第8話 夢見る筆先(3)

 あの万年筆は消えてしまったんだ、と。申し訳なさそうに伯父が口にした言葉の意味を、墨田は直ぐに理解できなかった。


『これだけは分かってほしい。決して雑な扱いをしたわけではない。自分を正当化する為の言い訳ではなく、これは頂いたものへの誠意として断言する』

『でも、失くしたんですよね』

『……結果的にはそうなる』


 予期せぬ事態は墨田の感情を揺らし、自身への後悔が伯父への苛立ちへと入れ替わる。自身の行いを棚に上げて遠慮もなしに事実をぶつけてしまったが、伯父はそんな不躾な墨田の態度に怒りもせず素直に非を認めた。余計な事は言わずただ静かに頭を下げる姿を見て、ハッとするように冷静さを取り戻す。そもそもの原因は墨田であり、到底責められる立場ではない。慌てて謝罪をすれば、互いに頭を下げる奇妙な光景が出来上がった。


『君のお父さんから譲ってもらった万年筆はここにしまっていた。けれど翌日になると消えていたんだ』


 伯父がガラス蓋の付いた木製のコレクションケースを机の上に置く。それぞれがぶつからないようスエード調の仕切りの付いたそこに、一本分の空きがある。それも最も目立つであろう中央だ。このようなケースを見せられてしまえば伯父が万年筆を大切にしているであろう事は明らかで、粗雑に扱うとは考えられない。最初に受けた説明の通り大切にするはずだったのだろう。

 万年筆が無いと気付いた伯父は、まずは自身の不注意を疑い部屋中を探したが見つからなかったそうだ。次に家族が筆記具を必要として適当に選んで手に取ったのではと確認したが、こちらも違った。ならばと空き巣の可能性も考えたが他に紛失したものはなく、何より侵入された形跡もない。そもそも仮にそうだとしても被害が万年筆一本など有り得ないだろうと、これも違うと結論付けた。完全に行方を見失ったことを認めて、伯父は謝罪の連絡をしたという。

 それは、墨田が伯父を訪ねる一週間ほど前のことだった。




「父は責めなかったそうです。あれだけの熱意を見せていた伯父が粗雑な扱いをするはずがないから、と。結局見つからないまま、今に至ります」


 何故失くなったのかは、今でも分からない。暫くは伯父とも連絡を取り合っていたが、やはり彼の自宅から万年筆が見つかることはなかった。

 父が受け入れたのなら、そこで終わりでも良かったのかもしれない。しかし絡み付いた罪悪感がそれを許さず、骨董屋巡りを始めたのだ。室内で紛失したものがどうすれば市場に出回るのかは疑問であるが、何か行動を起こすことで墨田は自身を肯定したかった。いつの間にかそれすらも惰性になってしまったが。


「帰りたかったんですよ」

「え?」

「その万年筆は父君の手に帰りたかったんです」


 静かな声色が、墨田の後悔に滑り込む。過去を漂っていた思考が引き上げられた。


「おや、物には魂が宿ると耳にしたことはありませんか? 我が国には付喪神なんて概念もあるくらいだが」

「それは知っていますが、あくまで思想の話ですよね。何の関係が……。まさか自分から逃げ出したとでも?」


 絵巻物で見るような草履に手足が生えた姿が頭に浮かぶ。まさか万年筆にも足が生えて自ら逃げ出したとでも言うつもりだろうか。馬鹿にしているのかと苛立ちが芽生えかけたものの、紬の雰囲気からは全くそのような気配はないものだから墨田は反応に困る。

 もしかしたら不可解な内容は話を逸らす為だろうか。無理なら無理とはっきり言ってくれた方が気が楽である。今回も駄目だったのだと墨田には諦めが浮かんでいた。


「付喪神は百に届く年月を経て至ると言われますが、大切に想う心は時間に比例するものではない。手にしていた時間が短いから大切なものではないなんて思わないでしょう? だから父君の万年筆のように百に満たない物であっても、持ち主に寄り添いたいと願うこともある。とは言え付喪神に比べれば、その力は微々たるものですがね」


 足が生えて逃げ出す訳ではないけれど、と紬は墨田の想像を否定する。口にしていないのだから伝わっているはずもないが、幼稚な発想を言い当てられた気恥しさにそっと目が泳ぐ。


「けれども極稀に、そんな細い糸を手繰るように縁を引き寄せるものがいる」

「紬さん、まどろっこしいですよ」

「おや、これは失礼」


 不意に呆れたような溜め息が届く。そちらを見れば阿近が顔を覗かせていた。墨田がちらと窺えば会釈が返ってくるが、不必要に口を挟む気は無いらしい。

 阿近からの指摘に紬は一度口を閉ざすと、肩を竦めて小さく唸り声を漏らす。何か分かりやすい例えはないか、と逡巡しているようだった。


「そうですねぇ。帰省本能とでも言いましょうか」

「帰省本能?」

「人が物を大切に思うように、物だって持ち主を大切に思うのです。そばに居たい、使われたい、とね。そういう両者の想いが互いを引き寄せ、時として縁を結び直す。――この《よすが堂》はその為にあるんですよ」

「互いを、引き寄せる……」

「その通り。だから父君とその万年筆への想いを募らせた貴殿がこの店を訪れたのも必然ということ。後は縁を辿ればいい」


 唇にゆうるりと笑みを乗せた紬が、墨田を捉えてはっきりと頷く。それは大丈夫だと言われているようで、根拠もないのに安堵を覚えた。


「うちにも万年筆は幾つか取り扱いがあります。貴殿がお探しの万年筆はどのようなものかな?」


 紬の言うことは不可解な部分も多く理解しきれてはいないが、今日この日に何かが変わるだろうという予感がした。

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