第一話 幽鬼 (ニ)

 それからというもの、源之丞はしばしば美津葉のもとを訪ねてはとりとめもない話に花を咲かせた。初めは彼女の身の回りの世話をしている侍女に怪訝けげんな顔をされたものだが、源之丞が土産にと持ってきた獲れたての鴨肉の味に侍女はあっけなく陥落し、今では鍋を用意して彼の訪問を心待ちしているほどであった。


 この日、源之丞は町に猪肉を卸しに行ったあとに、美津葉の修行が終わる時間を見計らってお社に立ち寄る予定だった。肉屋のオヤジから代金を受け取った源之丞は、空を見上げて日の高さを確認した。


(お社に行くにはまだ早い。)


 彼はぶらりと街中を散歩しているうちに、ふと骨董こっとう屋の看板が目に入り、気になって中に入ってみた。

 薄暗くて埃っぽい店内には遥か西方の国から伝わってきた食器や、海を隔てた隣国「ぼう」の兵士が用いていた槍などが置かれていた。


「何か狩りの役に立つものはないかな。」


と店内を歩き回っていると、古書がまとめられた棚の中に偶然にも興味を引かれる表題を見つけた。『紅鏡神話と地方伝承』という本だった。


九鬼くき鳳仙ほうせん、著か。どんな人だろう?」


源之丞がこの本に惹かれた理由はふたつある。ひとつは美津葉と共通の話題作りである。もうひとつは、彼の父を殺めた妖怪についての手がかりがないかと思ったからだ。


「おやじさん、この本をください。」


源之丞は店の奥にいる年老いた店主に呼びかけた。店主は居眠りから起こされたのか、少しずれた眼鏡をかけ直しながら、


「そりゃいいが、お前さん、その本を読めるのかい?」


と、小ばかにした口調で尋ねた。源之丞は懐から小銭入れを取り出して、白髪しらがの店主に代金を手渡しすると、


「大丈夫、ありがとう。」


と早足で店を出ていった。店主はぽかんとした表情で彼の背中を眺めていたが、やがて頬杖をついて居眠りを再開した。






 お社の庭に面した客間の縁側に腰かけて、侍女が用意したみたらし団子を食べながら源之丞と美津葉は談笑していた。その二人の姿はみられない年相応のもので、裏を返せばこのひと時こそが源之丞と美津葉が子供に返ることのできる瞬間でもあった。


「依代様って自分の体に神様を呼べるんだろう?」


源之丞は先ほど手に入れた本を早速開きながら、興味津々で美津葉に尋ねた。


「もちろんじゃ。」


「それじゃおみっちゃんも神様になれるのか?」


「わたしはまだ無理じゃ。心も体もまだ神様が入ってくるように出来あがっておらんからな。」


「ええ?やってみせておくれよ。」


源之丞はいたずらっぽくねだってみたが、


「駄目じゃ、駄目じゃ!器が完成しておらんのに神降ろしなどしたら、わたしが神様に食われてしまう。」


と、美津葉は恐ろしげな表情と声色で答えると、両手を上げて襲い掛かるような身振りをしてみせた。源之丞は顔は引きらせて、


「く、食われるって…どうなっちゃうんだ?」


恐る恐る尋ねると、


「それはな…」


ずいと美津葉の顔が寄ってくる。


「それは…?」


その迫力に気圧けおされて生唾を飲み込んだ。ひゅうっと冷気が通り過ぎ庭の銀杏いちょうの枝を揺すると、やがて葉がはらはらと地に落ちた。時が止まったかのような沈黙の後…、


「秘密じゃ。」


と、美津葉はさっと三本目のみたらし団子に手を伸ばし、あっという間に口の中に放り込んだ。


「あ、それ!オレの…!」


源之丞が取り返そうとしたときにはもう手遅れで、無残にも裸になったくしには団子の面影おもかげすらも残ってはいなかった。


 その後も「なあ、やっぱり見てみたい!」とか「だーめーじゃー!」などと賑やかな声が庭先に響くその向こう側で、本殿から二人の様子を優しい目で見守る初老の男の姿があった。彼はこのお社の主で、美津葉の修行の師でもある。その名を神部かんべ芳満よしみつという。


「美津葉様はとても明るくなられましたね。」


背後から聞き覚えのある声がしたので振り返ると、そこには侍女の永沢ながさわ世里せりの姿があった。すみれ色の着物が似合う、落ち着いた雰囲気の女性であった。


「初めてあの少年がここに来て、美津葉様に会わせろと言ってきたときは、とんだ不埒ふらち者だと思いましたが…。あんなに美津葉様が心を開いていらっしゃるとは。」


世里は遠くで腹を抱えて笑っている美津葉の姿に目を細めた。


うらやましいかね?」という言葉が老人の喉元まで出かかったが、それは口にするにはあまりにも無粋であろうと、飲み込んだ。聞くまでもあるまい。なにしろ世里が五年ものあいだ献身的に美津葉の身の回りの世話をしてきたというのに、一度も見せたことのない眩しい笑顔があそこにあるのだから。


 それにしてもと、神部は改めて源之丞をまじまじと観察しながら鼻で深く息をついた。


「あの子は少し変わっていると思わんかね。」


と呟くように言った。世里は上目 づかいに神部の顔を見た。


「山の猟師の家に育ったにしては礼儀作法をわきまえておる。世間の事を知らぬかと思えば、字が読める。ご両親は亡くなったと聞いているが、はたしてどのような御仁であったのか…。」


 この老人は深読みしすぎる悪い癖がある。それが他人の事情の詮索せんさくならばなおさらであるが、それを己の腹に収めておくくらいの分別があるところは人ができていると言えるだろう。


やがて、山へ帰っていくからすの鳴き声が遠くから聞こえてきた。


眉間みけんにしわが寄っていらっしゃいますよ。」


という世里の一言で、神部は我に返ってぽりぽりと頭を掻いた。


「ところで世里さんや、その抱えている物はもしや?」


神戸は、世里が大事そうに胸元に両腕で抱えている包みが気になって、指さして尋ねた。


「今夜は猪鍋にございます。」


もちろんそれは源之丞の手土産であった。よだれが出かけた世里は慌てて袖で口元を隠すと、さっと後ろを向いた。

 老人は哄笑こうしょうした。お社の主としては、こうも頻繁に生臭いものを食すのもいかがなものかと思ったが、あまり堅苦しいのは性分に合わない。「いや結構、結構。」とにこやかに執務室へと戻って行った。






 源之丞がお社から住まいの山小屋に向かう、鼻歌交じりの帰路でのことだった。


 目的地までは小さな集落をふたつほど抜けてゆくのだが、ひとつ目の集落の一角が何やら騒がしい。田んぼを挟んだ向こうの民家に人だかりができている。


「珍しいな、普段はこの時間に人を見かけることなんてほとんどないのに。」


 胸騒ぎがした源之丞はあぜ道を通ってその人だかりへと向かっていった。収穫を終え、既に水が抜かれた田の向こうに、陽が沈んだ後の残照を受けて赤紫の雲が漂っている。


 近くまで来てみればすさまじい喧騒けんそうであった。


 叫ぶ者、怯える者、眉をひそめ隣人と小声で話をする者、神に祈る者、用水路に身を乗り出して嘔吐おうとする者さえいた。民家の中で何かがあったようだが、大勢の大人たちが前をふさいでいて、小柄な源之丞が飛び跳ねてもよく見えない。彼は身を低くかがめると、大人の足の間の隙を縫うように這って進んでいった。


 ようやく人だかりの前に出た時、そこに転がっているものを見て源之丞は背筋が凍りついた。


 それはおそらくこの家の住人、であったもののなれの果て。


 暗がりの中に奇形の影が浮かび上がる。寝床で仰向けのまま海老反えびぞりになった胴はそのまま硬直し、まるで三途の川にかかった太鼓橋のようであった。片方の手は首のあたりを掻きむしるように爪を立て、もう片方の腕は虚空に向かって伸びきっていた。眼球は裏返って完全に白目をむき、体は上を向いているのに顔だけが真横を向いてちょうど源之丞と向かい合わせの状態だった。泡を吹き大きく開いた口からは、舌がだらしなく伸びて垂れ下がっていた。


「うわあっ!」


悲鳴を上げ立ち上がろうとしたが、源之丞の腰は完全に抜けていたため、ひっくり返って背中から地面に倒れ込んだ。悪寒おかんが全身を包み込む。全身の毛穴という毛穴から冷や汗が噴き出していた。

 何をどうすればあのようなむごたらしい姿になるのか皆目見当もつかない。源之丞は、心臓の鼓動が直接脳に届いているかのような感覚に陥っていた。呼吸がどんどん荒くなっていくのを止められなかった。


 と、その時、さらに奥の部屋から何かの影がすっと現れたのを見て、源之丞は「ヒッ」と息をのんだが、よくよく見るとその人物は生身の人間であった。

 その壮年の男は鋭い眼光を遺体に向け、しゃがみ込むと物言わぬ民家の主を入念に調べ始めた。


 源之丞はその男が腰に帯びている長い得物に気が付いた。


「…刀、……侍…!?」


鞘に納められてはいるが、間違いない。あれは剣術を極めし者だけが所持することを許された侍の魂ともいえる武器、『刀』だ。


 紅鏡の侍はただの兵士にあらず。古来より練り上げられた紅鏡独自の剣術の体系を熟知し実践しうるものだけが、紅皇からの免状を受けて侍を名乗ることができる。そして侍が持つ刀もその製法は紅鏡由来であり、他国に決して漏れることも模倣されることもない。なぜならば刀鍛冶は同時に国の最高峰の神職であり、世襲で受け継がれた技術によってのみ刀身に神の力を宿す。


 侍と刀は、この国を守護する者なのだ。


 壮年の侍は一通り遺体を調べ終えると、ゆっくりと立ち上がり出口に向かった。足元にひっくり返っている源之丞を一瞥すると低い声で、


「退け。」


と短く言い放った。

 心臓を貫くような鋭い眼光とドスの利いた声に、源之丞は遺体から感じたものとはまったく異質な恐ろしさを覚えた。いうなれば巨大な猛獣を目の前にしたときの恐怖に似ていた。

 彼は情けなくも、カサカサと這いずる蜘蛛くものような動きで男のために道を開けた。それにつられて周囲の大人たちも、出口まできれいに左右に分かれて整列し侍は悠然とその間を通り建物から出ていった。彼は外で庄屋らしき人物に一言声を掛けた。


「十中八九、呪殺だ。」


源之丞の耳にはそう聞こえた。庄屋の顔は怯え切っていて、去りゆく侍の背に向かって懇願することしかできなかった。


 決して振り向くことのない男の姿は、やがて夕闇に溶け込むように消えていった。






 源之丞は逃げるように走って山小屋へ帰ったが、道中まったく生きた心地がしなかった。自宅の中でさえも安心感などどこにもなく、夕食時をかなり過ぎているのにまったく食欲がわかない。

 獣の油で作った蝋で灯りをともしたまま、寝床に潜り込むも体はぶるぶると震えていた。普段は聞きなれているはずの風が木々を揺らす音さえ恐ろしい。


(どうしてあんなものを見てしまったんだろう。)


 脳裏に焼き付いた死体の姿を思い出すたびに大きく身震いした。もしかすると、目を開けばもしかしたらあの死相が目の前にあるのではないか、そんなことを考えずにはいられなかった。

 一度そう意識してしまうともう目は開けられない。戸締りの確認もかわやに行くのも無理だ。このまま寝てしまいたいところであったが、肉体は疲労困憊しているはずなのに、あの光景がまぶたの裏にちらついてなかなか寝付けない。再び心臓の鼓動が早くなっていくのを感じる。地獄だった。


 だがふと、あの侍のことを思い出した時、源之丞の中から不思議と恐怖は消え去っていった。確かに男の放つ覇気には恐れを抱いた。しかしその凛とした佇まいと風格は、異形のモノを決して恐れず、邪な存在を打ち払うかのような気配に満ちていたのだ。


 自分もあのような強さを身に付けられたなら…。


 そのようなことを考えているうちに、源之丞は深い眠りに落ちた。

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