間章
第10話 10話 誰がための紡歌(1)
開け放たれた戸からは、ヒヤリとした冷たい空気が容赦なく入り込んでくる。窓の側ならば陽光が差し込み温かいが、そこに留まってばかりもいられない。阿近は掃除用具を手に店内を動き回っていた。
「紬さーん、そっちは終わりましたか?」
「んー。んー? 勿論だともー」
届いたのは気の抜けた返事だ。その声色に予想をつけつつも倉庫を覗いてみれば、紬は風呂敷の上に乱雑に積み重ねた蔵書の山に埋もれ、のんびりとその中の一冊を読み耽っていた。途中までは問題なく作業をしていたのだろう。書棚のごく一部だけは綺麗に整頓されている。しかしその途中で紬の気を引く一冊に出会ってしまったようだ。
「掃除中に気を取られないで下さいって、いつも言ってるじゃないですか!」
「いやぁ、覚えのない書物に出会ってしまってね。なら話を聞かなくてはならないだろう?」
「覚えのない? うーん、それは、まぁそうですけど」
ただサボっていた訳では無いと訴える紬に、それならばと阿近も納得せざるを得ない。持ち主との縁を求めて紬のもとを訪れる《物》は珍しくなく、その訴えに耳を傾けるのは彼の仕事である。しかし、紬が普段から何かしらに気を取られて掃除が完遂しない事は補足しておこう。
「これはかなり古い日記だよ。残念だが持ち主はとうに亡くなっているだろう」
「じゃあ、その日記には帰る場所がないということですか?」
「そうだねぇ。日記というのはプライベートなものだ。自分は日記を書いているなんて大々的に触れ回る事はあまりないだろう? 故に本人に近しい者ですら求めるかどうか、そもそも存在を知られているかすら怪しい代物だ」
「そんな……」
「おや、そう悲観するものでもないさ。縁とは思わぬ繋がりを見せるもの。もしかすると家族や友人に由来する何かを求める誰かがいるかもしれない。或いは百年も経てば先祖の歴史を求めた子孫の手に渡る時が来るかもしれない。持ち主でなくとも強い想いを抱くことで縁が結ばれる事はあるものだ。阿近君にも覚えがあるだろう?」
確かに先日訪れた墨田のようなケースもある。墨田自身が所有者ではなかったけれど、求める想いは非常に強かった。
しかし、と。それでも行き場のない日記を思うと阿近の表情は曇る。この店には寄る辺を求めて様々な《物》がやって来るが、持ち主と縁が結ばれない事も多い。残念ながら物と持ち主とが互いに求め合わなければ縁は結ばれないのだ。故にこの日記の境遇も珍しくはない。けれども、だからといって無感情でそれらを迎え入れるのは違うと阿近は常々考えている。紬がよく倉庫に籠るのとて、暇潰しを自称しているがそんな物達が退屈しないようにだろう。
「難しい顔をしているね」
「え? あ、いえ……」
「不安かね?」
「……そういうわけでは。ただ、帰るべき場所を知っているのに帰れないのはもどかしいな、と」
素直に憂いを口にする阿近に、紬が相槌を打ちながら続きを促す。帰る場所を知っているのに帰れないのと、帰る場所が分からなくて帰れないは、一体どちらが辛いのだろうか。己ならばどうかと考える。阿近がこの店の厄介になっている理由は、ここに居る迷い込んだ物達と大差ない。帰るべき場所を探しているからだ。帰りたいとも思っているからだ。けれど帰れないことを悲観しているわけではない。今現在、阿近には居場所があり、それなりに充実した日々を送っている。だから。それでも。ぐるぐると思考は回る。
「――ごめんください」
「おや、お客人だね」
「は、はーい! 少々お待ちくださーい!」
店の方から声が聞こえ、阿近の思考が途切れる。どうやら客人のようだ。知らず俯いていた顔を上げれば、紬がよっこらしょと年寄り臭い掛け声と共に立ち上がるところだった。阿近も慌てて来客に応えて店に向かおうとしたが、思わぬところで足止めを食らう。入口に立つ阿近の横を抜けようとした紬が足を止め、じっと阿近を見上げていたのだ。何事かと小首を傾げれば、持ち上げられた人差し指が阿近の鼻先で止まった。
「よすが堂は縁を求めるものの為にある。故に君が帰る事を望むなら縁はいつの日か結ばれる。けれど今の君は、君自身について知らない事ばかりだ。だからこそ、己の選択肢を増やすには学ばねばならない。多くのものを見聞きし、学び、感じ取り、そして悩みたまえ、若人よ」
阿近を捕える金茶の瞳は、胸の内を見透かされるようで落ち着かない。不敵に笑った紬が今度こそ部屋を出てき、残された阿近はといえば敵わないなとため息を落とした。
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