第9話 夢見る筆先(4)
どんな万年筆を探しているのか。紬の問い掛けに答える墨田は慣れたものだった。ブランドや型番、それは骨董屋を巡る度に何度口にしたか分からない。メモなどなくてもすぐに答えられる程だ。
「――嗚呼、そういう文字情報は不要ですよ」
「え、しかしそれでは……」
しかし紬はそのような情報など不要だと言う。
「さぁ、貴殿の探す万年筆を思い浮かべて、記憶を蘇らせて。その万年筆の色や柄はどのようなものでしたか? キャップは? インクは? それを使う父君の様子は?」
次々に質問を重ねられているというのに、押し付けられるような不快さはない。むしろ埋もれた記憶をそっと拾い上げられるようで、言葉が紡がれる度に不思議と気持ちが凪いでいく。ゆっくりと誘われるように、幼き頃の記憶が呼び起こされていった。
カリカリと用紙を走る音がする。机の上には洒落たインク瓶。青地にまだら模様の万年筆は海原を写し込んだように美しい。そんな万年筆を使って文字を書く父をかっこいいと思っていた。父が小説を書いている姿を見たことはなかったし、そもそも小説家を目指していた事すら当時は知らなかったけれど、手紙など大切なものを書く時は決まってあの万年筆を使うことは知っていた。万年筆を見つめる父はいつだって嬉しそうで、宝物なのだと笑う父の姿を覚えている。そうだ、だから自分は――。
はっとして顔を上げれば、ゆるりと笑んだ紬と目が合った。
「貴殿の想いは十分に伝わったようです。――さぁどうぞ。これがうちで用意できる品ですが、如何ですかな?」
カタリと小さな木箱が墨田の前に差し出される。視線に促されて蓋を開ければ、そこには一本の万年筆が収められていた。覚えのある海原。探しているものと同型だ。逸る気持ちを抑えて手に取ったそれは、見た目よりもずっとずっと重く感じられた。
「……あ」
くるりと万年筆を回した時だった。墨田は思わずとばかりに声を漏らす。視線の先には小さな引っ掻き傷があった。
「これ……」
「嗚呼、それは私が引き取った時にはもう付いていた傷でしてね。やはり気になりますかな?」
「いえ、そういうことではないです。むしろこの傷……。これ、これなんです。そうだ、これが……!」
指先が震えて万年筆を落としそうになり慌てて握り直す。鳥肌が立った。目頭が熱い。気を抜いたら感情が溢れ出してしまいそうで、唇をぐいと引き締めた。だから墨田は黙り込んだままだったが、紬は急かすことなく待っている。
「この傷は、幼かった頃の私が付けたものなんです。父のね、名前を掘ろうとしたんですよ。宝物だと大切にしていた万年筆だから失くしたら困ると思って。あの頃は両親が私のおもちゃには何でも名前を書いてくれていたから、それが良い事なのだと思っていた」
「成程。この傷は名前だったのですね」
「ええ。でも結局は不格好な引っ掻き傷を作ってしまっただけ。きっと悪戯に見えたでしょうね。でも上手くいかなかったと私がわんわんと泣くものだから、父も怒るタイミングを失ったみたいで。落ち着いてから話をしたのですが、その時も父は怒りませんでした」
「父君は傷が付いた事実ではなく、その行動を起こすに至った貴殿の心を汲んだのでしょう」
大切にしていた万年筆に傷が付いたのだから悲しかった筈だ。怒りたかった筈だ。けれど墨田の父は「これで失くさないな」と、穏やかに笑って墨田の頭を撫でた。
言葉にすると思い出はより鮮明になり、墨田の胸がジクリと痛む。手放させた事への罪悪感が一層募るようだった。握り締めた万年筆、そこに走る傷の凹凸が指先に引っ掛かる。
「あの! この万年筆を買い取らせて頂いても宜しいですか?」
「ふふっ。勿論ですよ。持ち主の手に帰るのは私としても喜ばしい事。どうぞお持ち帰り下さい。お代は不要ですよ」
「え? いや、それは流石に」
「おや、落し物を落し主に返すのに金銭を要求などしませんよ。――墨田さん。その万年筆が貴殿の手の中にあるのは、貴殿の想いが引き寄せたからだ。さぁさぁ早く父君に帰してあげるといいでしょう」
しかし墨田は食い下がる。恐らくはこの万年筆も店の商品として管理していたのだろう。ぐるりと店内に並ぶ品々を見渡した。だから墨田以外の手に渡ったならば、正しく金銭が発生した筈なのだ。そう考えるととてもじゃないがタダで受け取るわけにはいかないが、一向に頷かぬ紬を前にして墨田が観念するしかなった。
「で、では、せめて何かお礼をさせて下さい」
「礼、ですか。ふむ……、嗚呼そうだ。もしも父君の作品が何か残っていたなら、私を読者にさせて頂きたい」
微笑む紬は隅田よりも年下なのに、まるで見守られているような安心感と温かさがある。これまで幾つもの骨董屋を巡って来たが、思い返してみればここまで自分の事情を説明した事は無い。何故今回こんなにも自らを曝け出したのか。好んで話したい内容でもないのに口にした忌避感もなく、それどころかスッキリとした心地すらある。
紬は度々《縁》という言葉を用いた。ならば女子高生の噂話を耳にしたのも、阿近によすが堂へ導かれたのも、紬に出会ったのも、全て縁によるものなのだろうか。そもそも今日この街を訪れた事自体そうであるならば、縁とは本当に異なものである。
大切にしまい込んだ万年筆を鞄越しにそっと撫でる。早く父に返したい。そうして今日の不思議な話をしよう。もしかしたら元小説家志望の血が騒いで、この万年筆で筆を執る姿を見られるかもしれない。それはとても楽しそうだ。堪えきれなかった笑い声を聞いた通行人がこちらを見ていたが、そんな訝し気な視線も気にならない。墨田の心も足取りも、店を訪れる前とは比べ物にならない程に軽かった。
*
社に供えるように茶封筒が置かれていた。宛名には紬の名が、送り主には覚えのある名が。間違いようもなく紬への贈り物だった。封を切れば中身は原稿用紙であり、今時珍しく全てが手書きである。一文字一文字が丁寧に綴られた文章を読み進めてみれば、どうやらそれは物語らしい。内容には何処と無く既視感があった。
「紬さん、何を読んでるんですか?」
「これかい? とある親子が宝物を探しに行く冒険譚さ」
それは、きっと遠くない未来に訪れる楽しみの一つである。
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