第一話 幽鬼 (四)

 そして源之丞はまたぞろ夢を見ることになる。彼は狩場手前の祠の前に立っていた。いつものように祠に手を合わせ目を閉じ、猟の成功を祈願すると共に、どうか、どうかあの赤子の声が二度と聞こえてきませんようにと強く念じた。

 しかし現実は無常である。「アーオ、アーボ…」という言葉になりきらない幼児の喃語なんごが、こともあろうに自分の右の耳元から聞こえてきたのだ。まるでその子が源之丞の背におぶさっているかのように。

 背後に禍々しい気配を感じ、見てはいけないと思いながらも彼は振り返ってしまった。あの首吊り女が立っていた。口の端を釣り上げにやりとすると、ゆっくりと源之丞の首目掛けて両腕を伸ばしてきた。源之丞は金縛りにあって動けない。女の爪の先が頸動脈に触れるか触れないかのところで目が覚めた。

「……もう、限界だ。」

それは精神的に、という意味もあったが、もうひとつ彼にはある恐ろしい予感があった。

 昨日の夢は狐に出会った岩の場所…今日の夢は祠…と、日を追うごとにあの幽鬼は少しずつ源之丞の住む山小屋に近づいてきているのだ。次に眠りについたときにはもう追いつかれる。そうしたら…、想像するだけでつま先から脳天まで何十匹もの百足むかでが這いあがってきたかのようなおぞましい感覚に襲われた。

 急いで身支度を整えると、源之丞は痛みで割れそうな頭を抑えながら山小屋を飛び出した。午前中だというのに薄暗い。見上げれば黒く分厚い雲が空を覆い、雨催あまもよいの様相であった。


 例の集落を抜けかかったときのことだ。背の曲がったひとりの老婆が膝を地につき両手を合わせ、額を地面に擦りつけんばかりの勢いで何かを呟いていた。

「ロウザンのたたりじゃあ、ロウザンにあんな仕打ちをしなけりゃあ…」

その目線の先には例の変死体が見つかった民家、とすればロウザンとはむくろの主と何か関係があるのだろうか。

「おばあさん、ロウザン…て?」

老婆は顔を上げた。元々しわだらけの顔は怯え切っていて、眉間のあたりにさらに深くしわが刻み込まれていた。

浪山ろうざんは山奥に住む流浪の民じゃあ。小平太こへいたは浪山の家族にひどいことをした、だから呪い殺されたんじゃ!」

 詳しく聞けば、小平太こそが亡骸なきがらの男であった。二年ほど前に小平太を含めこの集落の若者の何人かが、新谷あらや銀山の鉱夫として出稼ぎに出ていた時期があったそうだ。その時に、集落と取引のあった浪山の男も一緒に銀山で働くことになった。だが坑道で崩落事故があり浪山の男は片足を失った。国の事業で起こった事故だったため内務院から見舞金が出たのだが、浪山には戸籍が無いことを利用して小平太は自分が事故に遭ったことにしてしまったのだ。見舞金はまんまと小平太の懐に入った。男は当然抗議したが小平太は聞く耳を持たないどころか、失意の男が山に帰っていく後をつけ狙って、谷底に突き落としたというのだ。片足を失い杖をつきながらでは、抵抗もできなかっただろう。

「これは呪いじゃ、祟りじゃ!そうでなくてはあんな死に方ぁせん!」

老婆は悲痛な声でそう叫び訴えると、忌まわしき気配の漂うあばら家に再び手を合わせた。

 源之丞はいたたまれない気持ちになった。悔恨の情を抱かねばならないのはこの老婆ではなく小平太であろうに。

 その場を後にする彼の耳に、おそらく誰にも届かないであろう老婆の祈りの声が残響となってくすぶり続けていた。


 遠く天鼓が響いた。やがてぽつりと最初の一粒が地に落ちたかと思うと、頭上の雲を真横に貫くように稲妻が走り、大粒の雨が沛然はいぜんとなだれ落ちきた。

 お社に続く長い石段の手前に一軒の茶屋がある。秋雨に打たれるがまま歩き続けていた源之丞は、ようやくその茶屋の前で一度立ち止まった。そこでふと視線を感じてその気配の方を見遣れば、軒下で黒い着物に身を包んだ若い女が雨宿りをしていた。着物と同じあでやかな黒髪に真っ赤な花飾りのついたかんざしを挿していたのが印象的だった。女は冷めた目つきで彼の背中辺りを見つめていた。

「それ、あなたの弟か何か?」

女は低い声で尋ねた。源之丞には彼女の言う「それ」が何なのか凡その見当はついていたが、彼は何のことかわからない素振りをしてみせた。だが女はお構いなしに、

「本当はわかっているんでしょう?あなたの連れているモノ…どこで拾ってきたの?体にも異常があるのではなくて?」

と矢継ぎ早に攻め立ててくる。さすがに驚いた。

「…見えるんですか?」

「ええ。でも私は見えるだけ、祓うことはできないわ。」

先を読んだ物言いは、あたかもこのやり取りに慣れているかのようであった。

「教えてください!俺はどうすれば…。」

「お社に行くのでしょう?引き留めておいてこう言うのもおかしいけど、行くなら急いだほうがいい。」

女は源之丞がやってきた山の方にちらりと目を向けたが、跳ね返るように視線をそらした。それまで無表情だった女がその時だけは眉をひそめたのがわかった。直視できない何かがいるのだ。

「あとから追ってきているアレ…危ない。」

「…そうですか、ありがとう。」

礼を言うと、源之丞はふらふらとした足取りで石段を登りだした。

 この女の忠告、老婆の話、そして本に記されてあったこと、色々な点が線へと繋がりはじめていた。しかし怪異の正体がわかったとて、源之丞は自分ではどうすることもできない。今は一刻も早く神部に事のあらましを説明して、憑りついたモノを祓ってもらわなければならなかった。

 赤い簪の女は雨のすだれの向こうにかすんでゆく背中の赤子を、憐憫れんびんの眼差しで見送っていた。やがて軒下から踏み出すとなおも止まぬ雨に身をさらし、石段とはまた別の方向に小走りで消えていった。


 鳥居を抜けたすぐ先に拝殿があり、そのさらに奥に本殿が厳かな姿で構えていた。珍しいことに普段はいない衛士がふたり、厳めしい顔つきで目を光らせている。ひとりは槍を持ち、もうひとりは弓を持っていた。さすがに子供相手に武器を構えることはしないが、大雨の中をひとりおぼつかない足取りで寄ってくる小僧の姿を怪しむのも無理はない。

わっぱ、お社に何用じゃ。」

弓の衛士が威圧的に呼びかけてきた。それを合図に槍の衛士が巨躯きょくを盾に源之丞の行く手を阻んだ。とその時、

「待て、その子はわたしの友達じゃ!」

拝殿から裸足のまま飛び出してきた美津葉は、その細い足からは想像もできない速さで駆け寄ってきた。その琥珀色の瞳を見た安堵からか、糸の切れた操り人形のように源之丞はその場に崩れかけた。それをがっしりと抱きとめる美津葉。

う来た源之丞、良う頑張った!しかしこれはいかん、お主、何というものを連れておるのじゃ!」

 突然のことに衛士たちはきょとんとして顔を見合わせた。

「ひどい熱じゃ…。おい、この子を急ぎ本殿まで運んでくれぬか、頼む!」

衛士たちはまるで要領を得ない様子であったが、美津葉と既知の間柄であるならばと源之丞を担ぎ本殿へと運び込んだ。

 中では既に世里が源之丞の着替えを用意していた。本来、神聖な本殿で人が寝泊まりをすることなどないが、ご神体を祀る祭壇の前に仮の寝床を作りそこに源之丞を横たえた。額に汗を浮かべてやや呼吸は荒い。

 美津葉は彼の枕元に正座し、手拭いで源之丞の汗を拭きとった。

「良くないものが憑いているのですか?」

新しい水を桶に汲んできた世里が尋ねた、

「赤子じゃ。」

美津葉は源之丞の胸元辺りをじっと見て応えた。

「邪なモノの力を抑えるくらいのことならわたしにもできるが、困ったことにこの赤子は文字通り無邪気じゃ。厄介な奴め、源之丞を遊び相手とでも思っておるのだろう、まるで離れようとせぬ。」

「無害であれば急ぎ祓わずとも、数日かけて神部様の祈祷で追い出せるやもしれませんね。」

「赤子の方はな…問題はこれを追ってくる母親の方じゃ。この気配はまさに怨念邪念の塊ぞ。これはいかん、わたしでは太刀打ちできん。」

 だがこういう時に限って頼みの神部は不在であった。帰り際に、霊事院内の新殿落成式の段取りとかで事務仕事を押し付けられてしまった。仕方なく美津葉に護衛を二人付けて、彼女だけ帰らせたということだったのだ。

 手を打たねばならない、と美津葉は文をしたため、世里に預けた。

「今ならまだ間に合う、これを神部様に届けてくれ。此方こちらへ向かっている最中ならば街道で落ち合うことになろう。」

美津葉は祭壇に供えられていた御神酒を小さな盃に注ぐと、それを世里に手渡した。世里はそれを飲み込まずに口に含んだまま少女の目を見て頷くと、急ぎお社を後にした。


 源之丞はほの暗い小部屋の中にいた。どこかで見た風景…そうだ、ここは小平太のあばら家の中だった。目の前には小平太とおぼしき男が床で気持ちよさそうに眠っている。ところがにわかに男は足をばたつかせて苦しみだした。見れば枕元にはざんばら髪の女が膝をついて頭の方から両手で小平太の首を絞めているではないか。一分はもがき続けていただろうか、腕を伸ばし喉を掻きむしりながら小平太は抵抗していたが、やがてごきゅという嫌な音と共に首が折れ曲がり、男は絶命した。

「…エセ……カ…エセ…」

男とも女とも、若者とも老人ともつかない声だった。女の首が壊れかけの人形のようにカクンと傾き源之丞に向けられた。「次はお前だ」とその目が語っていた。

 この泥沼から抜け出さなくては。あばら家の引き戸を思い切り開けた先にすうっと白い光が満ちて彼の体を包み込むと、やがて光は収束し部屋の中にほのかに揺れる蝋燭ろうそくの火の中に溶け込んでいった。

「…ここは…?」

「目を覚ましたか、源之丞。」

少女の声で思考が急速に回転を始めた。意識が明らかになるにつれ、ぼんやりとしていた美津葉の顔もはっきりと輪郭を帯びてきた。それはよく見知った、時にいたずら好きな、時に妙にまじめで、でもとても美しい、源之丞が一番会いたかった大好きな顔だった。

「おみっちゃん!」

がばっと上体を起こす源之丞であったが、その拍子に本殿内のすべての蝋燭の火が一斉にふっと消えた。感動の再会も束の間、お社を覆う空気が重く淀みはじめた。

「源之丞、気を付けろ!」

美津葉は小声で、しかし鋭く言い放った。

「夜のとばりが下りた、来るぞ…!」

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紅鏡に燃ゆ ~討魔剣奇譚~ 水面ひかる @minamohikaru

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