第12話 春を招く小瓶(2)

 引き戸がガタガタと手こずるような音を立てた。頭一つ分ほど開けられた隙間から遠慮がちに顔を覗かせたのは少年である。年の頃は小学校の低学年くらいだろうか。薄暗い店内に萎縮しているのか、扉の前から動く様子はない。


「……ここ、お店?」

「そうとも。ようこそ、よすが堂へ。探し物があるのだろう? さぁ、遠慮せず中へどうぞ」


 紬が促すも少年は立ち止まったまま動かない。すかさず阿近が中途半端だった戸を開けてやれば、少年がちらと見上げてゴクリと唾を飲み込んだ。伝わってくる緊張を和らげるためにまずは目線を合わせようとしたところで、阿近の背後から瑠璃がひょっこりと顔を出した。


「こんにちは! 私は瑠璃。こっちは阿近さんで、奥にいるのが紬さん。君は?」

「えっと、春樹、です」

「春樹君だね。そこ寒いでしょ? 中でお話しようよ」


 にっこりと笑う瑠璃に幾分緊張が解けたのか、春樹がそっと一歩を踏み出す。胡散臭い笑みを浮かべる紬や、長身の阿近では、いらぬ威圧を与えていたのかもしれない。怖い顔をしてるつもりはないのにと、棚に置かれていた鏡を覗き込んだ阿近が無言で頬を揉んで、我に返って手を離す。視線を感じてそちらを見れば、紬が愉快そうに阿近を見ているではないか。わざとらしい咳払いで誤魔化しながら、視線を合わせやすいよう春樹に椅子を進めた。


「さて。改めて、ようこそ春樹君。私は店主の紬。今日は何をお探しかな?」

「ここ、何を売ってるの?」

「ふむ。そうだね、なんでもあると言えばあるし、無いと言えば無い。けれど、この店に招かれた以上は手ぶらで帰ることはないと約束しよう」


 紬の曖昧な物言いは混乱を与えたようだ。春樹が難しい顔をして小さな唸り声を漏らした。


「難しく考えることはないさ。君は何を探していたのかな?」

「あ、あのね、桜のクスリをさがしてるんだ」

「桜の? その桜は病気なのかい?」

「ううん。そうじゃなくて、さかせたいの。水をあげても、ぜんぜんさかなくて」

「ねぇ、春樹君。今は冬だから、もう少し暖かくなるのを待ったら良いんじゃないかな。そうしたらお花見ができるくらいにいーっぱい咲くよ」


 思わずといった様子で瑠璃が口を挟んだ。窓の外を見ればまた雪が降ってきたらしい。ふわふわと白がちらついていて、冬であることを主張している。これが桃色の花弁に変わるのは、まだ大分先の事だ。


「そんなの知ってるよ。でもぼくは今さかせたいんだ! お花屋さんにも行ったけど、そんなクスリはないって……」


 しゅんと項垂れた春樹はぷらぷらと足を遊ばせて黙りこくる。瑠璃が慌てて謝罪をすれば気にしていないと首を振った。春樹は近所の花屋をいくつか回ったが、どこも春を待てという返答だったらしい。だから否定されて嘆くよりも、何度も同じ答えを聞くことに辟易しているようだった。


「どうして桜を咲かせたいんだい?」

「お母さん、桜がすきだから! だから桜見たら元気になるんだ!」

「ほう。それは喜ぶだろうねぇ」

「うん! お父さんとお母さんとお花見に行ったときにね、こんくらいの桜を買ったんだ。そしたら、お母さんがさくのが楽しみだねって。お母さん、桜だいすきだから!」


 春樹は話しているうちに気持ちを持ち直したようだ。身振り手振りを交えて楽しそうに思い出を語っている。そこから察するに、どうやら家族で花見に出かけた際、桜の盆栽か鉢植えあたりを購入したらしい。


「お母さんね、今は病院にいるんだ。でもちょっとだけお出かけしていいって言われたから帰ってきてくれるんだって!」


 つまり入院中に一時帰宅する母へのサプライズといったところだろうか。母親の病状がどのようなものかは分からないが、桜の開花が快気に繋がると心の底から信じているのだ。微笑ましく、健気な願いだった。

 ちらと小瓶を見下ろした。これは彼女が応えたくなるのも納得である。


「成程。それは是非とも母君に桜を見せてあげたいね」

「そうなんだ! 桜のお世話もぼく一人でしてる。お母さんといっしょにやってたから、ちゃんとおぼえてるんだよ! だけど、たくさんお世話してもさかない」

「大丈夫さ。君の気持ちはきっと桜にも伝わっている」

「ほんとう?」

「本当だとも。だから私からも君の母君が元気になるよう願って、贈り物をあげよう」


 本題を思い出し肩を落とした春樹に、紬がゆるりと笑んだ。その指先が摘みあげた小さな小瓶を見て、瑠璃が「あ、それ」と声を漏らす。それは先程瑠璃が見つけた《春水》或いは《雪の涙》と呼ばれたものだった。


「阿近君。彼女をしまっていた箱を取ってきてくれるかい?」

「分かりました」


 倉庫へと向かう阿近を見送り、紬は春樹へと視線を戻す。大きな瞳が不思議そうに小瓶を見つめていた。


「これはね《雪の涙》という特別な水さ。君の願いを叶えてくれるものだ」

「桜、さくの?」

「その通り。これを桜にあげてごらん。きっと咲くだろう」


 使い方は簡単だ。桜の根元に小瓶の中身を全部撒けばいい。流石にすぐには咲かないが、一晩か二晩か経った頃には君に応えてくれるはずさ。


 不安と期待が入り交じった表情で、春樹は紬の手の中でちゃぷりと揺れる小瓶を眺める。けれどソワソワとした面持ちは期待の方が勝っているようだ。そんな様子を見やり紬がくすりと笑みを落とすと、徐に指を一本立てて神妙な面持ちで口を開いた。


「ただし注意点が一つある。桜が咲くように、これをあげる時にはよぉく願うんだよ」

「うん! わかった!」

「紬さん、持って来ました」

「嗚呼、ありがとう」


 受け取った箱に敷かれた布を整えそっと小瓶を寝かせると、その縁をそっと撫でて柔らかく微笑んだ。それは別れを惜しむようでいて、旅立ちを祝福するかのようでもある。

 阿近が以前聞いた話によれば、この小瓶は店にある品の中でも取り分け古いものだったらしい。つまり付き合いが長いということだ。なればこそ、紬が寂しさを感じても不思議ではないのだろう。


「さぁ、春樹君。これを受け取るといい。君の母君が元気になるよう、私も祈っているよ」

「えへへ、ありがとう!」


 手渡され箱を受け取り、大事そうに抱えた春樹が満面の笑みを浮かべた。早く試したくて仕方がないと浮き足立つ様子は少々危なっかしい。それに、そろそろ子供一人を帰すのが不安になる時分でもある。

 ちらと窓の外へと目を向けた紬がふむと顎を一撫ですれば、同じく外を眺めていた阿近と目が合った。どうやら考えることは同じらしい。


「紬さん、暗くなってきたので春樹君を送って来ますね」

「そうだね、それがいい。宜しく頼むよ」

「あ、それじゃ私も! せっかくだから一緒に帰っていいですか?」


 今にも駆け出しそうな春樹を制しながら、三人は店を出ていった。

 

 途端静けさに包まれる店内に、紬はほぅと息を吐く。今日はもう客人も来ないだろう。ならば茶でも煎れようかと立ち上がりかけて、ふと動きを止めた。視線の先には桜が一枝。これは小瓶と共に箱の中にしまっていたもので、春樹に渡す際に取り出したものだ。そっと拾いあげればふっくらとした蕾がゆっくりと綻んでいく。


「くくっ、気が早いなぁ」


 小さな枝に桜が一輪。

 茶よりも先に花瓶が必要だと、紬は今度こそ立ち上がった。

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