夜明けに実る、アルストロメリア(五輪)

それからまた数週が経つ。冬の寒さは増し、研究所にいた殆どの研究員は俺が知らない内に減っていった。大半が餓死で、各自自らが担当する植物に指一本触れぬまま死んでいったのである。

 最も寒い冬が本格的な猛威を振ってきた時だった。軍から実験局に対して種や標本等を運ぶ許可が降りたのである。お陰で始めて所長であるニコライ・イワノフさんの叫び声を聞けた。

「ほ、本当ですか! 本当に許可が降りたのですね!」

「許可ってまさか!?」

 既に研究所に残されていたのは最初の半数以下の人員だったが、誰もが残された僅かな体力で笑みを浮かばせる。

「それじゃ包囲が解けたのかよ」

「いいえ。包囲は続いています。ですが冬の寒波に寄って都市の北部にある湖が凍ったようで、道を代われる程の氷盤ができたそうです」

「最悪の環境で、最高が実ったって訳か!」

 軍からの支援は少なかったが、それでも全ての種と標本を含めた元所長の手記をトラックに乗せられた。涙が流れそうなくらいの嬉しさが満ち溢れる。こんなにも大きな幸せが許されるのかと、思わず笑ってしまうくらいだった。

 準備を終えて自分も退避する為移動しようとしていると所長が俺を止める。

「何だ? まさかとは言え一人が乗る空間もないとか言わないよな。それとも罪を償えとかの話か?」

「いいえ、トラック数は十分ですし罪を償わせるのは判事の仕事です」

 確かにそんな様子でもなかった。俺の事を、そもそも軍にも伝えていないらしい。案外抜けている部分が多い連中だ。

「けど運転の出来る専門兵力が酷く足りないようで、民間人でも運転できる人に運送を任せたいとの要請です。そして、私も乗るトラックには気力ある方が運転して欲しく思いましてね」

「回りくどいんだよ一々。学ある方々の悪い癖だ。こき使いたいんならそう言え」

「使われてくれるんですか?」

「今出来る限りをやるだけだ。どうせこんな場所で閉じ込められていたって、生き残れるはずもないからな。それに軍に言いつければ打つ手もない」

 だから、詰まる所仕方ないという事だ。俺としては真っ平ごめんだが、半分脅されていてはしょうがない。

 所長とトラックに乗り込んでエンジンをかける。久しぶりの運転で感覚は鈍っているが、何もない氷の上で事故る程でもないはずだ。最後に窓から首を出して荷台の荷物が大丈夫であるかを確かめる。

「つくづく偶然に塗れているな」

 荷物は見慣れている箱だらけだった。

(ちゃんと届けてやるよドミトリー、次いでにテメェーの標本もな。あくまで俺の目的の為だがな)

「どうかしましたか?」

「いいや、問題ない。望むところだ」

 戦闘車両に付いてトラックが進み始める。

 都市の最南部に当たる研究所から、最北部の更に上に位置する湖まで、不思議なくらい静かな道のりだった。爆撃が落ちる様子もなく、当然と言えば当然だが軍の車両を真昼間に襲撃するような連中もなかったのである。それに長い寒さと戦争で気力の限りを尽くした人々は、ただ只管北方へと足を進ませていた。俺と同じく包囲された都市を抜け出す為、掠れてしまいそうな希望を抱きながら。


 行進が続くこと数時間が経った。トラックを走らせた先にあったのは凍った湖。向こうから微かに見える土地までに続く氷と吹き荒れる吹雪である。常に雪を片付けているそこには補給品などを積んだ数台のトラックが行き来し、脱出を試みる人々の列ができている。

 持ち合わせている全ての布で身を包んで体温を維持している人々は円筒方の像にも見え、その大小が手を繋いで歩いている様子が目に焼き付いた。

 またエンジンの音が近づいてきた。所長は天に目を向けて舌を打つ。

「ここはドイツ軍としても狙い目のようですね。唯一ある補給線だから当たり前ですが」

「思い詰めるなって。疲れるだけだぞ」

 常に鳴り響くエンジンの音は止む事を知らない。敵軍の爆撃機は虎視眈々と爆弾を落す機会を窺っていて、だが俺達に逃れる術もなかった。それでも強がり混じりに鼻で笑って見せる。

「その通りですが、呑気してる場合でもないようですよ運転手さん?」

 所長が指差した場所に目をやると爆弾に当たって割れた氷盤に沈んだトラックの残骸と荷物が浮かんでいた。氷で支えられている上に爆撃が落ちた時の保険に先頭車両ともかなり距離がいる。つまり爆弾に当たろうが、空いた穴に落ちようが助けはないという事だ。

「ひぃッ」

(これじゃ水に溺れた時点で凍え死ぬだろうな。腹も空かしているのに保てるはずがねぇ)

「軍が常に事に備えてはいる物の完璧な訳もないようで、細心の注意が必要そうですね」

「生命を運んでいるのに、道は死で溢れているとかブラックユーモア過ぎるんじゃないのか?」

 冬だからこその滑ったい道、所々空いている死の穴、何時落ちてくるか分からない爆撃。成程ただトラックの車輪を転がすだけの仕事と言うには危険過ぎる。

 残骸を目に、命の危険を感じては見返りが欲しくなった。

「一杯の飯だな」

「はい?」

 保険なしじゃどうにも落ち着かず、俺は最も権力ある所長に成功報酬の話を持ちかける。

「できてからの家族の分までだ」

「何の話ですか?」

「ドミトリーに、眼鏡野郎に言質取ったからな? 積んである稲を育てて貰うという言質。「長」なら部下の約束は守れ」

 始めて少し悩まし気な表情を浮かばせて一分程顎に手を当てて考えこんだ。自分の緊張を解す為の方便だったが、冗談として受け止められなかったらしい。

「おい、そんな真面目に」

「良いでしょう。パブロフスク実験所の現所長として責任を取ります。現在ソ連の科学を切り崩しているトロフィム相手にのどこまで種達を守り切れるのか自信に欠けますがね」

 難しい話は分からないが、取り合えず俺の食い口が確保された瞬間だった。同時に薄い吹雪の更に向こう側から薄ぼんやりと関門のような物が見え始める。

「検閲所が見え始めました。このスピードだと一時間たらずで行けそうです」

 一息つく所長だったが、俺は一人ハンドルを強く握りしめた。吹雪の中を貫いて聞こえるエンジン音と微かに空気を切り裂くような音、そんな自分でも察知できないような情報が「感」としか説明しえない何かの形を取る。背筋が凍って手が汗ばんだ。

「どっかに捕まえとけ、何か妙だぞ」

「なにが」

 氷の道の上に爆弾が落ちてきた。吹雪と爆撃機に怯えた人々の騒めきで掻き消された音を一気に拡散させるような轟音で、地表の代わりとなっていた氷盤を揺さぶる。凪払われたように人々が膝を突き、飛んできた氷の破片が車体にぶつかった。そんな爆弾の投下が数十秒と俺達の首を絞めつけて呼吸を止める。

「幸い当たってはいないようですが」

 遠くに動いている先頭車両を見ると着弾したトラックはないようだ。が、途中に大きな罅が出来てしまった。距離を取りながら迂回するのが得策だろう。

「けど、問題はそこじゃないようだな」

 俺は両掌を広げて上げた。所長も周囲に集まってきた、銃や斧を持った連中を横目に同じく手を上げる。

 運転席の窓からどことなく聴き慣れた低い声が、小銃の銃口を向けてきた。男を目にした瞬間、冷や汗が流れ出す。

「今すぐトラックから降りろ。でないと撃つぞ」

「ッ、あんたは」

 男は長い髭と白髪を生やして、赤ずんだカーキ色のロングコートを着込んでいた。サーヴィチ・アブラモフ、決して忘れる事のできない、俺の所属していた強盗団のボスをしていた男である。

「アブラモフさん」

「まさか、お前ユスチンか? 随分と憔悴した様子だな」

「貴方も、ご無沙汰とはとても言えませんね」

 車から降りると敵は小さな微笑を浮かばせた。仲間だった俺を歓迎する笑みであるならまだマシだっただろうが、そこには嘲笑うかのような厭らしさが込められている。

 所長もある程度状況を把握してしまったのか、眉を傾けて額に皺を寄せた。そんな中後ろから連中の一人が荷物を見つける。

 「アブラモフさん! このトラック食料運搬中だったようです! 穀物が荷台に一杯ですよ!」

「触れるんじゃねぇー!」

 咄嗟にリボルバーを取り出して奴に向けると冷たい鉄の塊の先が髪と耳元を撫でおろしてきた。

「銃を下げろユスチン。脳みそを浴びていると検閲所で疑われかねない」

 見知った顔数人、見知らぬ顔数人と十人に至る強盗団の連中が武器を取り出す。残念ながら俺の見方はなく、武装の先端が向けられているのは一ヶ所だけだった。

「半年に近い間、何処で何をしてたかと心配していたよ。まさか軍に入隊でもできたのかね? 一緒に行動していた仲間を売って?」

「そんな事はしていませんが、一言で言えばやりたい事をしているだけですよ」

 目玉を転がしながら周囲に兵士はないかと探るが、吹雪に爆撃が重なってそれどころじゃないらしい。正直何処にいるのかも見えない。

「どうやら合えなかった数ヵ月で随分と複雑な事になったようだな」

「話すと長くて、こんな所じゃ語りキレません。先ずは退避してからはどうでしょうか」

「さてな。そんな良い考えには聞こえないな 。寧ろここで全てを片付けて退避する方が利得なんじゃないか?」

 どうにか声を絞り出して笑って見せるが、ここから逃がす気は微塵もないらしい。向けられた銃の引き金に掛けられた指へ全神経を集中させ、どうか指を滑らせないでくださいと祈る。トラックから降りたから二人同時に撃ち抜かれるって事はないだろうが、所長が連中相手に戦えるとも思えない。俺が死ねば運んでいる種子は連中の晩御飯になり下がるだろう。

(数的にも不利過ぎるだろうが、こんなの)

 十人相手に一人でどうしろというのか。

「辞めよう」

 どうやればこの状況を抜け出せるかと頭を回していた最中、アブラモフさんがニッコリと微笑んだ。曇りなき笑みが如何なる時よりも恐ろしい。

「共に戦ってきた戦友を失いたくないんだユスチン。君にはまた我々と共に行動して欲しい。殺し合うより数倍良い判断だろ?」

 何も言えなかった。

「何も考えずに「はい」と言うだけで良い。深く物事を念頭に入れる事なく首を縦に振ればそれで良い。君はいつもそうして来れた。きっと今もそれが出来る。今すぐ殺されるのと生き残る事、どちらがより良いかくらい分かるだろう?」

 ライフルを渡すようにと手が差し伸べられる。それは思わず指の力が抜けてしまう程に魅力的で、頭の中を真っ白にできる程に誘惑的な言葉だった。

(確かに否めないな)

 自分の飢えを解決できれば他はどうなろうと構わない。奪われた側の事は考えない。これからの事も今までの事も頭から掻き消す。結局できなかったけど、それは気楽だ。

「確かに何も考えないでいられる間は気持ちの良い時間でした。今ある飢えだけを解決する、その一瞬の幸福には抗えなかった」

「良い判断だ。君はそうしてくれると信じていた」

 リボルバーの銃口を降ろして差し伸べられた手に運ぶ。銃身が自分の手に、その手袋に触れた時確かにアブラモフさんは断言を口にした。

「油断は、必ず断言の後を継ぐ物です」

 引き金を引くと同時に頭に向けられていた銃口の方向を無理矢理変える。二つの発砲音が鳴り響き、リボルバーの弾丸がアブラモフの腹を抉り、モシンナガン小銃の弾丸が種子の箱に手を出した奴の腕を貫いた。

 耳元の銃声で右の鼓膜が弾けたが、考える暇もなくトラックのドアを叩きつける。

「さっさと走らせろ!」

 とても短い間、瞬きする間程、悩み事その全ての思考から切り離し、所長はハンドルに手を伸ばした。アクセルを片足で踏みつけて正しい選択をする。

 痛みと怒りで顔を歪ませたアブラモフは呻き声よりも先に命令を下した。俺は地面に身を投げて車体の下から見える足を撃ち抜く。荷物を取り戻したトラックは徐々に迂回を試みた。

「二人纏めてぶっ殺せ!」

「全員纏めてぶっ殺す!」

 身を低く構えながら全ての服を脱いで投げつける。氷盤の上で骨身に染みる寒さが襲ってきた三、四重に太い生地の服を着込んだ連中より一早く動けた。

 こちらに武器を向けている連中から先に頭へ風穴を空けていく。トラックへ逸れる注意、いざという時には逃げてしまおうという心、俺にできるのは若干の隙ができた敵を殺す事だけだった。

「共に戦った友情を鑑みて、一撃で頭を勝ち割ってやろうじゃないか」

 三発を三人の眉間に命中させていると横から立ち直ったアブラモフが斧を振り下ろしてきた。再び銃を向けるも決して届かない事に気付いた俺は左手を前に、地面を蹴って逆に突っ込んでいく。

 氷点下に達する冷たい鉄の塊が左腕に突き刺さり、激しい痛みと共に神経を凍らせて砕く、嫌な感覚に狙いが逸れた。銃弾はあさっての方向に飛び、寧ろ連中の一人が撃った弾丸が額を掠っていく。忽ち視野の半分が真っ赤に染まった。

(皮膚が裂けたのか。腹が減って嫌なくらい疲れやがる!)

 だがアブラモフという、集団のリーダー格に近づけた好機だけは逃さない。銃を持つ右腕を奴の首に撒きつけ、抱き締めるような形で全体重を負担させた。必死という風に千切られた額を拳で殴りつけてくるが、既に吹雪の冷たさで感覚もまともに感じれない。

「離れろ!」

「友情を思って一緒に死のうじゃないですかアブラモフさん!」

 人間盾に銃を撃てず戸惑う奴等へ遠慮なく引き金を引いた。痛みに耐えられるように、寒さを凌げるように、空腹に蹲る事のないように、息を止めて正確な狙いを定めていく。息を止めて撃った残り三発の弾丸は不思議なくらいに良く当たった。

(五人目!)

「離れろと言っている!」

 奴が斧を捻ると俺の左腕から「びりっ」と何かが引き千切られるような音が鳴る。低すぎるせいで傷口に凍り付いていた斧の刃が、腕の筋肉事千切り取られていったのだ。

「アアッ!」

 神経を根こそぎ千切り取るような痛みにはとても耐えられず、身体が反射的に相手を手放して距離を取る。直ぐに強盗の一人が撃った弾が足を抉った。

 直ぐにアブラモフが斧を振り下ろしながら畳みかけ、俺の腹の上に乗っかる。銃には弾丸もなく、片腕でできるのはせいぜい振り下ろされた腕を掴んで耐える事だけだった。

「やはり貴様はこっちの方が性に合っているだろ?」

 力を振り絞っても止める事すら叶わない。段々と鋭くも重たい斧の刃が目前まで近づき、そこへ更に体重が乗せられた。

「我々は一緒だ。所詮毎日何も考えず生きてきた人間に、今更何か正そうだなんて不可能。何故なら! 貴様は衝動に任せて生きる楽さを誰よりも知っているからだ」

 目の下から冷たい感触と鈍い痛みが徐々に伝わってくる。

「どうだ今は。ただ奪われるだけの自分に嫌気が差すだろ? 今まで見てきた悲惨さを自分の中から見てしまうだろ!」

 只管持ち応える事だけに専念していた時、再び吹雪を凪払う爆発が起きた。氷の道を砕く爆撃は小さな破片を放射状に飛ばす。即席に作られる氷の手榴弾は地面を這いでいる者より、上に乗っかっている方を狙ってきた。車のドアを強く叩く勢いを乗せた拳サイズの氷がアブラモフの側頭部を強打する。

「ゥッ!」

 人が襲われているにも助けに来る気配がなかった。補給路を守る軍人がそこら中で気を張っているのにも誰も来ない。それだけの理由があるはずだと気付くにはそう掛からなかった。

「例えばそう、この道の空襲は一回で終わらない事を軍は知っていたのかも知れませんね」

 空襲は強盗達も民間人も軍もお構いなしに全てを巻き込んだ。道に大きな穴が出来た事で避難路も大騒ぎに巻き込まれている最中、俺はモシンナガン小銃を拾って松葉杖の代わりに立ち上がる。左腕には感覚がなく、視野の半分は赤に染まり、片足もまともに動かない。色んな所の皮膚も氷盤の上に寝転んでいたせいで剥がれてしまった。しかしかなり酷いのは相手も同じで、勝ち割られた頭から血が流れ出ている。

「分かっていたというのか。こうなる事を」

「まさか、ただこうなって欲しいと思って耐えただけです。もう一分遅れたら俺の頭は半分に割られていたでしょう」

 あの場の誰もがそうだった。諦めても誰も何も言わず、諦める事を気付かれる怖れもない場所で、皆がそうあって欲しいと思って耐えていたのである。

 天に上がる白い息が薄れていき、絞り出すような声を漏らす。

「一人で生き延びるつもりか」

 一台のトラックの車輪が湖に落ちてしまいそうになっていた。氷盤が砕かれた事で後ろの車輪が嵌まったのである。

「本当は死ぬに値するのに、少しでも長く生きていたくなりました」

 アブラモフと俺の視線が一ヶ所に向けられた。すると気が抜けたような溜息を最後に、一人の吐息が途絶える。

「あっそう」

 傷口からの血が止まらなかった。昔なら塞いだはずの掠り傷すら、そういえば最近治らない。それでもただ銃を突き立てて一歩を進ませる。鉄よりも重くなってしまった足は地面から離れてくれず、目の前は揺れて地震でも起きているようだった。

「俺はな。まだ」

「トラックから降りろ!」「沈んでしまう!」

「まだ種とか作物とか、それが後々なにかを救うとか」

 騒いでいる人々の列を一直線に歩き抜けて、今にも割れてしまいそうな氷の上に立ち止まった。抜け出せずにいる車輪と、その車輪を捕まえている割れた氷の間に小銃を挟む。

「あんた危ないぞ!」「湖に落ちてしまうよ」

「そういうの分かんないけど」

 片足を銃床に置き、右手を荷台の下に入れ、歯を食いしばって今ある全力を絞りつくした。左腕から、額から、片足から黄色い油と血が共に絞り出される。

「そんな俺でも! 最後に人らしい事くらいできるんだよォ!」

 テコに人力が加わり、氷の道が割れると共にトラックが前に進めた。不安定ながらもどうにか速度を上げて、罅割れていく氷盤の上から離れる。

 顔を上げるとトラックの荷台に乗っている人々の顔が目に入った。ボロボロの夫婦と小汚い少女が一人。一度たりとも忘れた事のない彼等は俺の顔を忘れてしまったのか、頭を深々と下げて感謝してくる。

「バカな奴等だな」

 横たわってあっという間に遠くなっていく荷台を眺(みつ)めた。いつまでもこちらを心配そうに見やる三人に、その必要はないと伝えたいのに声が出せない。俺がどんな人間なのかを教えてやりたいのに、自分を指す為の指を動かせない。

 しかし人々を乗せたトラックが検閲所を通過していくのを眺(なが)めながら久しぶりに、いつだったか覚えていないくらい昔からの、懐かしの感情を引っ張ってきた。唇の端が耳元に届くんじゃないかという風に釣り上がり、心配事も後悔も情けなさも払拭させてくれる感情に溺れる。

「また人が水に落ちたぞ!」

「血が出過ぎている。これは流石に……」

(うるせぇな)

 誰の声も届かない暖かさの深くへと潜っていきながら、瞼の裏に見た事ない風景を描いた。

黒い雲はもう何処にもいない。遠く向こうに見える高い山々から眩しい日が昇り、色鮮やかな果物が実って、色とりどりの花で埋まった野原が続く場所。そこでは綺麗に透き通った川と黄金色の畑が風を象る。

 ぼんやりしていて、不確かな風景はと、ても美しくて目を離せられなかった。自分の居場所がないと知っていても尚、どうにも諦めきれない。結局約束した報酬も受け取っていないのに、不思議とお腹が一杯で悔しさは沸かなかった。

 今、現在、この時、一瞬、刹那、決して抱いてはいけないような、許されざる気持ちを抱いてしまう。散々他人から奪ってきた人間が持つに相応しくない、今までの人生を満ちていたと誇ってしまいそうな、俺はそんな「幸福」を実らしてしまったのだ。

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戦争に散る花 @motouchi

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