第7話 夢見る筆先(2)

 阿近に案内されたその店は、確かに古い物に溢れていた。ざっと見回した限り、金銭的価値の高そうな物というよりは日用的な物が多い印象である。


「ただいま戻りました。紬さん、お客さんですよ」

「おかえり阿近君。――嗚呼、お客人に出会えたのだね」


 店の中には男が一人。読んでいた本から顔を上げ、視線が墨田へと移る。


「さぁ、どうぞこちらへ」

「こ、こんにちは」

「ようこそよすが堂へ。店主の紬と申します」


 促されて帳場机の前まで移動すれば、傍らの椅子を勧められた。紬と名乗った店主は思いの外若い。骨董屋の店主というのは年配なイメージがあったし、墨田自身が巡ってきた店は実際そうであった。故に年齢が全てではないが年を重ねることで知識を深める業種だと思っていたので、紬の風貌にほんの少しだけ不安を覚えてしまう。

 しかしその佇まいは泰然としていて、若いという理由だけで勝手に期待できぬと決めつける相手ではないと、すぐに考えを改めることとなる。


「さて、本日は何をお探しで?」

「万年筆を探しているんです。新しく手に入れたいのではなく、昔所持していた物を買い戻せたらと思って」

「成程、万年筆を。――所持していたのは貴殿ではないですね?」 

「え? ええ、探しているのは父のものです」


 じっと何かを見定めるような眼差しの紬に、墨田は若干の居心地の悪さを覚えた。しかし万年筆の所有者を問われ目を瞬く。墨田はまだ何も言っていない。簡単な事情を話した阿近は買い物の荷を片付けてくると早々に店の奥へと消えていったので、彼も何も言っていない。もしかすると墨田が万年筆を使うように見えなかったのだろうか。


「ふむ。縁は繋がっているが、その割には薄い。けれど強い」

「縁、ですか?」

「嗚呼、失礼。貴殿が探したいと願っているその想いは本当に強いと、そういうことです。余程父君の手に帰したいのですね」

「はい。でも、もう三十年探してますが見つからないのです。やはり小さな文具一つ見つけるなんて、雲を掴むような話ですよね」


 奇妙なことを言い出した紬に戸惑いながらも、最後の言葉にだけは強く同意できた。父に返してやりたい。その通りなのだが、現状を口にして同時に自信も喪失していく。

 三十年は決して短いとは言えない時間だ。これまで訪れた店でも、三十年前の万年筆を一本、しかも同型のモデルではなく特定の一本を探していると言えば難色を示されたのだから。けれど紬からは否定的な雰囲気がない。それだけで心の重石が一つ取り除かれたような気がして、相談してもいいのだと思えた。


「もしや探し出したいと特に強く思ったのは最近ではありませんか?」

「は、はい。実は先日父が倒れてしまって。今までだって必死じゃなかったわけではないのですが、どこか悠長に構えている節がありました」


 今までだって時間を見つけては万年筆を扱っているという店を訪ねてきた。各地の骨董市にも足を運んだし、例えばネットオークションなども定期的に確認するようにしていた。しかし毎度収穫はなくて、いつからかそれが当たり前だと諦めてもいたのだ。


「もしかしたら探すという行為に満足感を見出していただけなのかもしれません。見つけることから、探すことに目的がすり替わっていたのかもしれない。探してさえいれば、あの日の自分に向き合えた気がしていたから。逃げていないと思えたから。でも父が倒れたと聞いて、危機感を覚えたんです。今のままでは父に万年筆を返すなんて到底無理だ」


 墨田は自身の行動を振り返り、後悔を滲ませて息を吐く。もっと本気で探していたら、こんなにも長引かず見つかっていたのだろうか。


「何故そんなにも見つけたいのか尋ねても?」

「……父が万年筆を手放した原因は、私なんです」



 

 あれは墨田がまだ高校生だった頃の事だ。彼が帰宅すると玄関には見知らぬ靴があり、リビングからは父の困り果てたような声が聞こえてきた。

 

『これは本当に素晴らしい物だ。多少の傷はあるが、それでも美しい』

『いえ、ですからこれは、ですね……」

『頼む! この通り!』

『そうは言われても……』

 

 あの客人は誰だったか。確か祖母の家の集まりで見かけた覚えがある。父の姉の旦那あたりだったような気がする。取り敢えず伯父であることは間違いない。

 それにしても一体何を揉めているのだろうか。頼まれたら断れないお人好しな父が珍しく食い下がっている。それ故の興味が半分、煮え切らない態度への苛立ちが半分。様子を窺って分かったのは、父の持つ万年筆を伯父が譲って欲しいと頼み込んでいるということだ。件の万年筆は墨田にも見覚えがあり確かに綺麗な装飾が施されているが、それ以上に古さが目立つ一品である。大の大人が高がペンの一つで何をやっているのだと、つい溜め息が漏れた。

 

『いい歳して何やってんだよ。廊下まで響いてるぞ』

『ん? 君は――』

『私の息子ですよ』

『あのやんちゃ坊主か! ちょっと見ない間に大きくなったなぁ』

 

 快活に笑い墨田の頭を掻き回す伯父が悪い人でない事はわかる。しかし年頃の墨田にとってはその馴れ馴れしさが鬱陶しく、最初の騒がしい押し問答もあって苛立ちが増した。呆れを吐き出した溜め息と共に投げやりに言い放つ。

 

『で? ペンくらいで何揉めてんだよ。ペンの一本や二本くらい別にいいだろ』

『そ、そうなんだ! これは数量限定のモデルで、ずっと探していたものでね。勿論代わりの万年筆は贈るし、何なら見合ったお代も払う。だから頼むよ』

『ですから、いや……』

 

 墨田の後押しもあり、彼の父は諦めたように肩を竦め頷いた。元々物に愛着を持ち大切にする人だったから惜しむのはわかる。けれど父の様子に少しだけ違和感を覚えた。結局それを気にする事はなかったのだけれど。

 

 しかしあの時もっと違和感に正直だったら、こんな後悔を抱える事はなかったのだろう。




「恥ずかしながらあの時の私は所謂反抗期というやつでして……。父があの万年筆を大切にしていたことは知っていたし、あれ以上誰かに口を挟まれたら断れないだろうことも分かっていた。今考えれば容易に想像がつくのに、嫌なら嫌だとはっきり断れずにいた父の姿に苛立ちを募らせてしまった」

 

 どうしようもなく自分本位だったと墨田が項垂れた拍子に、座っていた椅子が寂しげにキシリと鳴いた。


「あれ以降何処と無く元気を無くした父の様子に母が気付いて、何か知らないかと問われました。私は深く考えずに万年筆の話をしたのですが、母はこちらの方が動揺するくらいに狼狽えていて。その時になって初めて父が渋った理由を知ったんです」

 

 最低限の相槌だけを打ち耳を傾ける紬に目を向けることもなく、過去を懺悔するように滔々と語る墨田はぼんやりと遠くを見据えている。そこに当時の自分自身を見つけたのか、僅かに顔が歪められた。

 

「父は昔、小説家を目指していたそうです。芽が出ることはなかったんですけど、一度だけ何かの小さな賞を取ったらしくて。あの万年筆は父の友人であり一番のファンだった人から、その祝いに貰ったものだったんです」

「ほう、思い出の品というやつか」

「ええ。父は私を責めることはなかったのですが、それが却って気まずくて就職を機に家を離れて疎遠になっていました。しかし先日、父が倒れたと連絡を受けたんです」

 

 幸い今回は大事に至ることはなかったが、父もいい歳である。この先何が起きてもおかしくはないのだと、自覚せざるを得なかった。だから父が生きてるうちに万年筆を取り戻したいのだと、墨田は疲れたように息を吐いた。

 

「一応確認しておきますが、その伯父君へ直接交渉には行かなかったのですか?」

「勿論、真っ先に行きました」

 

 墨田が母から事情を聞かされた時、真っ先に向かったのは伯父の家だった。玄関のチャイムを鳴らす時、酷く緊張したことを覚えている。話を聞いてくれるだろうか。今更何を言うのだと怒られるだろうか。あのような態度を取ってしまった手前気まずさはあったが、燻る罪悪感を原動力にして指先に力を込めた。ピンポンと墨田の心とは対照的に軽快な音を鳴らし、チャイムは住人を呼び出したのだ。


『そんなに大切なものだったとは……。申し訳ない事をしてしまったよ』

 

 覚悟を決めて事情を話せば、拍子抜けするほどに伯父はあっさりと理解を示した。興奮して我侭を通してしまったと、伯父は申し訳なさそうに眉尻を下げている。だから墨田は安堵したのだ。これなら返して貰えそうだと。しかし、伯父の表情は暗い。


『そういうことなら、こちらとしてもお返ししたいのだが……』


 立場が一転したように、今度は伯父は所在なさげに縮こまっている。そんな彼の口から聞かされた内容に、墨田は呆然とした。

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