまま参加する。

 勿論の事ながらそんなに多くの、主要な貴族様方が皆参加されている訳ではない。そもそも夜会事態先代のピョートル皇帝様が開いて、五十年と少しを満たさないイベントである。

「それでも段々皆様も乗り気になってらっしゃるようで」

「良き事よ。余も見ていて楽しい」

 以前宮殿に始めて来た時は付き添いとして女帝陛下の踊りを拝見した事があった。そのお姿は美しく様々な方々の噂に上がった程である。

 今までは結婚の申し込みを避けるベくしてきたが、どうしても今回ばかりは参加したかった。

 陛下のお傍で彼女が来る事を待っていると、夜会の場に感嘆の声が上がる。最初は数人が無意識に漏らした音は、人波に乗って広がっていった。それはたった一人の男装から始まった物で、数十の視線の先には女帝の侍女が立っている。

(どんな姿であっても本当にお前は綺麗だな。いつも川辺で見る堂々とした振る舞いが嘘みたいだ)

 男性用のワイシャツは真っ白く、喉にかけたレースを片方だけ結んで垂らした飾りジャボは彼女の透き通った肌に良く似合っていた。しかし纏った紅葉色のコートと黒いズボンは小さな歩幅からは考えられないくらい派手でありながらもはねているとは感じさせない。

 一歩を歩く度に後ろに結んだ髪はチューリップで染めたようなくすんだ黄色が揺らぎ、その余りにも美しい姿に誰もが一度は目を奪われてしまう。

「では、今宵の夜会を始めるとしよう。皆楽しんもうではないか」

 女帝陛下のお言葉と共に金管オーケストラ奏でるポーランドの音楽、ポロネーズが宴会場に満ちていった。人々はそれぞれ酒のグラスを傾かせて、壁際には自然と踊る為の空間が準備される。

 レアの方に目を向けていると女帝陛下はそっと腕を掴んで彼女の方に押してくださった。

「余は少し座っていようぞ。其方が代わりに楽しんでおくれ。それとも命令でしか踊れぬか?」

「いえ、感謝いたします陛下」

 彼女に手の甲の方を向けて右手を差し伸べる。すると彼女は少し微笑んで左手を伸ばした。四本の指が重なるようにして、離れない為に親指を相手の指に添える。

「レア殿、俺と一緒に踊ってくださりませんか?」

「良いですわよニコライ殿」

 俺達はレアを右にしてポロネーズを踊る列に並んだ。やがてゆっくりとしたテンポに合わせて男女ペアが並んで作った列でゆっくりと会場内を歩きながら三歩進んで一度腰を少し落す。

「久しぶりですわね。最近来てくれないから一人でずっと練習していたのですよ?」

「色々あってな。すまん。代わりにここでは幾らでも酒飲んでいいからよ」

「ただ酒でいびらない貰えます?」

 二列を作って互いのペアですれ違ったり、女性役同士が合間で手を取り合ったり、ペアが手を繋いで作ったブリッジの下を他のペアが通過する事を繰り返す。

「お前とこんな風に踊る事になるなんてな」

「わたくしも以外に感じますわ。踊りはかなりぎこちないのですけれど」

「言うな。俺も自覚してる」

 我々は決して男女で気軽に身体に触れる事はなく、ただ手を合わせ、繋ぐだけで全ての動作をこなす事が重要だ。イエス・キリストの名の元に恥じるような真似は決してしちゃいない。

 曲が終わって俺はビール一瓶を空けた。レアは伯爵から聞いた通り、静かな令嬢という風にワイングラスに傾かせる。

「本当に猫被ってるんだな。驚いた」

「場所と相手によって対応を変える。人はそれを社会生活と呼ぶのですわよ?」

「始めてあった人の酒を勝手に飲み干すのが社会生活か。ご立派ですな」

「少しのご愛嬌でしょう?」

「ん。まぁ愛嬌はあったな。とても、綺麗だった」

「何ですの? 急に気持ち悪い」

 二人で会話をしていると周囲が物珍しい視線を送ってきた。どうも居心地が悪い。レアも少し張っていた声を潜ませる。

「少し風浴びるのに付き合ってくれね?」

「良いですわね。わたくしもちょっと酔いが回ってきた所ですわ」


 宴会場を、冬の宮殿を後にして俺達はいつもの川辺に出た。暖かくなり始めた時期に一足先に冬眠から醒めた、ここにいきる様々な生命の声が芝生に満ちる。川の流れる音、風が花と草を撫でる音、宮殿から聞こえる音楽と人々の話声。それ等を静かに浴びるのは心地が良い。

「レア酔いは、少し醒めたか?」

「ええ、正直余り酔ってもいませんでしたわ」

「そうか。良かった」

 時間をおいて、俺は先に用意してあった二本の剣を取り出して片方を投げ渡した。こちらが剣を抜くと最初は疑問符を浮かべていた彼女も咄嗟にレイピアを抜き取る。

「今日、ちょっと変ですわね。どうかしたのですか?」

「お前の名前はなんだ」

「何を」

 笑って誤魔化そうとするレアに軽く剣を振うと軽く弾き返された。

「もう一度問う。お前の名前はなんだ」

 微笑んでいた表情から一気に酔いが醒める。剣先同士を当てたまま彼女は溜息混じりに自分の本名を口にする。

「デオン、デオン・ド・ボモン。やはり隠しきれない物なのですわね。見抜けたのはあの目つきの鋭い伯爵様くらいのものだと腹を括っておりましたのに」

(伯爵もご存じだったか)

 案外高位の貴族達には当たり前なのかも知れない。何も考えずに接していたのは俺のような何でもない、飾られた貴族くらいのものであるのかも知れない。

 だからこそ、ここで引き下がる訳にはいかないのだ。

(俺が騎士であるが故に)

「デオン、お前は俺を騙していたのか。毎晩宮殿の外に出るは、あくまで同性の騎士と戯れる為だったと。不穏な噂を経てず、かつ工作も簡単にする為の隠れ蓑にしたのかと聞いているのだ!」

「はい。その通りでございますわ」

「何故だ」

「騎士としての、我が王からの任でしたから」

 レアは清々しくそう言い放った。自信に満ちた顔には羞恥や遠慮はない。あるのは己が任された責務への、騎士としての使命感のみである。確かな目標と忠誠、そして信念なくしてそのあり方は貫けない。

「そうか」

 同じ場所で彼女、いや彼が誰よりも美しくあり続けたのは、誰よりもはっきとした騎士としての誇りを抱けたからだった。ドレスを着込んでも、誰かを騙しても、魂だけは気高くあり続けたのだ。

 俺も、そうありたかった。

「そういうお前と、お前の剣に惚れた。騎士として誇り高いお前のあり方に目を奪われていたんだ。それでもお前が俺を利用していたのだとすれば」

 彼のような騎士に憧れたから。

「それがお前の任務だとするなれば、俺は『騎士』として自分の失態と裏切りを放ってはおけぬ! それが例え陛下と国が望まれた結果であっても、俺がスパイの隠れ蓑として使い捨てられるのが丁度良いような人間であってもだ!」

 今更ながら変わる決心がついた。この人の前だと変りたいと、そう確かに感じている。

「最後の決闘だデオン。この決闘、俺が勝てばフランスを捨て、このロシアで普通の男として俺と一生を過ごせ!」

「待って、それというのは、つまり」

「婿として俺と結婚しろ。レア、俺を騙してスパイではなく、俺が憧れて愛した男となれ。デオン!」

 そうすれば俺は、憧れの人と幸せに生きる妻と成れる。生きる目的を手に入れられる。

(俺は俺の生きる意味を作る為に、お前の騎士としてのあり方を挫く!)

 デオンは最初頬を赤らませて剣先が揺れた。しかし直ぐに小さな笑みと共に腹の空気を吹いて笑い出す。

「ハァハハァハァッ! 剣先を向けてする告白など、わたくし聞いた事もありませんわ。でも、これが貴方様らしさなのですねニコライ。始めて知りましたわ」

「俺も始めて知ったから気にすんな」

 不安定に揺れていた剣先は固定されたように安定し、彼はもうその姿勢を少しも崩す事がなかった。始めて

「我が友ニコライよ。それでも僕はフランスにこの身、忠誠、全てを捧げたが故に! 貴殿という誇り高き騎士をここでねじ伏せて見せようぞ!」

 宮殿のシャンデリアと燭台から放たれる絢爛豪華な光が月光と入り混じっる。川辺はいつにないくらいに明るくなり、見える全てが鮮明になったように感じた。

 宮殿の宴会場では我が国ロシアの冷たい白い雪の大地を彩る新しい曲が始まる。

 静かに始まる伴奏の管楽器に合わせて、互いに剣を剣をぶつけた。隙あれば、つけ入れるのであれば、と首元を狙って突くと知っていたと言わんばかりに払いのけて逆にレイピアを伸ばしてくる。一秒の半分の半分で迫ってくる剣先だったが、真っ直ぐな刃が狙う場所が心臓としているのを俺は気付いていた。眉間、首元、心臓、腹部、互いに確実に無力化できうる場所へと狙いを定め、しかし不思議なくらいに剣は服に掠りもしない。

「『僕』といったのは始めてだなデオン」

「そういうニコライも自分の事を騎士だと自称したのは始めてではありませんか?」

「初めてだとも!」

 三分の四拍子に合わせて高鳴る鼓動の歌に合わせて誘うように大振りで剣を振った。突かれようとも半分に削ぎ落してやる気の大振りに乗るようにあちらも思いっきりの斬撃を繰り出してくる。金管の音とは違う、重たい鉄同士がぶつかり合う音が混じった。

一太刀交わす度に刃毀れしていく剣には目もやれずに、俺はデオンだけを見つめる。彼が一歩を下れば一歩を詰め、懐に来れば一歩を下って、何度も彼が踏んだ草むらに残った足跡に靴を合わせた。

「実力を隠してましたわね?」

「お前も見違える程だぞ」

 戯れるつもり等ない。それは冒涜だ。だから殺してやろうと、殺されてやろうと剣を振っている。にも中々に殺せない、殺されない。

 互いの全てを知り尽くしていた。どのタイミングで剣を振うか、どんな場所を狙うか、呼吸の間隔までもが一寸の違いもなく合わさっている。

 しかし一歩リードしていたのはこちらの方だった。剣を防ぐ瞬間に両手で剣を握るのではなく、左手でレイピアの護拳に指を引っ掻ける。力負けしたお陰でレイピアの刃が肩に食い込んだが、代わりに相手の側面を完全に無防備にできた。

「これは不味っ」

 デオンは直ぐに重心を後ろに移動させて引こうとするがそうはいかない。即座に護拳をこちらに引っ張り、接近した肋骨へそのままの勢いを乗せて膝を叩き込んだ。息を吐いて苦しむ彼に最後の止めを、と首筋を目掛けて刺そうと腕を振う。

「クハァッ!」

「死にたくなければ負けを認めろデオン!」

「剣を振いながら言うと説得力がありません!」

 しかし刃の先端が彼女の喉元に届く前に右腕が完全に動かなくなった。興奮し過ぎたせいで何が起こったかも分からない状態で右腕に目を向けると、いつの間にかレイピアが腕の深くまで刺さっている。自分の剣が引っ張られている事を逆に利用して、剣先の焦点だけを当てたのだ。

 傷から流れ出る血がシャツを濡らした事を確かめてようやく痛みを感じれた。引きちぎられそうな痛みは、だが決闘を終わらす程の物では決してない。

「アアァなめてんじゃねぇぞテメェー!」

 レイピアを離した左手でデオンの首筋を掴んで締めると共に、動かない右腕を強引に押し込む。貫けられた骨に亀裂が走るのが分かった。それでもロングソードの剣先を刺し込むにはこれしかないと思ってしまったのである。

「俺はお前の事が好きなんだよ! それでもお前の騎士道には罪悪感すらないのか!」

「別にあの時間が楽しくなかった訳ではありません。けれど任務は絶対なのです!」

 進んでいた剣を彼もまた自分の右手で防いだ。勢いが死んだとは言え剣を素手で簡単に止められるはずもなく、掌から段々と刃が貫いていく。

「ふざけるな! 俺の方を大事にしやがれ!」

「舌噛みますよ!」

 横着していた時に一歩をリードしたのは彼の方だった。自分のレイピアを手放し、瞬時に腹を踵で蹴ってくる。自分もバランスを欠いていたせいで転んでしまったが、流石の俺もそのまま首根っこを掴んではいられなかった。

「ッ」

 右手にレイピアが刺さって振う事も出来ない。そんな俺の状態を見過ごす事なく、デオンがダメ元でも拳を振ってきた。しかしこっちは酒場で素手の戦いに成れている。咄嗟に拳を左手で受け止めて掴み、懐に潜り込んで腰に彼を乗せて投げた。

 地面に背中から叩きつけられた彼は驚愕して口を開いたまま俺と目を合わせる。倒れた彼の喉元に直接ロングソードを押し当てると、諦めたという風に全身の力を抜いた。彼t冬の白い息が届いく。

「あーぁ最悪の形です。こんな風に負けるのだけは嫌だったのに」

「復讐としては、最高の形だ」

 剣を更に降ろしてデオンを脅した。しかし開いた眼に、その瞳には僅かな喜びすらも垣間見える。

「負けを認めるか? 死なない唯一の方法だぞ」

「いいえ、責めて一息で殺してくださいニコライ。貴方になら殺されても良い」

「何故負けを認めない」

「貴方もそのつもりだったでしょう? そしてこんな選択をする僕に憧れてくれたのでしょう? ならばこれ以上の死期もありません。本望です」

 五体を広げて地面に背中を当てている彼と頭の上で跪いたまま目線を通い合わせた。曲のクライマックスは過ぎ去り、雄大さを歌ったメロディーすらもう聞こえない。静かな川の流れる音だけ、それだけが俺達を包み込む。

「ちょっと熱くなり過ぎましたけど、全てを出し切らせて頂きました」

「俺もちょっと熱上げ過ぎた」

 彼の喉から刃を離し、自分の腕に刺さっていたレイピアを抜き取った。途端に緊張が解けて凄まじい脱力感に襲われる。

「ニコライ!?」

 デオンは心配そうにしてくれたが、既に肩から出た血が右手に溜まって、地面に染み込んでいく程だった。今から医者に縫って貰えば訳ないだろうが、それを受け入れたいとは思えない。

「君を手に居られないなら、君の手で居なくなりたい。君の思い出の中で『騎士』としてありたい」

 このまま生きていれば、俺は結構普通に生きれるのだという確信があった。目的も意味もなくても、きっと流されるがままに生きていける確信が出来てしまったのである。そんな安定した未来を思い描けたから恐ろしかった。今この時抱けた彼への思いも、騎士としてありたいという誇りも、何もかもを忘れてしまうのが恐ろしかったのだ。

「デオンとして、レアとして俺を覚えていてくれる?」

「勿論、家門を賭けて誓いましょう」

「レアとしてドレスも着ていてくれる?」

「お望みであらば喜んで」

 結局彼を挫けなかった。俺は騎士としてのあり方を貫き通せる程の人間でもなかったという事だろう。

 それでも

「ん。友達も悪くないね」

 別れに涙が出そうなこの感情を、到底俺は口に出す事ができなかった。伯爵がそうであったように、もしも感情を言葉にしよう物なら、今すぐ彼に飛び込んで抱きしめたくなってしまうから。

 だから俺は脱力感に身を任せて瞼を降ろす。夜空が閉ざされる中でも数万回と心の中で繰り返される感情を、無理矢理言葉で押しとどめながら。

「悪くない」

――FINE――

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