第一話 幽鬼 (一)

 黄色みを帯びた陽の光が傾き、秋の深まりを伝えたある日の午後のことであった。皇都こうとの外れにあるおやしろの裏山に、大きな柿の木が立っていた。高さは七米しちべい(※一米いちべい≒1メートル)ほどもあろうか。たわわに実った無数の柿の実が木漏れ日に照らされて、黄金こがね色に輝いて見えた。


 その太い幹から力強く伸びた枝の中ほどに、ひとりの少年が腰を掛けて柿の実を無心にほおばっていた。歳の頃は十かそこら、しかしその顔つきからは子供らしいあどけなさは抜けて、たくましさが感じられた。小柄なその少年は山の狩人のいで立ちをしていた。肩に担いでいる弓がよく手入れされている様子から、その子が一人前の狩人であることがうかがえる。


「柿泥棒がおる。」


不意に足下から声を掛けられて少年は我に返った。

 視線を落とすと、小ぎれいな少女が彼の方を見上げていた。歳は同じくらいか彼より少し年上であろうか。彼女もまた子どもらしからぬ落ち着きのある顔つきで、よく見れば神職らしき羽織をまとっていた。どうやらお社に仕える身分のようだ。


「この柿の木はお社のものか?」


少年はきまりが悪そうに少女に問いかけて、「自生のものだと思っていた。すまなかった。」と謝り、申し訳なさそうに食べかけの柿に視線を向けた。


幼い巫女は小さく息をつくと、


「裏山ひとつがまるごと敷地だと知っておる者も少なかろう。」


やれやれといった表情で、お社の方角を振り返った。

 確かにこの場所は本殿からはだいぶ離れた小高い丘の上にあった。こに至るまでの山道はけもの道のように荒れていて、手入れが行き届いていない様子であった。

 しかしこの丘から眺める景色は実に美しいもので、皇都を眼下に遠く港町まで一望でき、天気がよい日であれば黄金の水平線の彼方に夕日が沈んでいく様まで見られる。少女にとってお気に入りの場所であった。


 彼女は手の届く高さにぶら下がった柿の実をひとつもぎ取って口にした。


「うむ、ちょうど良い甘さじゃ。」


満面の笑みを浮かべた後に再び少年を見上げて、小さく手招きした。


「降りてきて、いっしょに食わぬか。話をしよう。」


少年はすっかり神主に言いつけられて折檻せっかんされるものと覚悟していたので、その申し出に大変驚いた。


「怒ってはいないのか?」


「見よ、柿の実は私ひとりでは食いきれぬほど成っておる。どうせ余った実はカラスだの山猿だのに獲られてしまうのじゃ。」


緊張でこわばっていた少年の表情が緩んだ。彼は「それじゃあ」と、腰かけていた枝から飛び跳ねると、山猿のような身のこなしで軽々と地に降りた。少女は目を丸くして「ほお」と声を漏らした。


 並んで向き合ってみれば、ふたりの背丈は同じくらいであった。ふと一陣の風が吹き抜け、足元に寝ていた色とりどりの落ち葉が舞い踊った。


「オレの名前は源之丞、穂高源之丞ほたかげんのじょうだ。見ての通り、猟師をしている。」


「穂高源之丞か、良い名じゃな。私は美津葉、東雲しののめ美津葉みつは。お社で修行中の身じゃ。」


 源之丞は山育ちだが、肉や皮を町に卸しに行くから人との交流はある。決して女子おなごが苦手というわけではないが、目の前の少女がまとおごそかな気配に不思議と吸い込まれそうになっていた。深い琥珀こはく色をした瞳、その中に湛えられた光が夜空の星に変わっていく…。

 はっと我に返ると、源之丞は慌てて目をそらし、


「で、では美津葉どの、そこらに座って食べよう。」


と、手ごろな平たい岩場を見つけて腰を下ろした。


 (どの、とは猟師の子にしては堅いな)と美津葉は思った。立ち居振る舞いや考え方が山の子のそれではない。加えて彼女は、この少年の持つ独特の気配を感じ取っていた。いささかの興味が湧いてきた。


「さっきは泥棒呼ばわりしてすまなかったな。」


美津葉は源之丞の隣にストンと座って言った。


「ああ、いや、元はオレが悪かったんだ。気にしないで。」


 二人はしばし落ち葉の絨毯じゅうたんに囲まれた岩場の上で、柿に夢中になっていた。静けさのせいか、川のせせらぎがいつもより大きく聞こえる。


「美津葉どのは何の修行をしているんだ?」


不意に源之丞が尋ねた。


依代よりしろ様のことは知っておるか?」


と美津葉が聞き返した。源之丞が何のことかわからなさそうな顔をしているので、彼女は続けて説明した。


「この国『紅鏡』を治めているのが紅皇こうおう様で、その紅皇様に神様のお告げを伝えるのが依代様じゃ。皇室が神事をもよおす際には必ず依代様が儀式を執り行うのじゃ。」


「う、うん?」


「わたしは次の代の依代になるための巫女修行をしておる。」


源之丞は目を丸くした。


「じゃあ、もしかして美津葉どのはとても偉い人なのか!」


美津葉は声を上げて笑うと、


「偉いかどうかは知らん。ただ依代様のおつとめはとても大切なものだと思っておる。」


そう語る彼女の顔は誇らしげであった。


 お社に巫女として修業に入るというのは、親元を離れて生活することを意味している。依代の候補に選ばれるのは、神託しんたくを受け取るための霊力を持っていると認められた娘だけであり、一代につき片手で数えられるほどしかいない。親元を離れて厳しい修行の日々を繰り返す末に、挫折してしまう者も少なくない。美津葉が歳のわりに大人びているのも納得のいく話である。



「次は私が尋ねる番じゃな。源之丞はこの辺りの猟師か?ご家族は?」


源之丞が一瞬 うつむいて唇を噛み締めたように見えた。顔を上げると、彼はわざと声色を上げるように、


「家族はいない。」


と一言答えた。


「え…それは…」


決して美津葉に悪気があったわけではないが、予想していなかった応えに、触れてはいけないものに触れてしまったのではと彼女は申し訳なく思った。

 しかし当の源之丞は自身でも驚くくらい穏やかな気持ちであった。幼くして親と離れ離れになった美津葉に親近感を覚えたのもあったろうが、誰かに話すことで自分の孤独を少しでも埋められるのではないかと思ったのだ。


「母さんは二年前に不治の病で死んだ。その後は父さんがオレに猟を教えてくれた。母さんがいないのは寂しかったけど、父さんと一緒に狩りをするのは楽しかった。何より、オレが腕を上げたのを見て、父さんが褒めてくれるのが本当にうれしかった。でも…その父さんも去年の夏に、猟の最中に森の妖怪に襲われて…俺をかばって死んだ。」


美津葉はただ黙って源之丞の話を聞いていた。


「それからはずっと独りだ。」


辛さを隠そうと精一杯強ってはみたが、言葉にしてしまうとやりきれない想いが溢れてきて彼は顔をそらした。情けない顔を美津葉に見られたくなかった。優しいそよ風が目じりを乾かすのをただただ待っていた。

 

 ふと、地面に付いた源之丞の手に暖かい感触が伝わってきた。見るとそこに美津葉の華奢きゃしゃな手が重ねられていた。


「源之丞、友達になろう。」


美津葉は源之丞の手を握って立ち上がった。つられて源之丞も立ち上がる。


「勘違いするな、決して可哀そうとか、情けをかけているわけではないぞ。わたしの周りに同年代の子がおらんで寂しかったのじゃ。」

 

 急な申し出に源之丞は驚き、戸惑いを隠せないでいた。

 

 そもそも紅鏡には明確な身分制度があり、平民と貴族が仲良くなることなど考えられない。もちろん禁じられているわけではないが…


「オレと美津葉どのでは住む世界が…」


「同じじゃ!」間髪入れず美津葉は叫んだ。


「見よ、この美しい世界を、皇都の街並みを、広い海とそこに沈みゆく夕日を。全部わたしと源之丞が共有しているのだ。同じ世界で今を生き、こうして話をして、手をつないでいるではないか。」


その力強い言葉によって、源之丞は何か自分の中にある運命の歯車のようなものが回り始めたのを感じた。


「今日から源之丞とわたしは友達じゃ。」


屈託のない笑顔だった。美津葉の中ではそれはもう確信だったのだ。

 孤独から解放された喜びが、源之丞の頭の中で渦巻いていた些末な迷いごとも、照れくささをもすべて吹き飛ばした。


「ああ、友達だ。」


彼は握られた手を力強く握り返した。まっすぐに自分の目を見つめる源之丞に、美津葉はこくりと頷いた。そして、


「ならば美津葉『どの』はもうよせ。堅苦しくて仕方ない。」


と軽くたしなめた。源之丞は照れくさそうにして、


「じゃあ、おみっちゃんて呼んでもいいか?」と尋ねた。


美津葉は呆けたような顔で固まった。その反応に源之丞も固まってしまった。


「…馴れ馴れしすぎたか?」


焦る源之丞に美津葉は首を横に振った。

 彼女の脳裏に幼いころの思い出が次々と蘇っていた。『おみつ』と呼びかける優しい両親の姿、穏やかな日々。美津葉がお社に入る日、気丈なはずの両親は泣いていた。「おみつ、元気で。」という言葉を最後に、もうそれ以来、直接両親と言葉を交わす機会はなかった。


 美津葉もまた、孤独だったのだ。気付けば美津葉の頬に一筋の熱いものが零れていた。


「え?ちょ…どうして…??」


源之丞は困惑してあたふたしている。何か悪いことをしてしまったのかと、ばつが悪そうな彼の様子を見て、今度は急に笑いが込み上げてきた。美津葉はそでで顔おぬぐうと、ケタケタと腹を抱えて笑い転げた。源之丞はわけがわからず「ええ…」と漏らして脱力するしかなかった。


美津葉は息を整えるように深呼吸すると、にっこり微笑んで言った。


「今日はお前に会えてよかった。ありがとう、源之丞。」


「オレの方こそ、ありがとう。これからよろしくな、おみっちゃん。」


 もう色が濃くなった南東の空高く、一筋の光が流れた。

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