第一話 幽鬼 (三)

 翌朝になれば、それでも源之丞は狩りに出ねばならない。


 両親を亡くした孤児が生き伸びるためには、一度孤児院に引き取られた後、どこぞの貴族の屋敷に奉公人として召し抱えられる道もあるだろう。しかし幸か不幸か、彼には父親が伝え残してくれた狩りの技術があった。源之丞は猟師の道を選んだ。たとえそれが過酷な生き方であったとしても、父との繋がりを忘れずに感じていられるからだ。


 源之丞は身支度を済ませると、弓と矢筒を手に取り小屋を出た。空は灰色の雲に覆われていて薄暗く、少し肌寒かった。


 山小屋から沢へ降りて小川を二つばかり越えたところに、古い時代に建てられた小さなほこらがあった。そこから先が源之丞の狩場だ。

 その祠が何をまつっているのかはわからないが、そのかたわらには源之丞の両親の墓がある。この場所は彼にとって神聖なものであった。


 源之丞は祠の前でそっと手を合わせた。


(山神様…父さん、母さん、どうかオレを守ってくれ!)


 恐ろしい体験をしたせいだろう。いつもより手を合わせる時間が長くなってしまった。

 源之丞は弓をぎゅっと握りしめると、「よし!」と自らを鼓舞するように息を吐き、意を決してやぶをかき分け鬱蒼うっそうとした木々の中へと飛び込んでいった。






 ところがその日の狩りの成果はさっぱりだった。

 

 二時間ほど山の中を歩き回ったが、生きものが活動した痕跡が全く見当たらないのだ。こんなことは本当に珍しい。

 源之丞はかがみこんで足下に残されている鹿の足跡をよく調べた。土が深くえぐれているのは雨でぬかるんでいる時に踏みつけたからだ。それが乾ききっているということは、最近つけられた足跡ではない。ここ数日は晴天が続いていた。


「外れか……」


彼は落胆した。集中力が途切れたとたん、空腹感に襲われた。 


 一息ついて早めの昼飯にしようと、源之丞は山道の折り返しにある見晴らしの良い場所に適当な岩を見つけると、そこに腰を掛けた。革袋の中から干し肉を取り出し、それを口の中に放り込み、何度もんでから、竹筒の水で一気に腹の中に流し込んだ。


 とても静かだった。


 いや、静かすぎる。鳥のさえずり、川のせせらぎ、木々の枝の揺れ、普段聞きなれている当たり前の音すら聞こえてこない。この異常さに気付いた瞬間、源之丞は過去に同じような状況に遭遇そうぐうしたことを思い出していた。

 それは忘れもしない、深い森の中で巨大な白い狐に襲われた日……源之丞が食われそうになった瞬間、父が身代わりになって深い傷を負いそのまま死んでしまったあの日とまったく同じ状況だった。


 ハッと我に返ったとき、それは突然源之丞の目の前に現れた。


 因縁の存在、しかし記憶にある強大な体躯にくらべると遥かに小さい。普通の狐と変わらない大きさだ。しかしその身にまとう妖気と、印象的な赤い目はまさにヤツのそれであった。まさか子供だろうか。


 源之丞はゆっくりと立ち上がった。その日初めて出会った獲物、というわけではない。むしろこちらが獲物なのかもしれないのだ。緊張が走り、そっと背の弓に手を回す。と、その気配に感づいた狐は踵を返すと、木々の間にまぎれて奥の方へと逃げていってしまった。

 だがその姿が茂みに消える寸前に、源之丞はきらりと光る何かを見た。間違いなく金属が光を反射したものだ。


 1年前のあの日、確かに父が放った矢があの獰猛どうもうな化け物の尻尾のひとつを射抜いて宙に飛ばしたのを覚えている。そのおかげで奴の動きは一瞬止まり、源之丞は命を救われたのだ。

 もしやその矢じりがまだ体から抜けずに残っていたのだろうか。だとしたらあの巨体が小さくなった理由は何だろう。源之丞の頭は多少混乱しつつも体はすでに動き出し、小さい狐が消えた方向に向かって走り出していた。






 追いかける先々で、その白狐は源之丞の前に姿を見せてはまた山の奥へと逃げていくことを繰り返した。それはあたかも彼を山の奥へ奥へと誘い込むかのようであった。しかし源之丞は狐を負うことに夢中であった。時々見える金属の光は、もしかしたら亡き父が遺したものかも知れないのだ。


 陰鬱いんうつとした笹薮ささやぶを抜けると急に視界が開けた。辺りを見回してみると、そこは異様な雰囲気に包まれていることに気付く。雨風を凌ぐ程度の囲いや藁葺わらぶき屋根の住居と思しき残骸がいくつか見られるのだが、辺りに人の気配は全く感じられない。既に廃墟と化していた。


(こんなところに人が住んでいたなんて……)


 源之丞はかつて父から聞いた話を思い出していた。何でも、紅皇の威光に従おうとせず戸籍を与えられない流浪民が、山中に身をひそめ定住せずに流浪の生活をしているのだとか。確かその部族の名を『浪山ろうざん』といった。


 源之丞の歩みが止まった。真正面にあの白い狐の姿を見つけたのだ。彼は殺気を悟られないようにゆっくりと矢筒に手を掛けた。だが次の瞬間、信じられないことに狐は近くにあった井戸の中にぴょんと身を投じたのだ。「しまった!」と源之丞は駆け寄ると井戸の中を覗き込んだ。

 井戸はどこまでも深く、真っ暗で狐の姿は見えないし、どうなったのかもわからない。冷気がふわっと吹き上げてきて、源之丞の頬を撫で上げた。その気色悪さに彼の腕に鳥肌が立った。

 何か音が聞こえる。

「鳴き声…、いや、泣き声…!?」

耳を澄ますと、井戸の中で微かに反響する声があった。赤ん坊の泣き声のようだ。馬鹿な、このような廃墟に赤ん坊ひとりが置き去りにされているはずがない。だが、もし赤ん坊が井戸の底で生きているならどうにかして助け出さないと…。

 囲いの横に立っていた木の枝がミシッと鳴った。源之丞はハッと顔を上げ音の鳴った方を見上げた。「ヒッ」と短く息を吸ったまま、彼の呼吸は止まり胃袋がぎゅうっと絞られるのを感じた。

 枝から吊り下げられていたもの。ざんばら髪でボロ雑巾のような服に身を包んだ女の首吊り死体。皮膚は変色し、所々烏か何かについばまれたような跡があり腐敗した肉が赤黒くむき出しになっている。

 それがただの死体であれば、源之丞は悲鳴を上げながらすぐにでもその場から逃げ出せたに違いない。しかし彼にはそれができなかった。何故なら、その女は確かに死んでいるはずなのに、大きく見開かれた目は紛れもなく源之丞に向けられていたのだ。蛇ににらまれた蛙のように、彼の体はすくみ上り、一歩も動くことができなかった。その刹那、

「はははははははははは!」

女は彼を見下ろしたまま大きく口を開き、さもおかしそうに大声で笑い始めたのだ。ただ、ぎょろりと見開かれた目だけは全く笑っていなかった。あまりの出来事に源之丞は気を失いそうになった。しかし井戸の端に頭をぶつけた痛みで我に返ると、彼は脱兎だっとのごとく駆け出しその場を離れた。背後では狂乱の笑い声が薄暗い廃墟にこだまし続けていた。


 どうにかこうにか自分の縄張りまで戻ってきた彼はひどく混乱していた。正直どうやってここまで帰って来られたのかも覚えていない。この出来事を誰かに語ったとして、どうして信じられようか。竹筒をひっくり返してみたがもう一滴も水は残っておらず、彼は川の水を手ですくうとごくごくと音を立てて飲んだ。ようやく人心地ついて、

「明日、おみっちゃんのところに行こう。」

と、ぼそっと呟いた。

 先ほど見たものが物の怪か何かであれば、神部に相談すれば何かわかるかもしれない。獲物は手に入らず、二日続けて恐ろしい目に遭ったうえに山中を必死に駆け下りてきたのだ。身も心もぼろぼろであった。源之丞はとぼとぼと山小屋へと帰って行った。


 その夜、源之丞は夢を見た。あの白い狐を追いかける夢だ。ちょうどあいつを見つけた岩があった場所に彼はいた。昨日と同じように白い狐は岩の上に立って源之丞を見ている。ふと足下から赤ん坊の声が聞こえたような気がして、身の回りをきょろきょろと探してみたがそんな姿は見当たらなかった。視線を元に戻した時、岩の上にはもう狐はおらず、代わりにあのざんばら髪の女が鬼の形相で源之丞をにらんでいた。そこで目が覚めた。

 額に汗がにじんでいる。気が付けば背中もびっしょり濡れていた。最悪の目覚めだ。幸いその日の天気は良好で、小窓から差し込んでくる朝の日の光が眩しかった。外からは小鳥のさえずりも聞こえてきた。

 源之丞は早々に川で水を浴びた後、山を下りてお社に向かった。道中、風邪でも引いてしまったか急に頭痛がしてきて足取りが重くなった。悪夢でうなされたせいか、よく眠れなかったのだ。

 お社の鳥居をくぐり境内に足を踏み入れると、シンとした静けさに身を包まれた。空気はピリと張り詰めているがむしろ適度な緊張感が心地よく、体の血流から思考までもが正しい方向に矯正されるような感覚があった。先ほどまでの頭痛も嘘のように消えているではないか。

「あら、こんな早い時間に来るのは珍しいわね。」

境内の掃除をしていた世里のしとやかな声に呼び止められた。

「世里さん、おみっちゃんはいますか?」

「今日は神部様と霊事院りょうじいんにお出かけになられていますわよ。」

うっかりしていた、と彼は額に手を当てた。そう言えば、この日は用事で不在にするという話を美津葉から聞いたのをすっかり忘れていたのだ。余程の困り顔と見て取れたのであろう、世里は源之丞の隣にしゃがみ込むと、

「何かあったの?」

そう優しく尋ねた。「実は…」と彼女に昨日あった出来事と夢の話をすると、世里は心配そうに、

「明日のお昼前にはお二人は戻られる予定だけれども…。今日はお社に泊っていたっら?」

と勧めてくれた。

 しかしさすがにそれは悪いと源之丞は遠慮して、

「明日また来るよ。」

と、そそくさとお社を後にした。


 山小屋へと戻った彼は手持ち無沙汰だった。とてもじゃないが、昨日あんな目に遭っては山に入る気にはなれない。どうしたものかと思案しているうちに、ふと先日手に入れた本が目に入った。

 何の気なしにパラパラとめくってみると、後半に「神と似て非なる物」という見出しがあり、その中に「幽鬼」という項目があったのを見つけた。幽鬼とは死してなお現世に留まろうとする死者の霊魂であり、その未練の中身によって無害なものと有害なものに分かれ、また未練の強さによってその霊障の度合いも変わってくるらしい。

 背筋に寒いものを感じ、源之丞はぱたりと本を閉じた。表紙に書かれている「紅鏡神話と地方伝承」という題名と九鬼くき鳳仙ほうせんという著者の名前をぼんやりと見ながら、彼はやはりお社に泊めてもらった方が良かったかと後悔した。

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